第29話 その記憶が

 そこにいた中年の女は、修道女姿をしている。ヴェールから月のような金の豊かな髪が少し漏れていた。

 アニェス・ド・スリゼー。前のスリゼー公爵だ。今も長男を当主に据えつつ、隠然たる力を持っている。非常に優秀な「王の賢者」。

 フレデリックは女に向かって眉根を寄せた。


「元スリゼー女公爵、ご機嫌麗しゅう」

「おや、フレデリック殿下には大変お久しゅう。その曇ったお顔は、わたくし同様長男に困らされているお顔とお見受けするね」


 女は用意していた籠から砂糖菓子を取り出して食べた。


「……フレデリック殿下のお困りごとはこう? 息子があろうことか第一王女殿下と密通した上、彼女との婚姻を望んでいる。第一王女は子が成せないから、殿下としては第二王女で妥協したのに。今更面倒なことを息子は言うものだなぁ、と——」

「何をおっしゃる」

「あらまあ、このあいだ、紅葉の林をのんびり散歩していたら、あなたの息子が、テレーズ殿下と激しい逢瀬の時を持っていたよ。衝撃で顎が外れて腰を打ってしまった。治療費はヴィニュロー公爵家に請求するからね」

「ぴんぴんしておるではないか。そう言うのを恐喝という」

「ふん。——しかしながら、第一王女はお子が出来ない。お子を産ませるなど到底無理。愛がなければ作れるだろうね。母体が死亡するだけだから。でも、お二人には深い愛がある。悲しくなるほどの。だとしたらあなたの息子は一生彼女と子供を作らない」


 フレデリックは黙りこんだ。

 息子の感情は彼には計りかねた。忠誠を捧げるべき王女に、恋愛感情、情欲を抱くなど。

 彼は妻のマルグリットには口が裂けても「愛している」などとはいえないし、子を作る以外の目的で情欲を向けるなど出来ない。臥所を共にしなければならない際も、常に寝台に入る前と出た後に謝罪している。畏れ多い。取るに足らない自分があの美しく気高い姫君に劣情を抱くなど許されないから。

 だが、息子を次期国王とちやほやしすぎてしまったのだろうか。息子はお仕えするべき崇高な姫君に恋愛感情や、子孫を残すため以外の情欲を抱いてはばからない。


 アニェスは肩をすくめた。


「でも、わからないな。どうしてあなたがそこまで息子の子を王女の誰かに産んで欲しいのか。予想はつくけれど。その予想が当たっていた時はあなたを処断するより他ないねえ。そういうふうにこの国の『三家』はできているし」


 ふふん、と修道女姿の元女公爵は微笑んだ。そして、声を落とす。


「それに、子を孕めないだけじゃあない。テレーズ殿下はやはり、独身が望ましい」

「……やはり駄目だったようで」

「駄目だった。いくら交渉しても、カトライア王はテレーズ殿下との婚姻は有効であると主張なさっている。通常はカトライアの法律でも、夫からのひどい暴力があれば離婚できるものを。ここでテレーズ殿下が誰かと婚姻なさったら、重婚だということで、カトライア王の虎の尾を踏みかねない。我が国にてテレーズ殿下は独身とされているが、カトライアではいまだに王妃。玉虫色の状態だ」

「カトライア王はお子をおつくりになる気はないのかな。テレーズ殿下がお戻りにならなければ何もできまい。離婚はかの王にとっても良い……」

「いいや。王には愛妾がおられる。その間にこのあいだ庶子が生まれた。その子をテレーズ殿下のお子、嫡子として届け出たいから、テレーズ殿下との婚姻継続が必要」


 カトライア王を八つ裂きにしてしまいたい衝動を抑えつつ、フレデリックはいまだに拙いクラヴサンの音の鳴り続ける音楽室を見た。アニェスは問う。


「で、王妃に手を出した不忠義者のわたくしの長男に毒を盛っているのは、あなたとあなたの息子?」

「毒を盛りたいのはやまやまだが、貴女の息子は賢すぎる」


 おや、とアニェスは考えこむように笑った。




 霜が降りる時期なのだな、とテレーズは思った。

 朝起きて窓のそばに寄ると、窓に落ちた紅や黄色の葉が白に彩られていた。


 まだ寝間着にガウンを羽織ったままの彼女は、またシエル宮でクラヴサンの練習をしよう、と両手に視線を落とす。

 レオンは何も音楽や絵画に造詣がなくてもいい、といったが、ヴィニュロー公爵家に嫁ぐにあたり、何か一つくらいは習得しておきたい、とテレーズは要望した。

 そうしたら、レオンが、「クラヴサンを」、と望んだ。


 ——テレーズ様がクラヴサンを弾く姿が見たい。


 そんなわけで、彼女は幼少期に止めていたクラヴサンのレッスンを始めた。レオンに教えてもらうのは楽しかった。

 背後からゆっくりと抱きしめられた。寝間着だと、相手の優しい体温が背中越しに伝わってくる。

 振り向いてみれば、鮮やかな花緑青はなろくしょうの上着に着替えているレオンがいた。


 テレーズは彼に微笑み、軽く口づけた。


「おはよう。もうすっかり霜が降りていてよ」

「もうそろそろ冬だ。そうだ、その——」


 明日、指輪が届く、とレオンは言った。テレーズは微笑んだ。

 レオンはシエル宮殿に行かなければならないとのことであった。


「朝ごはん食べた?」


 真面目なテレーズは多少余裕があっても、焦ってしまう。急いで着替えもしないまま朝食の準備を整えさせ、レオンや子供達と食べた。

 それで、紅葉の舞い散るなか、子供たちとレオンを送った。


 紅色と、黄金色と、朱色と。三つの色が天からかわるがわる降り注ぐなか、花緑青色の服に身を固めた、美しい青年がいる。

 

 テレーズの記憶のなかには、生涯、その光景が消えることはなかった。

 その記憶に心をえぐられても、呪っても、他の記憶を消してしまっても、その記憶だけは、燦然さんぜんと輝き続けていた。

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