第31話 頭を冷やせ、知見を広げろ
***
テレーズに見送られることの何と幸福なことだろう、とレオンはシエル宮殿の執務室でうっすらと頬を染めた。
思えば父と母は変な夫婦関係だったのだな、と思えてくる。母に触れるたびに「失礼します!」と腹から声を出す父。父の顎を爪先で引き上げて
母が父を見送る時などなかった。ほとんど別居していたから。仲が悪いというのではなく、母と同じ空間にいることが恐れ多いのだと父は言った。
子供の頃のレオンからすると、先王が押し付けてきた姉がとんでもない性格だったから、なるべく距離を取りたいという風に解釈した。だが、今は少しわからなくもない。テレーズと暮らすことは恐れ多い。
テレーズに口づけることも、素肌に触れることも、抱きしめることも、恐れ多くて戸惑ってしまう。だけれど、そうすると彼女が本当に幸福そうな顔をするから、その姿が愛おしいから、そうしている。
彼女の為なら何でもしたい気がする。
彼女がモーテルピュイ大公領に帰るといったとき、本当に身を裂かれそうなほど辛かった。だから、彼女を引き留めるために、婚約を申し出た。
後は、父と母と国王を説得してしまえばよかった。母は面倒なので後回しにして、父に手紙を送り、国王にとりなしてくれるよう願った。
父は王女とレオンが結婚すればいいのだから、承諾してくれるだろう。第二王女より第一王女のほうが、——テレーズに失礼な言い方だが——格は高い。
夕暮れ前、テレーズの邸に戻ると、がらんどうになっていた。まるで朝、テレーズに見送られたことなど、嘘だったかのように。
「……は?」
思わず声が漏れ出てしまった。肩をゆっくりと叩かれた。
振り向けば、父が立っていた。
「ときどきお邸に参じ、モーテルピュイ大公領の統治の手伝いをしているようだな。それは
「……おかしいお話です。朝に拝見した時は、本当にお元気でした」
「……朝!? そのような時間にわざわざ参じたのか? それともこのお邸に泊まったのか?」
「泊まりました。数日前から泊まっています」
突然、父は息子にぴしゃり、と張り手をした。
「何故?」
じんじんと痛む頬を抑えながら、レオンは答えた。
「お手紙でもお話しした通り、婚約したからです。婚約相手の家に泊まったほうがいいでしょう? テレーズ殿下と一緒にお庭の手入れをしたり、アンリ殿下やエリザベート殿下の遊び相手になったり、テレーズ殿下と一緒に本を読んだり、話に興じたり。このお邸にいると生活習慣が改善したせいか、体がちょっと軽いんですよ。テレーズ殿下と結婚したら、私はきっと幸福になるでしょうね」
父はその瞬間、何故か息子の両肩を掴んで、呆れとどこか慈しみぶかさを浮かべた顔をし、静かに息子と共に地べたに座りこんだ。そして、照れくさいことに、頭を撫でてくる。
「そうだな。父も、お前の結婚相手が、テレーズ殿下であればなあと心底は思っている」
「あの」
「だが、テレーズ殿下にはお子ができない。そして、もしお子を授かれば十中八九お命を落とされる」
「それは、話し合いました。どこかから養子を……」
「本当か? 本当にそれでいいのか? 殿下を身籠らせることはない、と約束できるか。殿下と自分の間の子を、決して欲しないと誓えるか?」
「……」
少しだけ頬を染めて顔を背けた。
「それに、養子といってもどこから貰う。姉のところから、とでもいうつもりか? お前はアンリ殿下に何かあった場合、国王となる。その子が、ヴィニュローの直系であれば許されるだろうが、血統上においてさえ他の家の者であれば、混乱を招く。ヴィニュローのものが即位してさえ混乱を招くだろう」
「それは」
「となれば、責任感のお強いテレーズ殿下は止めてもお前の子を産むだろう。お前は愛する人間を殺したいのか?」
初めて、ぐらぐらと心が揺れた。彼女を殺したくはなかった。
「実務的な問題もある。カトライアではテレーズ殿下はまだ王妃だ。我が国では独身だが」
カトライア王は決して姫様との離婚を許されなかった、と肩を叩かれた。
「大人になれ。お前はこの国を背負って立つ立場となる。国王に忠誠を尽くし、国を支える。理性で、すべて判断しろ。王が病弱で、その一粒種が王の胤かわからぬ国がある。その国に仕える第一の臣下がすべきことは、子を身篭れない隣国の王妃と密通し、結婚したいと喚くことではない。政務に邁進し、王のまだ独身の妹と婚姻して王をお支えする血縁の力をも強くすることだ」
「……父上」
「しばらくやはりラヴェンデルに行ってもらう。マルグリット殿下には私からよくよくお願いしておく。頭を冷やせ。知見を広げろ」
レオンは、一週間を鬱々として過ごしたのち、馬車に括りつけられるようにして隣国へと連れて行かれた。厳格な家庭教師とともに。
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