安政六年(1859年)夏
第7話 港が開かれた
潮風に松葉ささやく
ここはこれまでと変わらない。社の内にいれば、だが。
「さあて、
昼下がり、弁天は伸びをして言い出した。
四日ほどこちらに滞在しただけなのに、もうそんなことを。以前はうっかりすると何ヵ月も惰眠をむさぼりかねなかった弁天の変わりように宇賀は苦笑した。
横濱の港が開かれてまだ
「我は村の鎮守だもの。行く末を見届けなければね」
「偉そうにおっしゃいますが、異人の着ている服や異国の言葉の看板を見るだけで大はしゃぎしていますよね。私の気のせいでしょうか」
「……宇賀の。それは言いっこなしだって」
五年前、黒船が横濱沖に現れ和親条約を結んで帰っていったのは記憶に新しい。
その後しばらくは何の変化もなかったのだが、やはり世は動き出し、横濱村はそれに巻き込まれていった。通商条約により神奈川に港を開くと決まってからは、あれよあれよだったのだ。
以前の応接所付近だけではなく、砂洲全体に工事の手が入った。木が伐られ土が削られ平らに均されて町割りがなされ、
真ん中の駒形には波止場が造られた。その前には船荷と船員をあらためる運上所。そこより南の増徳院側が外国人の町とされ、弁天社側が日本人町だ。
一から町と港を造るとあって人足が集められる。世界との商いを求めて日本のあちこちから商人がやってくる。横濱村も周りの村も、突然の移住者であふれかえっていた。
「何かしてやれるわけでもないけど――我の村だから。見ておきたいじゃない?」
父祖からの土地も蔵も捨てて立ち退けと言われた横濱村の民は大騒ぎで抵抗したのだ。それを抑えるべき立場の名主たちは辛いところだがよくやったと思う。立ち退き料と替わりの土地で村人を説き伏せた。
まだ村の端で漁を続けている家もあるが、日本人町に店を持ったりしない者は多くが砂洲を出て移り住むことになった。増徳院裏から東西に続く丘の裾だ。
ひとりひとりに想いはあれど、それを呑み込んで開いた港。見守ってやらずに何の鎮守か。弁天はいちおう本気でそう思っている。
弁天社を出ると、もう以前とは違う活気あるざわめきが流れてきた。
一の鳥居の外には茶屋が建ち、その向こうには真っ直ぐな道が造られていた。その名も弁天通り。だが今は、のんびりお詣りする者などなく荷車を牽く者と大工ばかりが目についた。何かの掛け声と槌音が、終わる夏の青空に抜けていく。
「宇賀のはさあ、ふんどし一丁とか法被とかの方が人に紛れられるよ。そんな男ばかりいる」
「あなたの隣をそれで歩けと?」
宇賀は目を剥いた。そんなわけにいくか。自分で言ったくせに弁天もクスクス笑う。
「そうだねえ。ふんどしの宇賀のを連れていたら、我は何者だろうか」
今の宇賀は濃藍の着流し姿。まだ日中は暑く、シャリリとした麻の肌合いが気持ちいい。
それにつけても最近の宇賀の悩みは、
「剃っても格好良いとは思うんだけどな」
「……見たいですか」
「ううん。いつもの宇賀のでいい」
見たい、と弁天が言えば宇賀は瞬時にそうするのだろう。たかだか数百年の風習や作法に倣うこともないと思って総髪を貫いているだけなのだし。
それは人の世から一線を画す宇賀なりの矜持だったが、弁天のためなら何でもない。だが自分の名のついた通りを歩き出した弁天は首を振った。
「時に流され過ぎることもないよ」
横濱村の砂洲は跡形もないほどに姿を変えた。
右手に広がる入海も埋められつつあるが、すぐ脇の
変わるもの。残るもの。人の世はすべてが
横濱の地に突如立ち上がることになった開港場の家並すらも愛おしげに眺め、弁天はそっと宇賀に寄り添った。
変わらぬ者もちゃんといるから、それでいい。
「はろう!」
雑踏に異国の言葉が耳に飛び込んだのは、運上所のあたりだった。見れば淡い茶色の髪の外国人たちが、道行く日本人の少年に声をかけている。顔見知りのようで、相手もぺこりと頭を下げていた。
「友だちなのかな」
「まさか。商売のつながりでしょう――あれ、あの日本人、弥助じゃないですか」
「え」
立ち止まっているのはまだ細身の少年。その顔は確かに弥助で、弁天は目を丸くした。
「異人と話してるよ? あの子、言葉がわかるの?」
「さあ……」
弥助は名主の一人、中山の縁者だ。中山の家は開港場で商いをしようと試行錯誤しているところだったから、外国人相手に話す機会もあるのだろう。ひげ面の外国人は弥助の肩をポンとして笑顔のようだ。
「ぐっぼーい! しやつもろう!」
「ばーい」
笑顔で何やら言い返す弥助は堂々としたものだ。参拝の作法も知らなかった子がまあ、と笑ってしまう。だがあれから五年が経ち、弥助の背は弁天より高くなっていた。もうすぐ大人になるのだった。
手を上げて立ち去る外国人と、会釈する弥助。面白いものを見たと弁天がニヤニヤしていると、そこに悲鳴のような声がした。
「きみ! 君、今のはイギリス語かね?」
声を掛けられたのは弥助だった。外国人町の方からヨロヨロと来たのは、何やら疲れはてた風の若い日本人だった。
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