7、波紋
第43話 夢幻と婚約者たち
気づけばテレーズは、その青年の腕のなかにいて、ちょうど身体が離されたところだった。自分が腕に何かを抱いている感触もあった。
声が降ってくる。
「本当にテレーズ様に似ている」
幸福に満ちたりた顔をしているテレーズは「あなたにも」と腕に抱いている子の顔をのぞきこんだ。
子供は女の子だった。可愛らしいレースのおくるみにくるまっていた。ずっしりと重く、体温が伝わってくる。
うふふ、と笑っていると、テレーズの肩を叩いてくる人間がある。ふりむけば、あいかわらずふがいなさそうだが、穏やかで嬉しそうな顔をした兄と、しっかりした兄の妻、ベアトリクス王妃であった。彼女も息子のアンリをつれていた。
「将来、その子はぜったい、アンリのいいお友達になるわ」
王妃さま、と胸が温かくなる。そう、王妃は、ほんらいは素朴で優しい人なのだ。
死んだはずのスリゼー公爵が、遠くのほうでエリザベートにお菓子をいくつもあげている。なぜなのだろう。
シャルロットは、乗馬をするんだと意気込んで、おしゃれな乗馬服に身を固めて男性陣を魅了しており、カトリーヌはあいかわらず祈っていた。
少し視線を転じれば、テレーズの子供の祖母、つまり伯母のマルグリットが一生懸命になってつたない裁縫をしている。子供服を縫っているらしい。かんしゃくを起こして布を破りそうになるのを、マルグリットの夫であるフレデリックが止めている。
テレーズは、ああ、ありがたいな、と思った。なんと幸せなのだと。
いとおしい人と結ばれるということが、その人とのあいだに子供を産むということが、こんなにも幸福なことだとは思いもしなかった。
この世に生まれてきてよかった――。
目が覚めた。
ねずみが天井をかける、かさかさかさという音と、雨が降ったあとのかび臭い香りがする。ぽちゃ、ぽちゃ、と水滴の音もする。アンリに約束したとおり、雨漏りがしているようだから直してもらわないと。
フルール宮殿は古いぶん、かなりぼろぼろだ。
いや、とテレーズはひどく咳きこんで気づいた。自分は肺炎を起こしているから、雨漏りの修繕はもう少し先だ、と。
馬鹿みたいな夢を見ていた。
――自分は
テレーズは自分で自分をあざ笑った。
肩を震わす。あまりの自分の阿呆さに笑いがまったくもってとまらない。
はたと笑うのをやめ、身を起こしたあとにうずくまり、なにかを叩き潰すように、
テレーズの肺炎がひどいというので、エリザベートはアンリをつれて、婚約者であるアレクサンドルの屋敷にいた。
アレクサンドルは、婚約者となった自分より十も年下の少女をにらみつけた。
「おまえと結婚するつもりはないからな。しかるべきときになったら、婚約破棄してやる」
「しかるべきとき?」
お気に入りのクマのぬいぐるみを抱きしめている少女は首をかしげた。
「いつかということだ」
「いつ? あした? あさって?」
「すぐはさすがに外聞がある。一年後とか二年後とかだ」
エリザベートはにっこりとした。
「一年もあったら、とってもなかよくなれるね!」
「おまえのその底なしの前向きさはどこから来るんだよ。僕は少女趣味の変態でも、家庭教師でもないの。未来、この国とこの国の王家をお支えする――」
「お庭つれてって!」
エリザベートはクマのぬいぐるみを床に置き、両手を伸ばした。
「何回見るんだよ。今日だけで五回くらい見に行ってるぞ」
「リスいるから」
それであっても、アレクサンドルは少女を言われたとおりに肩車し、中庭に連れていく。中庭に大きなクスノキがあり、そこにリスがいるのを、エリザベートはたいそう気に入っていた。
兄や長姉、重臣からの溺愛を一身に集める王国の無邪気な末姫は、婚約者という名の物見台を得て、得意顔をして木の枝にいるリスに手を伸ばそうとする。
だが、リスはすぐに高いところへと逃げた。なので、姫君は婚約者に無茶なことを言い放つ。
「もうちょっと背が高くなって!」
「ふざけるな」
姫君は地面へとやや乱暴に下ろされた。そして、乱暴に下ろされたことに腹を立てた姫君は、暴言を放った。
「いじわる。あなたよりねえ、ヴィニュローのおにいさまのほうが、うんと背が高い!」
アレクサンドルのこめかみがぴくぴくと動いた。
「はあ? すけこまし公爵と比べるな!」
「姉さまがねえ、手のとどかないところのものをとりたいとき、かならずヴィニュローのおにいさまをよんだの。それで、おにいさまがものをとると『すごーい、ありがとう、すごいわ、レオン!』ってほめて、それでもっといろいろてつだってくれるという……」
怒りに顔をそめかけていたアレクサンドルは目を丸くし、意外な情報を聞いて噴きだした。
「へえ……、テレって、ヴィニュロー公爵にもてあそばれたって評判だけど、逆にテレのほうがもてあそんでるじゃないか……」
「もてあそんでない、とおもう。姉さまは、そうおもって、きずついてる、けど」
「は?」
エリザベートは周囲をくるくるとみまわし、うーん、うーんと考えこんだ。
「その。おにいさまは、姉さまを、もてあそんでない、とおもう。ただ、大魔王がとんでもなくモウイをふるい……」
「いや、おまえなに言ってんだよ」
エリザベートは、
アレクサンドルは、うわあ、と眉をひそめた。涙を袖でぬぐう少女の小さな頭をなんだかんだで
「おまえも苦労してきたんだな。父母のいない子どもに、この国は
「仲がわるいんじゃない、姉さまがいじめられてるの!」
エリザベートは頬を膨らます。
「姉さまは、……おばさまにきらわれてる」
「なにかしたんじゃないか? ああ、公爵夫人の息子への愛情は異常だ。だから、」とアレクサンドルはテレーズの物真似をした。「……わたくし、レオンって足の裏が臭そうでちょっと苦手だわ……とかあのオバさんの前でテレがうっかりいっちゃったとかさあ」
エリザベートは首を横に振った。
「姉さまはそんなことしない! なにもしないのに嫌われてる。ヴィニュローのおにいさまとはおともだちだった。とぉーっても仲良し。おばさまやおにいさまの悪口も、わたくしにでもいったことがない」
アレクサンドルは、ふうん、と考えこんだ。
***
窓を開けると、すっかり晴れていた。自分の
テレーズは、すっかり熱も下がったから、エリザベートとアンリを呼び戻そうと考えて、侍女に話した。彼女は、ほっとした表情をしている。
食欲も戻ってきて、とろりとした玉ねぎのスープを完食した。
あと、一日ゆっくりしていれば、完全に回復しそうだ。
そう思って、ゆるやかな衣服に身を包み、部屋で読書をする。
ちょうど盛りあがるいいところで、玄関のほうからばたばたと騒がしい音がした。
「テレーズ!」
伯母の、――マルグリットの声だった。
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