そして明治へ

終話 元町夕薬師


 慶応三年、増徳院の本堂と門が落成した。

 居留地や異人墓に囲まれた元町で、日本の寺ここにありと示す立派な姿だと弁天は思った。もちろんそんなに大きな堂宇ではないのだが。


 同じ頃に根岸の丘には馬駆け場が出来た。駆け乗りを行う所で、立派な常設の客席がある。これも居留地覚書で決まったことだそうで、だからどれだけ馬が好きなのと弁天は笑い転げた。

 新しく山手に建てられた家々から遊歩道をたどり、根岸湾を見晴らす不動坂上の馬駆け場まで通う外国人。途中には西洋式の茶屋であるコーヒーハウスが出来ている。馬車に乗るのはヒゲに帽子の男性と、ふんわりしたドレスという服を着た女性。まったく異国のような光景が横濱に出現したのだ。


 だが日本は騒乱に沸いていた。

 将軍に続き、天皇も替わった。討幕の気運が高まる中で政権を朝廷に返すの将軍職を辞すのと議論したが定まらず、争う内に江戸に賊を送り込んだ倒幕派までいたらしい。市中の治安は急速に悪化した。

 その後王政復古と決するが、新政体を作るのに紛糾。横濱商人の関心事は諸外国との貿易がとどこおりなく維持されるかだった。


 明けて慶応四年となり、鳥羽・伏見を皮切りに日本の内で戦が続く。

 表向き各国とも局外中立の立場を取ったが、幕府に入れ込んでいたフランス公使ロッシュの旗色が悪くなるのは致し方なかった。慶応年間になって幕府が親フランスに乗り換えたと不満を抱えていたイギリス将兵は快哉を叫んだだろう。駐屯地には駐屯地なりのいがみ合いがあるのだ。


 そしてなんとも皮肉なことだが、あんなに横濱を騒がせ怖がらせた駐屯軍が居すわっているおかげで今の横濱は動乱に無縁だった。

 江戸に向けて東海道を進軍する薩摩の兵も横濱は素通りする。薩摩藩はイギリス式の調練を学びに横濱に来ていたので、こちらに銃口を向けるはずもないのだ。西洋の装備には敵わないと彼らは身に染みていた。

 そのイギリス公使パークスの圧力もあって江戸は無血開城。さらに二十日後、英ビクトリア女王の信任状により、新政府は初めて外国より正式承認されることになった。




 秋口に江戸が東京と改められ、さらにひと月半すると元号は明治に。


「これからは天皇がいちばん偉いんだね」

「日本の人の世では、です」


 弁天の言葉を、念のため宇賀は正した。

 開港から十年。あちこちの国の旗が掲げられる居留地を歩き回り、世界は広いのだと宇賀もよく知っている。日本など極東の島国。しかも神仏妖異をのぞいた人のみの世といえば、ちっぽけなものだ。

 その小さな人の世の内、さらにささやかな土地の鎮守である弁天は、増徳院の門前から元町の通りを見渡した。夕暮れ近いにもかかわらず人が出ている。


「誰が上に立とうが、我の横濱が踏みにじられないならそれでいい」


 国内ではいまだ旧幕府軍と新政府軍の戦いが続いている。フランス軍顧問の一部が旧幕府海軍に同調して離脱するなど居留民をざわつかせる出来事もあったが、横濱はおおむね穏やかだった。

 世が変わっても横濱は栄えゆく。その心意気を示すかに、今日は増徳院薬師堂の初めての御縁日だ。これからは八のつく日の恒例にすると玉宥が張り切っている。

 元町通りのこの人出は、あちこちに吊られたカンテラに火が入るのを見るためだった。その灯りがともるのはもう少し暮れてから。

 西洋から持ち込まれたカンテラはまだ日本人には普及していないのだが、そこは西洋物品を扱う店のある元町。鹿島屋洋物店の栄作が嬉々として調達してくれたし、新し物好きな店主たちがこぞってそれを購入し、軒に提げた。おかげで噂が広まり御縁日初日から賑わっている。


「大成功だね、薬師ちゃん」

「私は何もしていないもの。元町のみんなが頑張ったのよ」


 御縁日の本尊である薬師は、そう謙遜しながらも嬉しそうだ。

 たくさんの人が薬師如来と御縁を結び、健やかでありたいと願うための日。衆生の祈りをできる限り聞き取りたいと思う薬師はそっとお堂に引っ込んだ。


「我らは行こっか、宇賀の」


 黙ったままの宇賀だが、かすかに微笑んだように見えた。弁天が歩き出すとちゃんと隣に並んでくれて、当たり前にそうなるのが心地よい。人混みに二人は寄りそった。

 通りには様々な物を売る出店が並んでいて、お詣りに行く人も帰る人も浮かれ気分にさせられる。食べ物屋も表に七輪を出して干物を炙ってみせ、旨そうな匂いに引き寄せられる人々の腹の音が聞こえそうだった。

 そんな人波の向こうに見えた駒ノ屋の前では又四郎と小夜が客を呼んでいた。


「あれ、小夜が子をおぶってる」

「おや。近頃見ないと思ったら、そういうことでしたか」


 元町を歩いても立ち話につかまらないのは、子を産み育てるのに忙しかったからのようだ。

 そっと通りすぎようとしたら、もう一人トコトコ歩く男の子が店から出てきた。それを追ってきて引き戻したのはフミ――いっそう背が曲がり縮んだようだが息災で、ひ孫の面倒をみているらしい。弁天は宇賀と顔を見合わせた。


「おぶってるのは二人目ってこと?」

「そんなに会っていませんでしたか……」


 宇賀ですら首をひねった。これだから人の時の流れはうかうかしていられない。


「だけど――楽しいね」


 弁天はにっこりと宇賀を見上げた。その笑顔をまぶしそうに見つめた宇賀が口を開きかけた時、人々の歓声が湧く。カンテラに火を入れ始めたのだ。

 増徳院前の一丁目から順にともっていく灯は見たことのない輝きだった。


「うわぁ……」


 さすがに弁天も感嘆の吐息をもらす。遠くまで見ようと背のびしてよろけたところを宇賀が受けとめてくれて、弁天ははにかんだ。


「ありがと」

「いえ――」


 すぐ胸の前にいる大切な主。宇賀は先ほど言いかけたことをあらためて口に出した。


「こんな景色も、あなたと見るから楽しいのです」


 弁天の目が一瞬見開かれた。そしてすぐ、花がこぼれるように笑む。

 そう、弁天もずっとそう思っていた。同じなのだと不意に伝えられ、心にも灯りがともったような気がした。


「――うん」


 ひと言こたえる。弁天と宇賀ならば、それだけでいい。

 カンテラの照らす愛しい横濱元町を、二人はまた並んで歩き出した。そして、これからも歩いていくのだ。

 新しい世を眺めながら。



                         終


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