第41話 幸福そうな妹夫婦

 馬車から現れたのは、いかにも幸福そうな妹夫婦であった。


 妹のシャルロットはもうすでに目立ってきたお腹を抱えて、幸せそうにその腹を撫でていた。その夫は、やはり穏やかな笑顔で妻を見ていた。


 テレーズは小さくため息をついた。なんと幸福そうな光景なのだろう。


 ふたをした過去から記憶を取り出す。

 テレーズは懐妊したとき、嬉しさはなかった。恐怖が先にたった。なにを「夫」に言われるのかと。

 「夫」は喜んだだろうか。つわりで苦しんで、「夫」の要求に応えられずにいた。「豚小屋」に入れといわれてもお腹が大きくなり、苦しくて入れなかった。そんなことが積み重なり、石造りの階段へ突き飛ばされ、上から下まで転がり落ちた記憶しかない。


 そして、テレーズの腹に宿った生命は消えた。母からも愛されず、父から殺された。


 ——もっと宿ったことを喜んであげればよかった。


 テレーズはもう二度と子供を身ごもることはない。夫も持てない。恐ろしい暴力の前で、すべてが無に帰していった。ほんとうは喜びたかった。なにも楽しめず、なにも悲しめず、恐怖がすべてを支配し、我が子を授かったことさえ喜ぶことができなかった。


 シャルロットは常に喜び、楽しがっている。カトライアに行くのを嫌がり、好きなことばかりしても、ただ人から眉をひそめられるだけ。そのうえで、ヴィニュロー公爵と結婚した彼女は、人間として賢い。


 ひるがえってテレーズはどうか。妹のかわりにカトライアに行き、すべてを壊されて帰ってきても、幸福だと思っていたものは自分の愚かと無知から成り立っていて、伯母からうとまれて社交界にひどい噂をばらまかれ、はたから見れば、ただ死を待つだけの存在となっている。


 ——「こんなの間違ってる」と叫べる人もいるだろうけれど。


 間違ってなどいない。正しい人生をシャルロットは歩んでいる。

 シャルロットは自分が幸福になることを考えていたので幸福なのだ。

 間違いではない。自分が幸福になるために努力を惜しまない人間が、幸福にならなくてどうする。


 そして、テレーズがいまから幸福を願ったところで。もう「彼」を失ってしまったテレーズにとっての幸福とは、なにかわからなかった。わかるのは、アンリを玉座につけることと、エリザベートが安心して過ごせる場所を作ること。それ以外にテレーズの生きる目的はないということだけだ。


 自嘲が止まらない。自嘲などしている暇はないのに。


 袖が引かれた。


「姉さま?」

「……え? ……あ」


 テレーズは我に返った。エリザベートが不安そうにこちらを見ている。


「どうなさったの」

「急にね、深刻な用事を思い出しちゃって。なんでもない」

「しんこくなようじ?」


 プレヴェールが「失礼ですが」と控えめに声をかけてきた。


「姫様、……お休みになったほうがよろしいのではありませんか?」

「……そうかしら」

「お顔が真っ青ですので、馬車をお呼びいたしますね」


 彼はまったくテレーズの事情などわからないだろう。わからないなりになんとかしてくれるその心遣いがありがたかった。


「ありがとう」


 すぐにフルール宮殿から馬車がきて、テレーズはプレヴェールやエリザベートとともにそれに乗りこんだ。


 

 その様子を、妹夫婦ののほうが、茫然と見ていた。

 彼が翡翠ひすい色の瞳で見ていたのは、最初はテレーズだった。彼女が父の招きに応じ、戻ってきていることはうすうす知っていた。「王宮」のどこにいるのか、だれも教えてくれなかったが。

 だが、ふと、彼女の隣に、物静かそうだが、優雅な容姿の若い男がいるのをみた。彼に視線が集中していく。彼女が、彼と親しげに話していた。

 その翡翠の瞳はひどく動揺し、困惑し、実態を無くし、地面を見た。眉を寄せ、薄暗い情念を瞳に宿す。だが、次に顔をあげたとき、穏やかな笑顔の仮面をまたつけなおしていた。

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