元治元年(1864年)春から夏
第31話 差し入れの苺
「弁天ちゃん、起きてる?」
増徳院境内の端にある弁天堂。扉の外から低く柔らかな声が掛けられた。真っ昼間なのにそんな気づかいをしてくれるのは薬師如来だ。
「どうぞお入り下さい」
宇賀がそっと招き入れると、ほの暗い室内では弁天が大きなあくびをしていた。同じ寺にお堂を構える友だちだけに弁天が寝こけているだろうとお見通しだったが、薬師は苦笑いだ。
「やっぱり寝ていたの?」
「うとうとしてただけ」
「いいえ、ぐっすり眠っていましたよ」
冷静に告げ口されて弁天は唇をとがらせる。しかし何か言う前に薬師が小さな
「薬師ちゃん、それなあに」
「ふふ。これはねえ……」
薬師はとすん、と弁天の前に座る。
「オランダ苺、というそうなの」
「オランダ? いちご?」
「山手に西洋野菜の畑ができて。そこで採れたそうよ」
弁天は目を丸くした。かわいらしい果実をのぞきこむと、ふわ、と甘い匂いがする。なんとなく春を感じさせる香りだった。
思わず笑んだ弁天を見て宇賀は安堵した。最近の弁天は悲しげにふさいで引きこもるばかりなのだ。珍しい物を持ち込んでくれた薬師に内心感謝しながら宇賀は尋ねた。
「見た目はモミジイチゴよりヘビイチゴに似ていますね。酒に漬けて薬に?」
何か新しい薬でも試すのかと思ったのだが、薬師は首を横に振る。
「八百屋の言うには、このまま食べていいそうなの。弁天ちゃんも一緒にいただきましょう」
「へえ、食べるんだ」
弁天は首をひねった。ヘビイチゴはあまり味がしない。漬け込んだものを搾って薬にすることが多いので、似ているこれもてっきりそうするものかと。だって薬師如来なのだし。
「……え、これ薬師ちゃんが八百屋で買ってきたの?」
薬師はあまり買い物などしないのを思い出し弁天は訊き返した。
大柄な体ゆえ、愛らしい弁天とは別の意味で目立つ薬師。人と交わるのを避けて遠くで見守るのが常だったのに。
「お賽銭が貯まっているから、気にしなくていいのよ」
「じゃなくて、人と話したんでしょ。珍しいじゃない」
「――見慣れない苺があったから。近頃は元町の八百屋に異国の野菜を置くことがあってね。これなら弁天ちゃんが喜ぶかと思って」
「――ッ! 薬師ちゃあん!」
弁天は苺の上を越えて薬師の胸に飛び込んだ。豊かな体がしっかりそれを受けとめてくれる。よしよしと背中をなでながら薬師は言い聞かせた。
「あんなに出歩いていた弁天ちゃんがフイとお堂にこもってしまったでしょう。皆が心配しているからね?」
「うん……」
照れくさそうに弁天はうつむいた。
薬師だけでなく、増徳院の僧侶たちまでが弁天を案じている。それは、昨年夏のフランス軍駐屯以来の引きこもりのせいだった。
黒羅紗の上着と赤い下履き、ケピ帽をかぶったフランス軍。上陸して来た日には、隣人となる元町住民も遠巻きに怖々見守っていた。だが向こうも初めての日本の家並みや人々の装いに面食らったかもしれず、お互い様だ。
姿を見せなくなった弁天は、その兵士たちを怖がっているわけではない。ただ、なんとなく悲しかったのだ。胸がつぶれて動けないまま、半年以上過ぎてしまった。
「だって我の村の内なのに、我の手の届かない所ができてしまうなんて。ため息がとまらなかったんだよ」
「とまらなかったのは寝息です」
宇賀にかかれば弁天はふて寝していただけということになる。だがもちろん弁天の様子にいちばん心痛めていたのは宇賀のはずで、それを何故きちんと言わないのか。素直じゃない忠実な従者に薬師は微笑んだ。
「兵が集まっていても町の皆はなんとか暮らしているわ。弁天ちゃんも元気を出してね」
「……うん」
「薬師さま、この方が半年やそこら表に出ないのは、すこし前なら当たり前のことでした。どうぞご心配なさらずに」
「ああ、そうだったわねえ。でも昔は何年か経っても村の様子が変わらなかったから、それでよかったのでしょう? 今はどんどん移ろっていくんですもの」
フランス軍に遅れること五ヶ月ほど、イギリス軍もやってきた。そちらは赤い上着に青羅紗の下履きで、さらに大人数。だがフランス兵に慣れてきていた住民は大勢で歓迎したのだった。
「旦那さん!」「いらっしゃい!」。女たちも声を張り、にこやかに手招いたのは元町の店に来いとの売り込みだ。商魂たくましいその様を、宇賀から聞いて弁天は知っていた。
「我がいなくても皆ちゃんと暮らしているようで何よりだけど」
「またあなたは、すぐに拗ねる」
「拗ねてるんじゃなくて。我らは、なんなのだろうと思ったの」
人に頼られ信じられ。こちらも人を慈しみ土地を愛おしみ。
神仏がいなくても人は生きていくものだろうか。人がいなくても神仏はただ土地や獣とともに在るだけだろうか。
「そんなことを考えてしまってね。だって我らのことなど何も知らない、言葉すら通じない兵らが横濱にはいるんだもの」
「弁財天さま――」
そんな横濱がいけないと言うのではない。
命のいとなみ、世の行く末は不可思議だ。そうして暮らしていく人々を見つめているのが、やはり好きだと弁天は思った。
「――うん。そろそろ、また町に出ようか」
「おともします」
そうなるのはわかっていたと言わんばかりに宇賀が控える――だが、今はまずオランダ苺をいただこう。
小さな赤い草の実は、酸っぱく、少しだけ甘かった。
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