第45話 その名は嫉妬(1)

「姉さま!」


 エリザベートの悲鳴があがった。

 みれば、なんだかんだで、アレクサンドルが自分でエリザベートとアンリを送ってきてくれたようだった。アレクサンドルの、テレーズと同じ顔が、呆然としている。


「あの、マルグリット夫人、テレーズ殿下はどうなされたのですか……?」


 アレクサンドルが、「姉さまはなぐられた!」と泣きじゃくるエリザベートを制しながら妖艶な貴人に聞く。

 マルグリットは、次期スリゼー公爵たるアレクサンドルを見て、ばつのわるい顔をした。


「……」


 そして彼が、何の屈託もなしにエリザベートと一緒にいて、アンリを抱き上げているのを見て、おどろいたようだった。

 受け入れられないものを見るように。だが、すぐに苦笑する。


「スリゼー女公爵のご子息は何とお優しい」


 アレクサンドルはその皮肉にすぐ気がついたようだった。久しぶりに彼は、社交界での優雅の仮面を被った。目をせながらいう。


「第四王女殿下と、国王陛下と王妃陛下のご子息でいらっしゃいます。お守りするのは当然だと心得ています」


 マルグリットは「忠勤ちゅうきんに励んでいるのか」と小馬鹿にするように息を吐くと、去っていった。


 テレーズはひどくため息をつき、エリザベートとアンリに「おいで」と手を伸ばす。二人が寄ってきたので、抱きしめる。


 アレクサンドルが眉をひそめた。


「マルグリット夫人と何があったんだよ」

「わたくしのほうが聞きたいくらいよ。ねえ、アリー、マルグリット伯母さまって、嫁のシャーリーに厳しかったり、ヴィニュロー公爵がいちいち手を出した侍女につらくあたられたり、する?」


 いや、とアレクサンドルは首を横にふった。


「息子に異常な愛情を注ぐから、息子が何やっても鷹揚おうような調子で、なにも叱責しない。女の側にも親切だ。神の寵愛と同じだというような感じで。いつだったか、ヴィニュロー公爵が人妻に手を出して、その夫と争いになりかけた時などは、夫人は夫を罰して国外追放に処した。その人妻もすぐ飽きられたが。——こんなのが実質的な最高権力者である我が国を憂うよ。てかどういう法律でその夫を国外追放に処したんだか。貴族を追放するのは、殺人や凶悪な強盗でもしてないかぎり、この国では無理。そういうふうに、テレの父上が定めたじゃないか」

「そうねえ。でも、なんとかなってるじゃない」


 動揺を抑え、わざとのほほんとテレーズは答えた。お父様の定めた法律がないがしろにされている、と荒れくるう内心を隠しながら。


「なんとかなっているから困るんだよ。人格が下劣で法律破りなやつが仕事ができて社会から重宝されるなら、どうして法律があるんだ。どうして人格を磨けと言われるんだ?」


 その答えを出すことができていないテレーズは肩をすくめて笑い、侍女を呼んで自分の手当てをさせた。


 ***


 プレヴェールは、「肺炎のほうはすっかり回復いたしました」という内容のテレーズの手紙を受けとると、安心したような微笑を漏らした。

 返信を書き、クラヴサンの生徒からもらった手紙を入れている箱に丁寧にしまう。


 彼にとってテレーズは、言い方は悪いが、好ましい生徒の一人に過ぎなかった。もちろん、彼女の慎ましやかで穏やかな人柄に好感は持っている。その宝石を思わす美貌にも圧倒されている。社交界では信じられない噂が流れていてみがまえたが、それは本人に会えばうそだとわかる。


 そんな噂を流す貴婦人たちよりもはるかに、クラヴサンを彼女が飽きてしまっても交流は続けたいひとりだ。もし、——フレデリックが暗に告げたように亡くなってしまっても、折に触れて墓には参じるだろう。


 それゆえに彼女との散歩に応じている。それ以上でもそれ以下でもなかった。


 それはテレーズもわかっているようだった。ほかの貴婦人にありがちな妙になまめいた視線を送ってくることもない。ただ、医師などから散歩をすすめられているが、女ひとりで外を出歩くのが不安だから身近にいる男性のプレヴェールに散歩の同伴を頼んでいる、という態度を崩さない。



 時間がきて、シエル宮殿に参ずる。

 今日はヴィニュロー公爵が是非演奏を聴かせてほしい、と依頼があった。


 薄青うすあお白銀はくぎんをおもわす色の宮殿の車止めまでいくと、最低限の人数の侍従がプレヴェールを案内した。


 ——ん?


 宮殿に入れば、ほとんど誰もおらず、閑散としていた。

 普段華やかで賑々しい公爵夫人はおらず、生まれたばかりの子供もいないようだった。当然それに付いている人々も。


 待つように指示された部屋で待つ。


 ぼんやりと壁にかけられた絵画を見た。噂によれば、シエル宮殿は歴代の王太子が住まう宮殿で、あまり絵画などをおいていないそうなのだが、ヴィニュロー公爵が住むようになってから、爆発的に絵画が増えたのだという。


 絵を好み、音楽を好み、芸術を愛する。

 ただし結婚前の公爵は好色で、侍女や女官、人妻に見境なく手を出しては飽きた。結婚後は妻と仲睦まじく、誠実に生きているらしい。


 侍女が静かにやってきて、窓が開け放たれた。かおりうるわしい秋薔薇の香気がいちめんにただよう。

 庭のかぐわしい薔薇園も、やはりヴィニュロー公爵が住むようになってから植えられたらしい。

 薔薇、ゆり、ジャスミン、水仙、ヒヤシンス、フリージア……。香りと色彩の氾濫に、訪れるたびにプレヴェールはむせこみそうになるような庭だった。趣味が悪い、とは思わないが。


 こぎれいな侍女が無言で庭のバラを摘み、部屋に戻ってきて、プレヴェールのまえでクリスタルの花瓶にバラをいけた。


 それが合図だったのか、ヴィニュロー公爵がお呼びです、と声がかかった。


 呼びつけられた場所は音楽室であった。しかも、だれもおらず、ヴィニュロー公爵ひとりがいる。彼はいつもの金糸や銀糸を刺繍にしている色鮮やかな服ではなく、黒い服に身を包んでいた。それでも美しい、いや、そのほうが美しい。


 一瞬だけ、強くおどろおどろしい情念を感じた。まるでクラヴサンの生徒である貴婦人が、プレヴェールに肉体をも要求してきたときのような。

 ひんやりと、視線がプレヴェールの首筋へ向けられる。だが、ヴィニュロー公爵はすぐに穏やかな笑顔に戻った。


「今日は残念ながら、聴衆は私ひとりだけだ」

「は、はい」

 すなおに求められるまま、クラヴサンの演奏をする。 

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