第3話 下の宮弁天社
やわらかな海風が吹き、松の枝がかすかに揺れた。波音と葉擦れが響き合って耳に心地よい。
松林に囲まれたここは、下の宮弁天社。本尊を増徳院に移す前には、こちらが弁天の住処だった。今では別宅といったところか。
「こっちは景色がいいし、のんびりしようね」
「追い出されて来たかたちなのが不本意で腹立たしいのですが」
お社の前には清水の湧く池がある。そこに掛かる橋の上に立ち、弁天は松越しに沖をながめた。そこには相変わらず黒船が錨を下ろし留まっているのが見えた。
機嫌の悪い宇賀をちらりと見て、弁天は肩をすくめる。
「怒ることもないでしょ。徳右衛門はちゃんと考えているらしいし、皆の暮らしが立つなら任せておけばいいよ」
「……そういうところ、あなたは神様ぶりますよね」
「だって神様だもーん」
笑われて、宇賀はブスッと黙った。
追い出されたと言っては
横濱村字駒形の浜でアメリカ使節の応接所普請が始まると同時に、増徳院に
増徳院裏の丘にも浜にも二本差しがあふれ、異人と村人の間に何も起こらぬよう見張りがうろうろしている。黒船に近づくことはまかりならぬ、とお触れも出されていた。
そんな中、弁天たちが目立ってはまずい。神だの仏だのがふらふら
表に出ずにいてくれれば〈秘仏〉ということにして戸は開けさせないと清覚は言ったが、こんな面白そうな時にお堂にこもっているのは嫌だ。弁天はさっさと抜け出してきたのだった。
「でも物見高いのは我だけではなかろ?」
「あなたそれでいいんですか。人の子と同じですよ」
海にはいくつもの小舟が出て、黒船を遠巻きにしていた。近づき過ぎぬよう、役人も舟を出して
元々ここは物見遊山の客が来る風光明媚な場所だ。だが今は皆が弁天社を素通りして海をながめてばかり。それも宇賀にとっては立腹の種だった。
「誰も彼も黒船、黒船と……絵を描いている奴までいます。あれは瓦版にでもするんでしょう」
「わあ、横濱村の名が知れ渡るねえ」
「こんなことで知られても嬉しくないです」
「本当に虫の居どころが悪いなあ」
逆に笑い出した弁天を見て、宇賀はますます不機嫌だ。苦々しく声を絞り出す。
「――あなたの村が踏みにじられるのは、嫌だ」
「ふふ。宇賀のは
さらりと言われて宇賀はぐっと言葉に詰まった。弁天はかまわずに辺りを見渡した。
横濱の砂洲は、江戸湾と
黒船が浮かぶ湾からぐるりと北を見やれば東海道の神奈川宿。そこから野毛の山を経た西側の入海は埋め立てられた所も多い。増えた江戸の人の口をまかなうため、田になったのだ。
「人の世が移り変わるのはいつものこと。しばらく泰平だっただけでも良しとしようよ」
弁天が宇賀に微笑んだその時、二の鳥居の向こうに一人の男の子が現れた。歳の頃は九つか十ほどだろうか。小走りなのを端によけてやると、真っ直ぐお社に駆け寄る。真剣な面もちだ。
「弁天さま! ええと、あ」
お社に向かって何かを言いかけ、慌てて手をペチペチと合わせる。懐から竹皮の包みを出してキョロキョロしたあげく、賽銭箱の上にそっと置く。お供え物なのだろう。どうやら参拝の作法を覚えていないだけで、弁天を敬う気持ちはあるらしい。
「あの、どうぞいくさになりませんように!
心に念じるどころか大声で願い事を告げる姿がいじらしくて弁天は目を細めた。だが言われた事には悲しみをおぼえる。黒船との戦を案じているのか。
「――小夜という子は、駒形から立ち退いたの?」
男の子に近づき、弁天は話し掛けた。振り向いて目をぱちくりされ、笑ってしまう。
「びっくりさせたね。小夜は、友だち?」
「あ、うん。じゃなくて、はい!」
弁天の身なりで良い家の者だと考えたか、子どもなりにしゃっちょこばって答えてきた。
「そなたの名は?」
「
「ああ」
弁天に問われて名乗った弥助の顔に、宇賀は思い当たる。知った子だ。赤子の頃からお詣りに連れて来られていた。
「
「なんだ、中山の」
近くの名主の縁者の家だ。小夜もここらの子ならば家は無事なはずだが。怪訝な顔をしたら、弥助はしょんぼりと教えてくれた。
「小夜んちは、いくさがこわいって
「――そうなの」
弁天は弥助の頭をなでた。
興味津々で集まる者もいれば、逃げる者もいる。幕府と黒船の交渉がうまくいかなければ戦いになるかもしれないのだ。
「何もなく済んで、小夜が戻るといいね」
「うん」
見上げてきた弥助に、弁天は供えられた包みを返した。中身は握り飯のようだ。
「これは持って帰ってお食べ。弁天さんは、弥助が大きく育つ方が嬉しいから」
弥助はきょとんとしたが、包みを受け取ると頭を下げ、駆け出していった。見送る弁天がつぶやく。
「小夜……小夜……どんな子だっけ。可愛かったかな? きっと弥助にとっては可愛いんだろうねえ」
下世話にぐふふ、と笑う弁天に、宇賀は冷ややかな視線を送った。
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