第38話 隠伏

 壁にすきまが空いていて、もう五歳になったアンリは「……」とそのすきまを見つめた。

 なにか転がって出てくるかもしれないと、すきまに指をつっこむ。

 すると、何より先に叔母のテレーズが近くへ転がりこんできた。


「まって! 危ないわ!! 指挟むわよ、アンリ、やめて」


 テレーズは壁から引き離すように、甥を抱きしめた。


「すきま、ある」


 アンリがいうと、テレーズは「ぼろぼろねえ」と困った顔をしてため息をついた。


「フルール宮殿はとても古い宮殿だから、ところどころぼろぼろなのよ」

「なおす?」


 テレーズは手を横に振った。


「直さない。雨漏りしたらお願いしようと思うけど、すきまからねずみが出ても、猫を飼えばいいし、このすきまはそこまでじゃないわ」


 十二歳のエリザベートが「すきまいっぱーい」と言いながら、このあいだからお姫様教育の一環として習っている舞踏の練習をしだした。まだまだ下手だが、本人が楽しそうなのでいいだろう。ただ、集中しすぎてへとへとになるのが困る。


「ほどほどにね。リジー。もう少ししたらお茶だから」


 エリザベートはにっこりした。


 表面上は何も変わらない。ずっと。テレーズは妹のエリザベートや甥のアンリの面倒を見て、慎ましやかに暮らしている。ときどき体調を崩し、庭づくりに精を出す。最近はクラヴサンもはじめた。


 表向きにでも変わったことといえば、今までの気立てのよく明るい女官たちは何人か結婚してやめてしまい、新しく女官を入れたことだろう。

 彼女たちは兄とフレデリックがみつくろってきたが、少し華やかだった。主人が慎ましやかな生活をしているとわかると、悔しがって華やかな生活に変えろと迫る。しゃべる話は醜聞も多かった。

 ただ、テレーズたちには誠意を持って仕えてくれる。


 ——都合がいい。


 たまにフレデリックに全部見ぬかれているのではないかと疑ってしまうほど、都合がいい。


 お茶の時間、お茶の準備をしながら、華やかな衣装に身をつつみ、華やかな話をしている彼女たちに声をかけた。


「楽しそうね」


 女官たちは恐縮した。


「も、申し訳ございません」

「いいのよ」


 テレーズは微笑んだ。彼女たちからティーポットを受け取り、自分とエリザベートのぶんのお茶をそそいだ。アンリにはグラスにそそいだ果汁を渡す。


「わたくし、身体がこんなだし、聞いていると思うけれど、変な噂もたてられててね。なかなかそういう夜会とか、舞踏会には出られないの——」


 女官たちは肩を落とすが、姫君は続けた。


「かわりに、あなたたち、わたくしの宝石とかドレスとか、貸してあげるから、行ってきてちょうだい。なければ買って差し上げるわ」

「え?」


 女官たちは顔を見合わせた。どこか嬉しげに。


「よ、よろしいのですか?」


 ゆったりと、姫君はうなずいた。


「そ。行ってきて。代わりにといってはなんだけれど、帰ってきたら、かならずわたくしにお話を聞かせて」


 女官たちは「はい!」といままででいちばん張りのある声で返事した。


 エリザベートはやはり舞踏に集中しすぎてしまったらしい。目をぐるぐる回して、あえぎながらソファにぱったり倒れた。


「まあ! リジー」


 熱のこもった頭を濡れた布で冷やしながら、ふんわりした髪を撫でる。


 ——は長いほうがいいわね。この子は。たぶん。


 先方にそう申し入れよう。快諾するだろう。なぜなら相手は、「このと!? 僕が!?」とふくれっ面だったので。エリザベートは十二歳のなのだが。


 女官たちは楽しげにフルール宮殿から出ていき、楽しげに戻ってきた。

 寝間着姿のテレーズは、彼女たちにお茶を差しいれながらく。


「楽しかった?」


 女官たちはうなずいた。そして、夜会で起きた出来事や、人間関係などを話してくれた。

 テレーズはそれを熱心に聞き、頭に叩きこんでおいた。

 だが、女官を交代で夜会や晩餐会や舞踏会に出すのも限りがあった。


 ——もっと知りたい。わたくしってなんにも知らないのね。


 テレーズは、自室にこもり、社交界の人物の関係図を書きだしながら、静かに考えていた。


 ちょうどその半月後。


 フルール宮殿に、あるひとりの青年がやってきた。

 輝くような亜麻色の髪をなでつけた優美な容姿の青年は、榛の瞳をうごかし、花咲き乱れる宮殿のようすを茫然ぼうぜんとしながら見ていた。


 女官に連れられ、テレーズは微笑みながら青年のところへと階段を降りていく。


「こんにちは。花が多いでしょう。プレヴェールさんですか? テレーズと申します」


 青年は、「はい」と声をかすれさせながらうなずいた。テレーズを見て頬をやや桜色にそめ、彼女が手をさしだすのをおずおずと取り、震えながらそのまっ白な甲にくちづけた。

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