第4話 軍楽隊の音色
横濱村の真ん中に急ごしらえした応接所は、広間に玄関、庫裡など合わせて百畳もあるそうだ。ほんの三日ばかりで建てきったのは、元々
「それは頑張ったねえ」
「幕府の面目がかかっていますし」
周りに
今日はいよいよ黒船の長と会見だ。幕府、アメリカ、双方の使いは毎日のように行き来しているが、親玉のペリーという男には与力の香山も会わせてもらえなかったのだとか。
「偉そうに、もったいつけるものです」
「うーん。たぶん、本当にそこそこ偉いんだよ」
諸々がとにかく気に食わないらしい宇賀が突っかかるのが面白くて弁天は笑いをかみ殺した。
応接所の周りには、ここより内に入るべからずと矢来が組まれている。だがそれは、そこまでなら行ってもいいということ。人々が詰めかけるのも無理はない。
弁天も参加したかったのだが、宇賀に叱られてやめた。押し合いへし合いに混ざるのは神としてどうかと言われれば反論しにくい。そこは村人たちに譲ってやることにして、やや離れた海辺からのぞきこんでいるのだった。
「ふふん。我も分別がついたものだよね」
「ほめてもらいたがるのは子どものすることだと愚考しますが」
「……宇賀のは我に厳しい」
「あなたが自分を甘やかすからです」
と、二人のくだらない言い合いをさえぎるようにドォンドォンと大きな音が鳴った。びくっとした弁天を宇賀が背にかばう。集まる人々からも悲鳴が上がるのが聞こえた。
「――
「戦?」
「そんなはずは」
宇賀は目を細めて幕府の役人たちの様子をうかがったが、整然としている。儀礼としての空砲の手順はアメリカ側から伝達済みで、遠くからながめる弁天たちがそうと知らなかっただけだ。
「大丈夫みたいですね」
「……おどかしっこ無しだよ、もう」
ほっと胸をなでおろす弁天は、群衆の後ろの方でぴょんぴょんと跳ねて前を見ようとする子どもに気がついた。先日お詣りに来た弥助だ。
怖い物見たさか好奇心か。とにかく新しい何かを知りたい。
その気持ちはここにいる皆が同じなのだろう。弥助はまだ冷たい波に足を突っ込まんばかりに海にはみだし、続々とやってくる異人たちの小舟に釘付けだ。
その舟の上、何やらきらきらと陽光を反射するのは身に着けた物か。あるいは手に武器でも抱えているのだろう。
「異人さんだって、知らない国まで来るのは怖かったろうね……」
「じゃあ来なければいいでしょうに」
「まあまあ、喧嘩腰になるのはやめようよ」
むっつりする宇賀を笑っていると、ぷわぁー、という妙な音が響いた。
「は?」
弁天は振り返る。
ぷわん、ぱっぱ、ぷわん、ぱーん、ぱ。
「――?」
聴いたことのない音色だ。異国の楽器だろうか。笛のように思えた。重く軽く太鼓も鳴っている。
明るく、やや間抜けな音。だけど何やら楽しげだ。
「これはアメリカの
「でしょうか」
目を見開いたまま、弁天は耳をそばだてた。これでも歌舞音曲にはうるさい。だって弁財天だから。
知らない音階。不思議な調子。弾む音。
なんだろう、これは。どきどきする。
横濱村の空に広がる遠い音をつかみたくて、ふわりと弁天の腕が泳いだ。
「弁財天さま――」
真剣な顔で音楽に聴き入る弁天に、宇賀はそっと寄りそった。
「ぱーらぁーら、ぷぁーぱん! ぱらっらぷぁーららー!」
「そろそろやめませんか」
繰り返し聴こえた音律を耳で覚え、下の宮弁天社に戻っても口ずさむ弁天。宇賀はさすがに嫌になって控えめに苦言を呈した。
お社の中、
耳を押さえるのは主に対して失礼だと思いつつ、宇賀は頭を抱えてしまった。なのに弁天はけろりと言い放つ。
「だって面白かったんだもーん」
「そりゃ初めて聴く曲調でしたけども」
「あの音、どんな楽器だったんだろう。やっぱり近くで見たかったなあ」
知らない笛太鼓。またどこかで鳴らしてくれないものだろうか。
弁天にとって音楽は、黒船よりも大砲よりも衝撃的な異国との出会いだった。ふわふわと揺れる身体を見れば、心に楽を奏でたままなのがわかる。宇賀は苦々しくうめいた。
「
「いる内に見てみたいな。琵琶みたいなのもあれば、さわりたいし」
「……あなた本当に、それ以外どうでもよくなっちゃってるんですね」
「え。宇賀の、何か怒ってる?」
「そういうわけでは」
「だって、だってね。我は弁財天なの」
なんだそれは。たしかに芸事の守護者弁財天なので異論は唱えにくいが、子どもの言い訳――ため息をついたその時。
「――ねえ弁天ちゃん、いるかしら?」
とんとん、とお社の戸を叩くのと同時に低く豊かな声が呼んだ。中の主従が顔を見合わせる。この声と、しゃべり方は。
宇賀は戸を開けて丁重に頭を下げたが、後ろから弁天がひゃらひゃら笑った。
「どしたの、
「ずるいわ、あなたたちだけ逃げちゃって」
入ってきたのは、弁天と同じく増徳院にお堂を持つ、薬師如来だった。
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