第39話 クラヴサン教師

 テレーズは物静かで優美な青年をある部屋へといざなった。

 その部屋にはいくつかの楽器が置いてあり、真ん中にクラヴサンが置かれている。


「フレデリックがね、ほんとうに良いクラヴサンの弾き手だからって、申していたの。わたくし、本当に小さいころ習ったっきりで、四年くらい前に再開したのね。でも全然上達しなくて。いい先生はいないかしらって、探していて」


 青年はまたもや頬を桜色にそめた。


「恐縮いたします。フレデリック殿下が私をそう思し召していただいていたことも、殿下にご紹介いただいたことも」


 青年の名はエルネスト・プレヴェールという。若いのに非常に評価の高いクラヴサン奏者だ。人格も控えめで穏やか、そして容姿も優美。社交界でも人気をはくす。

 フレデリックはプレヴェールを呼び、日陰者となっている王女のクラヴサンの指導をしてくれないかと頼みこんだ。


 ——姫様は、ほんとうにご苦労の多い方でな。私にもお嘆きの深さははかりしれない。おそらく、お育てしているお子さまがた以外にも、お心の支えが必要であろう。最近、楽しそうにクラヴサンをお弾きになる。月に何度か参じて、お教えして欲しいのだ。


 それで、プレヴェールは断るという発想もなく、うなずいた。

 プレヴェールはまず、テレーズの望みに応じて、彼女の今弾いている曲を弾いてみせた。テレーズは顔を真っ赤にし、ついで、顔を両手でおおって、声を立てて笑った。


「……やだ。こんな曲だったのね。やっぱり我流がりゅうで弾いていたらだめねえ」


 姫君の愛らしいしぐさに、プレヴェールは顔をほころばす。姫君はクラヴサンの前に座り、「はずかしいのだけど」と同じ曲を弾いてみせた。

 黙って聞いていた優秀なクラヴサン奏者は、静かに姫君に語りかけた。


「姫様、おそらく、姫様は基礎を学ばれれば、たいへんお上手になると思います。これから、指を動かしやすくする練習をなさり、それから曲をお弾きになられるとよろしいかと」


 テレーズは「ありがとう、頑張るわ」と微笑んだ。


 その部屋の外で、アンリを肩車し、エリザベートによって顔に落書きをされているフレデリックが「——姫様、頑張ってくださいませ」と泣き崩れていた。

 


 ある日、テレーズはレッスン中にプレヴェールに思い切って聞いてみた。


「先生は、いろんな夜会でもお弾きになるのでしょう?」


 プレヴェールは伏し目がちに、「少々」と答えた。


「わたくし、肺が強くなくって、あまりそういう会に出られないの。でも、先生からお話をお伺いしたいわ」

「はい」

 彼はうなずいた。テレーズは二、三質問をすると、彼はよどみなく答えた。


 ——プレヴェール先生は、使える。いいお方だし。


「先生、ありがとうございます。またお教えください」


 プレヴェールはまぶしそうにテレーズを見て、「いくらでも」と優しく微笑んだ。


 テレーズは、女官とプレヴェールから知った情報を組みたて、亡きスリゼー公爵の言葉を思い出し、そのときの貴族の対立の様相を知る。


 スリゼー女公爵は息子の非業の死の恨みで、水面下ではマルグリットを忌み嫌っている。だが、それを親しい人間以外に顔に出すことはない。

 新しいグランシーニュ侯爵は謹厳実直。いまのヴィニュロー公爵の華麗なやり方に反発している。

 マルグリットのやり方とシャルロットのやり方は、「派手なことをさらに華やかに、派手にする」というものなので、金が非常にかかる。

 国王に子がいることは忘れ去られており、ヴィニュロー公爵が次期国王であることは動かしがたい。


 テレーズは静かに目を閉じ、沈思した。


 ——なるほど。


 であれば、遺言状のうち、アンリの件はあまり出さないほうがいいだろう。

 だが、もうひとつの件は出してみる価値はある。


「あとは、シャルロットがいつ出産するかわかればいいのだけれど……」


 おおよその出産予定日は割り出せるので、それまで着実に足場固めをするほかない。


 数日後、テレーズは散歩をし、『王宮』の修道院で、修道女でもないのに祈りを捧げているカトリーヌを引っ張って、グランシーニュ侯爵夫人のいる屋敷へとおもむいた。

 そのまた数日後、今度は散歩がてら、エリザベートを連れてスリゼー公爵邸へおもむいて、お茶会をした。

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