第44話 まだ彼を愛しているのね、可哀想に

 都合の良い夢を見た日に限って、最悪な現実が姿をあらわす。


 テレーズは自嘲しながら本を閉じ、とまどう侍女たちに、「お通しして」と告げた。

 ゆるやかな衣服をあらためて、きっちりとした服に着替え、化粧をする。


  客間におもむけば、ひとの祖母とは思えないほど若々しく美しいマルグリットが微笑みながら座っていた。伯母は、かわいい姪と二人きりで話したいことがあるの、と侍女たちを遠くへと下がらせた。


 フレデリックはいないらしい。


 ほんとうにご夫妻でご一緒することがないのね、と思っていると、なにも言っていないのに、マルグリットが気品ある優しい声で答えた。


「ロベール陛下が熱発なされているとか。フレデリックはそちらの面倒をみているそうですよ」


 陛下、というものいいに、絶妙な皮肉を感じた。


 兄のロベールは国王とはいえど病弱で実権を握りえず、今また、王妹テレーズがカトライアで受けてきた凶行に衝撃を受け、王妃の不貞にも衝撃を受け、さらにはヴィニュロー公爵が次期国王に確定しつつあるという事実にも懊悩おうのうし、ほとんど座所であるラ・メール宮殿から出られない。


 兄の心は晴れることなく、いつも泣いている、という。


 テレーズは少しだけ、自分たち兄妹はヴィニュロー公爵に壊されていく、と気づいた。自分は、それでもいい気がした。なかなか兄妹そろって死なず、しびれをきらした「彼」に殺されても。

 ただ、アンリはそうはいかない。そして、だれもアンリを守ってくれる人はいない。アンリを守れるものを、テレーズは作らなければならない。


 伯母のあかい唇が弧を描く。


「テレーズ、あなた、遺言状を公開したでしょう」

「はい」

「そんなに早く死んではだめよ。だれもが悲しみます。もちろん、レオン殿下は特に」


 テレーズのあおい瞳が揺れた。伯母はそれを見逃さず、姪の青白い頬に手を当てる。


「テレーズ。こんなに青白い顔になっても、肺炎を繰り返す明日をもしれない身体でも、シャルロットにレオン殿下の心が移ってしまっても、まだ彼を愛しているのね。可哀想に」

「――わたしは」


 うふふ、とマルグリットは甘く微笑んだ。姪の細い肩を撫でて。


「感情を押し殺す必要などありません。わかるわ。あなたはひどく苦しんでいる。レオン殿下への愛情を抱いているのに、かなわない。だから苦しい。しかも、結婚もできず、子供も産まず、何もできない、ただ死を待つだけの王女だもの。妹に愛する人を奪われてね。あなただって、少しくらいは――」

「違います」


 声に少しだけ色を出してしまった、とひどく後悔したとき、伯母が笑いながらテレーズの襟首えりくびをつかんだ。


「違うの? ええ、テレーズ? じゃあ、遺言状をいますぐ撤回なさい」

「伯母さま、おっしゃっていることがよく……」

「そんなに激しく否定するということは、わたくしのいうことが真実だということ。あなたはレオン殿下を愛している。愛していて、でもシャルロットに奪われて悔しいから、ヴィニュロー公爵が相続する分の領地が少ないの。そんな邪念は捨てて、いますぐちゃんとヴィニュロー公爵の家格にふさわしいぶんの領地を、あなたの愛おしいレオン殿下に差し出しなさい」


 テレーズはうつむきながら、伯母の言葉を反芻はんすうする。


「愛おしいレオンさま……」


 伯母は、姪の柘榴ざくろ色の唇から漏れるその切ない響きを、気分よさげに聞いていた。


「わたくしは彼をだれよりもお慕い申し上げていたのに……。みんなでわたくしから彼を引き離し、妹が奪い去っていった……」


 その魂からの静かな叫びは蜜よりも甘く、痛ましく切ない。マルグリットは勝者のように笑みを浮かべる。


「そう、テレ―……」

「——とでもおっしゃっていただきたいのですか? 伯母さま。ご愛息がちやほやされれば誰でもうれしゅうございますもの」


 テレーズは顔をあげ、いたずらっ子がいたずらに成功したときのような笑みを浮かべた。マルグリットは唖然あぜんとする。


「テレーズ?」


 テレーズは伯母がよろこぶような言葉を紡いだ。


「だって、伯母さま、お喜びになって。遺言状には続きがあるんですもの。モーテルピュイ大公領そのものは、に差し上げます、って。でしたら、ヴィニュロー公爵殿下にはほんの少しわたくしの遺領の相続を我慢頂いてもよろしいではありませんか」


 次の瞬間、テレーズの予測では、子息が次の国王であると常に宣言している伯母は歓喜の表情に顔をほころばせるはずであった。だが、マルグリットの瞳に恐ろしい嵐が宿る。――嫉妬と情念の渦巻いた何かが。


 肩をひどく揺らされた。


「こんどは、そうやって、そうやって、――レオン殿下へ媚びを売るのね!」


 テレーズはなぜ伯母が怒っているのかわからず、茫然とした。伯母は絶叫する。


「あなたは愛されていないの。レオン殿下から髪の毛一筋の先ほども愛されていないの。彼はシャルロットに夢中なの! その証拠に、いままで侍女がレオン殿下のお世話を申し上げていたねやには、シャルロットしか参上しないのよ! 閨での交わりも激しくて――」


 思わず、テレーズは恐怖より、薄気味悪さや、そこまで知られている「彼」はどんな気持ちだろうという思いが先に立って、疑問をこぼしてしまっていた。


「伯母さまは……、どうしてご子息のそういう事情までご存知のなのですか? もうちゃんとした妻のいらっしゃるお方に、……やめてさしあげたらいかがです」

「あなたに何がわかるの?」

「いえ。出過ぎたことを申しました」


 もはや「彼」にとって何者でもないテレーズは目を伏せる。だが、マルグリットは怒りをおさめなかった。侮辱された分。


「シャルロットに比べて、かわいげのない!」


 ぱしん、とひどい張り手の音がした。ぽたぽたと血が床に垂れた。また、唇が切れて、出血したらしい。まえも同じことがあった。


 どうしてこの伯母にうとまれなくてはならないのだろう。自分はなにかしただろうか。伯母がいとわしいのはエリザベート、またはアンリであり、彼らの面倒をせっせとみるテレーズがうとましいのだと思いこんでいた。エリザベートやアンリと、息子をかかわらせるな、と思っていたのでは、と。


 ——でも、ちがう。


 今回はそんな案件ではない。

 最愛の息子の心を奪った女が、とかいうものなら、むしろうとまれるべきはシャルロットであるはずなのに。シャルロットは彼から深く愛されているのだから。



 ——わたしがいくら愛したところでねえ。


 テレーズは「彼」から一顧だにされていない。ひょっとしたら愛されているかもしれないと勘違いした時期もあった。カトライアから救出された時期。結婚約束をかわしかけた時期。相手は、であり、従妹であり、主君のひとりであった自分に優しかっただけだ。

 彼にとって自分は遊んでいい存在だった。


 がたり、と音がした。

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