5、華麗と絢爛の結婚(下)

第28話 純粋培養の息子

 気づけばテレーズは紅葉する林の地べたに座りこんでいた。

 夢か幻としか思えない。 

 彼女はそっとレオンの胸に手を当てた。視界が揺れた。頬に温かいものが伝う。涙が溢れ出している、とわかった。


「ありがとう」

「……テレーズ」

「嬉しい」


 目の前の青年が、その言葉に頬を染め、心底幸福そうな顔をした。また、テレーズをしっかりと抱きしめた。


「国王陛下に許可を申請する。昔と元どおりになるだけだ、陛下はきっと許してくださる」


 まだ二十一と十八という、若い——いや、いとけない貴公子と姫君は、幸福な未来を取り戻すために、夢を見た。

 失われたものが元に戻るなど、ありえないなどということを知らずに。


 ***


 秋も深まり、ヴィニュロー前公爵フレデリックは、一旦王宮に帰還した。

 フレデリックの昼夜を問わない懸命な看護の甲斐あってか、国王の容態は安定に向かっていた。血を吐くこともなくなり、散歩をするようにもなっていた。


 その間、国事を代行していたのが今のヴィニュロー公爵、つまりフレデリックの息子、レオンだった。母親に囲われすぎたせいで純粋培養の極みとなっている息子に、手腕を期待してはいなかった。


 鍛え直すために隣国の学術の国、ラヴェンデルへ出しても、マルグリットがひどく寂しがって病気になっため、半年で帰ることになってしまった。その時の息子の残念そうに授業の課題の書物をめくる顔は、少しだけフレデリックを安心させた。息子は世間知らずの純粋培養なだけで、怠惰ではないのだと。

 母親とレオンを引き離す必要があった。だが、マルグリットの意志に反したことはできない。なので、レオンに国事を任せるにあたり、マルグリットには長めの旅行をすすめた。


 人間としてようやく二本足で歩けるようになったような、まだ母親の助けを求めてしまう甘えん坊の末っ子である息子に、鮮やかな行政手腕など期待していない。

 重要なことがあればフレデリックや他の老臣たちが処理している。


 基本的なことは教えておいたから、日常的な業務は差し支えがない。たまに病身の第一王女テレーズのモーテルピュイ大公領の差配の手伝いをしているそうだが、これはいい経験になるだろう。二年前の大惨事のせいで、体調が万全と言えないテレーズを助けるのは、元婚約者として、臣下として当然の勤めだ。大公領の統治を見るのは自身の涵養にもなろう。病身なのにきちんと大公領を統治しているテレーズの真面目さを息子も見習ってくれればいい。


 また、王妃とスリゼー公爵の不行跡と、グランシーニュ侯爵がまた奇怪なことをしでかさないか監視するよう厳しく申し付けておいたから、それはちゃんとやってくれている。


 だが、それ以外の政務は本当に抜けが目立つ。


 頑張ってやったが抜けだらけであったならば仕方ない。二十一だ。まだ若い。フレデリックも、二十一で国事をいきなり任されたら、抜けだらけであっただろう。

 しかし、毎晩、息子が宴会や夜会に興じているという話を、さらに、フレデリックの神聖な主君である先王が作った運河で花火を打ち上げ、船に乗って音楽団とともに楽しんだという話を耳にして、フレデリックは怒髪天を突くごとく怒りくるった。


 息子の根性を叩き直さねばならない。

 そうでないとフレデリックは、あのか弱く繊細な今の主君の看病を安心して出来ない。


 旅の道中、息子から手紙が来たが、読む気になれずしまったままだ。要望とのことだったが、どうせ金か何かの要望だろう。

 

 王の五つの宮殿のうちの一つ、シエル宮に参ずる。息子はここを執務に使用しているからだ。

 クラヴサンの音が聞こえた。たどたどしく、つっかえつっかえの音が響く。


 ——王女殿下か。どなただろう。


 第二王女のシャルロット王女はクラヴサンを始め、各種楽器、絵画などの名手だ。第三王女のカトリーヌ王女か、ひょっとしたらまだ幼い第四王女のエリザベート王女かもしれない。


 ——カトリーヌ王女は幼少時は舞踏の名手であらせられたが、しかし修道生活や学究を好むきらいがあってあまり音楽に興味は示されぬ。エリザベート王女殿下でらっしゃるだろうか……。


 元気で愛らしい幼い王女が、まだ小さな手で練習に励む様を想像して自然と頬が緩む。息子もエリザベート王女並みに可愛げがあればいいものを。


 ——エリザベート王女殿下がいるということは、その母代わりのテレーズ王女殿下もいるだろうから、息子を叱って欲しいとおすがりするのも手やもしれぬ。


 音源を辿り、二階の音楽室の扉を開けると、フレデリックは膝が震えて崩れ落ちそうになった。

 テレーズ王女が微笑みながら、クラヴサンに向かっていた。


「やっぱり難しいわねえ。右手と左手が同時に動いてしまう」


 二年前の大惨事から、子供を宿せぬほどに病弱な身体となり、この世の絶望を味わいつくした王女が。命を自ら断ってもおかしくないような惨状のなかにいた王女が。静かに微笑んで、新しいことを始めていた。


 ——姫様。よくぞここまで御回復なされた。


 フレデリックは涙が溢れた。テレーズ王女は、きっと、大丈夫だ。


 だが。彼は王女の横で、王女の手を取って、クラヴサンを楽しそうに教えている青年の顔を見ると、涙が枯れ、別の意味で膝が崩れ落ちそうになった。


 フレデリックは静かに扉を閉じ、控えて震えていた侍従に、「姫様に、ちゃんとしたクラヴサン教師を。我が息子では大したことも教えられまい」とどすの利いた声でいった。


 ——政務から逃げるために、ご気性の柔和な姫様まで利用するとは!


 そういえば、と放置していた息子からの手紙をその場で読んだ。



 フレデリックは本当に真剣な顔つきになり、こめかみを抑え、深い溜息をついた。


 ふわりと優雅な香りが漂い、「おや」と声をかけてくる女の声があった。フレデリックは顔を上げた。

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