第32話 最後の願い、いや、呪い

 テレーズがうすぼんやりした目を懸命に開くと、石づくりの部屋の、少し簡素な寝台に寝かされていた。


「姫様」


 そばにひかえていた女官が、テレーズの手を取る。


「ここは首都近くのペタルという小さな街、その街の教会の一角でございます。いま、馬を休ませておりまして、姫様もこちらでお休みいただいております。ようやくお目覚めになられてよかった……」

「どうして、」


 わたくしたちはそんなところにいるの、と問おうとしたが、すぐに思いだした。

 すべては夢ではなかったのだ、という幸福と、悲しみとが胸をおおった。カトライアでの日々から抜け出したことも。レオンと婚約したことも、その婚約がだめになったことも。


 女官は声をひそめてテレーズにささやいた。


「すぐ、ヴィニュロー公爵殿下をお連れいたします。このすきに、国外へ脱出を」


 テレーズは首を横に振った。女官は少し、くやしげな顔をする。


「どうして」

「わたくしはフレデリックのじいやアニェスおばさま、グランシーニュ侯三人に面とむかって諫言かんげんをされてしまった。そのすえに『王宮』を出されたということは、レオンも無事ではないと思うの。ヴィニュロー公爵家に閉じこめられている……」

「……姫様」

「ねえ、そのかわりに、王の賢者を。スリゼー公爵を連れてきて。わたくしたちは、これからどうすればいいのか、助言をもらうの」


 女官は静かな顔でうなずき、裳裾をひるがえしてすぐに首都、そして王宮へとむかっていった。


 三時間ほどすると、スリゼー公爵の紋章の入った粗末な馬車が来て、スリゼー公爵その人がテレーズの今いる部屋に姿を見せた。


 ひどく青ざめた顔をしていた。やせ衰えて、震えている。


「顔がまっ青だわ。座って。体調が――」


 スリゼー公爵は用意された椅子に座ると、すぐに言った。


「私の体調よりも。すべてのことは聞きおよんでおります。姫様がご下問されるだろうことも想像がつきます」

「わたくしと、レオンは、この先どうなってしまうのでしょう」

「では、逆におうかがいいたします。姫様。どうなるとお思いですか?」

「二度と会えなくなる……」

「それでよいではございませんか」

「何を言うの、王妃さまと情事にはげんでいることをお兄様やまわりにばらされたくなければ、またふたりで暮らせるようになるにはどうしたらよいか、教えて」


 スリゼー公爵は「姫様らしくない」と静かに目を閉じ、ため息をついた。


「その話は、宮廷中のみなが知っておりますので、おどしになりませんよ。……姫様。だからアンリ殿下が私のお子だと恐れ多くも国王陛下は疑われているわけですし、国事の代行も——普通なら私におまかせくださればいいものを、わざわざヴィニュロー新公爵が代行なさっているのですから」


 テレーズは、少しだけ口をぽかんと開けた。


「レオンが、国事を代行していた……の?」


 すると、聡明な公爵は口のはしをゆがめた。


「ご存知なかった?」

「忙しそうにしている、とは思っていたけれど」


 公爵の、すでに骨が浮き出て、ところどころしみがある、大きなやせた青白い手が、テレーズの手をそっと取った。


「姫様、では、私が妙案をお教えしましょう。姫様とレオン殿のこれからについて。真実は私にもわかりかねますが、姫様はこうお考えになるべきです。ヴィニュロー新公爵は国事の代行をおおせつかっておりました。ですが、彼と親密だった姫様がご存知ないということは、新公爵にとって姫様は、、そのくらいの存在だった、と」


 心が冷えていく。そうではない、と言い切れる自信がない。レオンはとうとう自分に、「愛している」とはいってくれなかった。


 あの星空の夜。


 ――シャーリーと幸せに過ごして。

 ――それは無理だ。

 ――何故?


 その理由はどうしてなのか、何もいってくれなかった。


 結婚を申しこんできただけで、愛しているとはひとことも、いってくれなかった。


 


 そうであったのかもしれないと思うと、心がむなしくなっていく。


「シャーリーは……シャルロットはレオンが国事を代行しているのを知っている?」

「婚約のお話が出ている方ですから、もちろんご存知でしょうね」


 テレーズはうつむいた。


 やはりシャルロット。シャルロットのほうが、テレーズとより彼と関係が深い。


 思えば自分が愛されるわけなどなかった。子育てに忙殺され、おしゃれにも気を使わない女のどこを好きになる。下手なクラヴサンを弾く女のどこに惹かれるというのだ。

 結婚約束を素直に信じ、つたなくクラヴサンを弾く自分を、内心であざわらっていたのかもしれない。婚約指輪も、あの程度であれば、ヴィニュロー公爵の持つ宝物庫の中にやまほどあるはずだろう。


「……姫様、そのほうがいいのです。相手に騙された、と思ったほうが、失恋した時、楽だそうですよ。私も、もう陛下や姫様をお支えすることはできません。あと一週間ほどで、死ぬ計算になっています」

「何を申しているの、ふざけたことをいわないで」

「私は大きな過ちを犯しました。新しい王妃殿下がいらしたこの宮廷を変えるつもりでいました。ですが、ヴィニュロー公爵家に阻まれ、うまくいきませんでした。王妃殿下は心が折れ、私が慰めるうちに、男女の関係になってしまいました。ついにはアンリ殿下の嫡出にも疑義ぎぎが。私は自分で自分を正さなくてはいけません。なので、自ら毒を」

「何をしているの!」

「姫様はお優しいので、そう言ってくださるのですね。私の母は『すべき事に失敗した挙句、王妃に手を出し国王陛下を侮辱した不肖ふしょうの長男など死んでしまえ!』と罵声を浴びせてきましたよ。解毒剤を飲ませてきながら。アンリ殿下が生まれてからは、解毒剤を飲ませてくる母との闘いでした。私は決して私を許しません。国王陛下と王妃殿下を侮辱した人間にするように、私を処断します」


 公爵はひどく咳きこんだ。いそいでテレーズが白いハンカチを貸すと、そのハンカチに薔薇ばら牡丹ぼたんのようなあかいしみが出来た。


 王の賢者は第一王女に真実を吐き出す。


「そして、姫様。これは姫様への最後の諫言です。この国は、ヴィニュロー公爵家、私どもスリゼー、グランシーニュ侯爵家の勢力争いが絶えません。そうして国王陛下の力はそがれ、だれも陛下のいうことなどききいれません。今一番力があるのはヴィニュロー公爵家。そして、ヴィニュロー公爵夫人のマルグリット殿下の目的は、レオン殿を玉座にけることです」


 テレーズの美しい蒼の瞳がおおきくゆれた。


「どういう、こと」

「国王のロベール陛下はご病弱。それよりもレオン殿のほうがご壮健。レオン殿が国王になるのがふさわしい、といわれてきました。だから、幼少期から姫様やエリザベート様よりもレオン殿のほうがありとあらゆる面で優遇され、守られているのです。王妃殿下がアンリ殿下を産んでも、私の子だと噂を立て、王位継承をあやふやなものにされました。なのでアンリ殿下は未だに王太子の称号を得られない……」


 テレーズは叫びだしそうになった。

 どうしてレオンがマルグリットに「次なる太陽」「神聖なる太陽」といわれていたか分かった。次の王にするつもりだからだ。

 みずからを処断する王の賢者は、最後の願いを王女にたくす。


「その曖昧な状況のなか、ヴィニュロー公が妻を迎え、無事にお子がお生まれになれば、レオン殿は玉座に近づくでしょう。はなから、お子の産めないテレーズさまを妻にするなど、あり得なかったのですよ。姫様。どうか賢くなられませ。お力をおつけになり、アンリ殿下をお守りになって、この国に安寧を。もうエリザベート殿下が雪に埋められることない世を」


 願い、いや、呪いを。自分の死の原因になった美貌の若きヴィニュロー公爵から、最愛の女性を奪う呪いを。


 テレーズはすべて悟った。

 レオンが自分を愛していたかは、この際、わきに置かねばならない。

 自分は、国王の王子を養育する自分は、みずから守り育てる子の脅威であるレオンとの恋にうつつなど抜かしてはいられなかった。ここにみずからの過ちを死をもってつぐなう忠臣がいるのに。


 テレーズは、おずおずとゆるやかにふたたび花開かせていった心——自分の恋心を、ひどく、なんども叩き潰した。


「違うのよ。安心して。ああ、フレデリックのじいやアニェスおばさまやグランシーニュ侯にも、謝罪していたと伝えて欲しいのだけど、レオンがね、モーテルピュイ大公領の統治を助けてくれるから、必要以上に頼りにしちゃったの。レオンがわたくしのお家に泊まっていたのも大公領の統治のお手伝いで、その、泊りがけになっちゃって、……その、何もないから。婚約話も冗談なの。わたくしが気落ちしているのを、変な笑い話で慰めてくれて、その一つが、婚約話……で、じいやアニェスおばさまやグランシーニュが真剣なお顔をするから面白くって調子に乗って変なことをいっちゃっただけで、気絶したのはあの悪魔カトライア王と離婚できてないって知ったからで、だから、その、本当は、わたくしが、レオンを愛しているとかはないのよ——」


 スリゼー公爵は無表情となった。そして、「かしこまりました」とうなずいた。


「……アンリはあなたの子?」

「だったら一人間としては嬉しいですが、たぶん陛下のお子様でしょうね。陛下に生き写しでおられる」

「そう」


 テレーズは隣の部屋で、エリザベートと花冠を作っているアンリを見た。兄にそっくりだった。兄とテレーズに。


 宣言どおり、一週間後、スリゼー公爵は死んだ。

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