第6話「ミミ先生は異世界談議をしたくない」

 その頃、屋上へと続く階段を駆け上がる一人の教師――近江実夕おうみみゆの姿があった。

 悠真たちのクラス、二年二組のクラス担任を務める彼女は、手にしたプリントの束を落とさないよう気をつけながら、空いた手でドアノブを回す。

 キョロキョロと屋上を見渡して目的の人物を見つけると、カツカツと足音を鳴らしながら近づいた。


「あれ、ミミ先生じゃん。どったの、こんなとこに」


 健児が間の抜けた声でそう尋ねた。

 ミミ先生とは、沙希が勝手につけてしまった実夕のあだ名だ。面白がった健児が実際に教室でそう呼び始めてしまったせいで、すっかり定着してしまっている。

 本人は最初こそ恥ずかしがっていたが、生徒からは親しみやすいと評判で、今では自己紹介のネタとして自分から広めているほど本人も気に入っている。

 実夕は学生の頃から名前を覚えてもらえないのが悩みだったため、あだ名で呼んでもらえるのに少し憧れていたのだ。


「やっぱりここに居たのね。藤代くん、水上くん、先週出した課題、まだ提出してないでしょ。締め切りは今週いっぱいだって言ったわよね?」

「……やば、忘れてた。鞄の中に入れっぱなしだ……。持ってきてはいるので、放課後には提出します」

「提出物はなるべく早めに出してね。私の仕事が溜まっちゃうから。で、水上くんは?」

「……前向きに検討します……」

「政治家みたいなこと言って誤魔化そうとしない。まだやってないならちゃんとそう言いなさい。……はぁ、来週の月曜日には必ず出すこと。いいわね?」


 仁は目を合わせないまま「わかりました」と小声で答えた。

 実夕は不安に思いながらも、それ以上強くは言わなかった。

 ため息をこぼす彼女に、沙希がベンチから飛び上がると勢いよく挙手をした。


「ミミ先生ミミ先生! もし異世界に行けるとしたら、行ってみたいと思いますか?」

「い、異世界? え、なに、急に……?」


 突然振られた話題に実夕は戸惑いながらも、少し考えてから口を開いた。


「そうねぇ……もしあったら、行ってみたいわね。おっきいフェンリルの背中に乗って世界中旅したりしてみたいかしら」

「おぉー……、先生さては異世界モノに詳しいですね?」

「そ、そんなことないわよ。普通よ、普通。ほら、神話にも出てくるでしょ、フェンリルって。私、学生の頃そういうのに興味があったから」

「へぇー……なるほどぉ……」


 フェンリルという具体的な名前が実夕の口から出てきたことに対し、沙希は素早く食いついた。

 ファンタジーものの定番とはいえ、妄想の具体例として出てくるにしてはイメージが明確すぎる。

 沙希は「ミミ先生も異世界好きの同好の士なのでは?」、と疑っているようだ。


「いいですよねぇ、北欧神話。私も大好きなんですよ~」


 にやにやと笑いながら話す沙希とは対照的に、実夕はぎこちなく笑いながらおろおろとしていた。

 ……ど、どうしよう。実は私がオタクで、しかもネットに夢小説を投稿しているような人間だってことは絶対にバレないようにしないと……!

 教師になる前から隠れオタクとして生きてきた実夕にとって、教え子にオタバレしてしまうことは恐怖でしかなかった。実夕が学生の頃は、まだまだオタクに対するイメージが悪かったため、ひたすらに隠し通してきたのだ。

 教師になり、時間が経つにつれて世間の風当たりも大分変わってきたとはいえ、実夕の恐怖心は未だに消えてはいない。

 沙希の追求をどうやって回避しようかと考えているところに、悠真が横から助け舟を出した。


「沙希、そのぐらいにしとけって。先生困ってるぞ」

「はーい。先生、今度ゆっくりお話しましょう! その時は、おすすめの作家さんの小説とか紹介するので!」

「え、えぇ……楽しみにしておくわね。それじゃあ、私は次の授業の準備があるから……」

「お疲れさまです、先生」


 そそくさと屋上から立ち去る実夕に、鷹嘴たかはしだけは律儀に頭を下げた。


「ミミ先生、やっぱり美人だよな」

「それは同感。もっとオシャレしたらいいのに」


 健児と八尋やひろは腕を組みながら、うんうんと頷いている。

 実夕は教職だからと、いつも最低限の化粧しかしない。

 アクセサリーも付けず、服装に関しても無地のシンプルなブラウスの上にカーディガンを羽織り、ロングスカートを履いていることが多い。

 なんとも色気のない話だと、学校の男子たちはよく嘆いている。


「何年か前に文化祭でコスプレ大会やったときに、ゲストとしてミミ先生が参加したら人気投票ぶっちぎりで一位だったって話を聞いたことあるけどな」

「それ、私も聞いたことがあります。会場が撮影禁止だったらしく、当時の写真はほとんど残ってないそうですけど」

「何気にそういう話に詳しいよね、ともちゃん」

「手芸部兼文芸部だからね。学校新聞とかも作ってるし……うわさ話とか、結構好きだし」


 ――キーンコーンカーンコーン。


 話をしている間に時間はあっという間に過ぎ、昼休み終了のチャイムが鳴り響く。

 動かしたベンチを元に戻してから、悠真たちは教室へと戻っていく。


「今日はいつにも増して賑やかだったな」

「いつも人一倍うるさいだろお前は」


 などと軽口を叩きながら階段を下りていく健児と仁の後ろを付いていこうとする悠真に、


「あ、お兄ちゃん」


 沙希が後ろから話しかけた。


「私、放課後はともちゃんとスーパーに寄って帰るね。今日の夕飯の当番私だから」

「あぁ、わかった」


 沙希が朋花ともかと一緒の場合は、買い物前にオシャレなカフェでご休憩してからが定番となっている。

 悠真は二人の時間を邪魔しないようにしようと思いながらも、家の惨状を思い出して、


「なるべく早く帰ってこいよ。部屋の片付けしなきゃいけないんだから」

「うぇー、そうだった……お兄ちゃんやっといてー」

「バカ。手伝ってやるから、お前も一緒に片付けろ。お前の部屋だろ」

「そうよ沙希、自分の部屋ぐらい自分で片付けなさい。年頃の女の子なんだし。お兄さんに見られて恥ずかしいものとかあるでしょう」

「恥ずかしいもの……恥ずかしいもの? うーん……ないかも?」

「そういえばそういう兄妹だったわね……。はぁ、沙希の将来が心配だわ」


 ……妹を心配してくれる友達が居てくれて、兄としては嬉しいんだけどな。

 気苦労をかける朋花に対し、悠真は心の中で感謝するのだった。


  †


 ――放課後。

 ホームルーム終了後、悠真はプリントを提出するために、教室を出ようとする実夕を呼び止めた。


「先生、これ。……すみません、遅くなって」

「はい、次からは気をつけてね。それにしても、藤代くんが課題出すのが遅れるなんて珍しいわね。何かあった?」

「……いえ、そういうわけでは。ちょっと悩んだだけです」


 提出したのは進路希望調査のプリントだ。

 悠真は大学へ進学するつもりではいるが、特にやりたいことも行きたい大学もない。

 ただ知っている近くの大学の名前を適当に書いただけだった。

 実夕は悠真の表情から何かを察したのか、担任らしく優しく言う。


「まだ時間はたっぷりあるわ。これは事前調査みたいなものだから。藤代くんは成績もいいし、これからゆっくり考えればいいわ。あんまり悩みすぎないでね」

「はい。ありがとうございます」


 ありきたりな言葉だが、悠真の心を少しだけ軽くしてくれたようだ。

 悠真は一礼すると、鞄を手にして教室を出た。

 いつもは沙希を待って一緒に下校するのだが、沙希は昼休みに話していた通り、今日は朋花と一緒に帰ることになっている。

 健児は塾で、仁や八尋は部活。

 ……一緒に帰る相手がいないのって、久しぶりかもしれないな。

 廊下で他のクラスの知り合いにすれ違いざまに挨拶をしながら、悠真は一人下駄箱へ向かった。

 靴を履き替え校舎を出ようとする悠真の背中に、小走りでやって来た澪依奈れいなが声をかけた。


「藤代くん、ちょっとお時間いいですか?」

「鷹嘴? 別にいいけど……どうかしたか?」


 ……今日は本当に珍しい日だな。一日に何度も鷹嘴に話しかけられるなんて。

 澪依奈は手ぶらなようだ。

 まだ帰らないのだろうか、と悠真が考えていると、澪依奈は無言ですたすたと彼に歩み寄ってくる。

 澪依奈はおもむろに、悠真の両手を手に取りまじまじと見つめ始めた。


「ちょ、鷹嘴なにをっ――!」


 ――突然、澪依奈に手を握られてしまって固まる悠真。

 雪のように白くて、人形のように華奢な少女の手。

 悠真の目は、澪依奈の顔と握られた手を何度も行ったり来たりする。

 澪依奈はとても真剣な様子で、悠真の声も届いていないほど何かに集中しているようだ。

 たっぷりと十秒ほど悠真の手を握ってから、澪依奈はようやく悠真を見た。


「実は先日、手相占いの本を少し読んだので、藤代くんで試してみようかと思いまして」

「て、手相……?」


 ……ずっと見てたのは俺の手のシワ……ってことか?


「本で見るのと実際に手相を見るのとではやっぱり違いますね。もっと勉強して来ますので、また今度見せてください」


 澪依奈はそう言って、悠真の手を離した。


「あ、でもこれだけはわかりましたよ」

「……期待はしないけど、一応聞いてみようか」

「明日の夜は雨が降りますね」

「それはただの天気予報だっ!」


 悠真の占いに対する猜疑心がさらに強まるだけの結果となってしまった。

 肩を落とす悠真に澪依奈が頭を下げた。


「帰るところを引き留めてしまってごめんなさい。それでは、また来週学校で。道中お気をつけてくださいね」

「あぁ、ありがとう。じゃあまたな」

 鞄を肩に担ぎ直して、悠真は昇降口を出て行った。

 

  †


 歩き去る悠真の後ろ姿を見つめながら、澪依奈は大きく息を吐き出すと、ポケットからスマホを取り出して指を動かす。


『やっぱり間違いないみたいです。もう少し調べてみます』


 誰かにトークを飛ばすと、既読がついたことを確認してスマホの画面から目を外した。

 すでに見えなくなったクラスメイトの背中を追いかけるように、昇降口の外を見つめる。


「何もないといいのですが……」


 その憂慮ゆうりょは、一体何に対してのものだったのか。

 遠くから聞こえる部活動に励む生徒たちの声が、誰もいない昇降口にまで響き渡る。

 澪依奈はスマホを握りしめたまま、教室へと戻っていった。

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