第26話 天使の吐息

 気弱な国王に忠誠を見せ、淫乱な王妃の不倫の後始末などという面倒な仕事をするため、耳が腐るクラヴサン奏者による、王妃主催の演奏会に行った。


 テレーズを呼んだのは王妃に不審を抱かれないためのカモフラージュの目的もあったし、面倒くさい仕事にテレーズと一緒に演奏会を楽しむという褒美があってもいいかという邪念もあったし、テレーズの気を抜いてやりたいというのもあった。


 王妃があのとき、テレーズの体調不良にかこつけて自分と彼女を引き離した時にはまずいと思ったが、あの淫魔はレオンが帰ったふりをしたとたん、一晩も我慢できなかったらしく、愛人をベッドに引き入れた。


 ——スリゼー公爵に何盛ってんだ? あの女。


 ベッドに引き入れられるスリゼー公爵は、目の光を失っていて、茫洋としていた。明らかに豊満な体つきの、とことん愉しませてくれる素晴らしい人妻と逢瀬の時を持つ助平な間男の顔ではなかった。まるで正体がないような。


 頭をくしゃくしゃして溜息をついていると、今までどこかの部屋に押しこめられていたらしいレオンの天使が腕のなかに舞いこんできた。

 繊細にして蒸留水のように清らかな彼女は、ひどく物憂げな顔をしていた。

 彼女と会話するだけで心が清浄になる。このままでいられたらいいのに、とレオンは思った。


 第二王女との縁談はいとわしかった。自分が言えた義理ではないが、あの愛らしい顔で放蕩好きだという性格はいくら持参金を積まれても嫌だった。女性に対する薄気味悪さをさらに増長させる。また、姉との婚姻がだめだったから妹と婚姻するなど、テレーズは自分をどう見るか。

 彼女から軽蔑の眼差しを向けられるくらいなら、命を消したい。


 二人の指が濃密に、お互いを求めあうように絡み合った。テレーズの白い頬が薄く上気し、甘い吐息を漏らした。

 もっとそれを聞きたくなる。レオンはその方法を熟知している。

 だが、そっと手を放す。彼女を穢してはならない。テレーズを雌豚どもと同じにしてはならないし、あのおぞましいカトライア王と同じになってはならない。

 彼女は少しだけ物悲しげな顔をすると、言った。


「わたくしも。このままでいられたら素敵ね。でも、レオン、あのね」


 柘榴ざくろの色の唇が躊躇ためらいがちに、決意を告げる。


「モーテルピュイ大公領に引っこもうと思うの。わたくし。リジーとアンリ様をお連れして。リジーは年より幼いし、アンリ様は複雑なお生まれだから、こんな喧噪のなかで暮らすより、静かな場所で暮らしたほうがいいと思うの」

「そのような」

「領内に行くだけ。モーテルピュイ大公領って南の、海があなたの瞳と同じ翡翠色に見える場所なんですって」


 離別を言い渡されたに近かった。

 何故。どうして。テレーズはレオンを置いていく。

 レオンの脳裏には酷い焦燥が嵐のように吹き荒れた。


 ***


 数週間後、めっきり朝晩は冷え、外は広葉樹が黄色や赤、橙色に染まっていた。


 王宮から貴族が領内に戻るには特別な許可が必要だ。テレーズが静養中の兄に許可を申請すると、半年に一回は王宮に顔を見せることという留保付きで許された。

 まだ妹のシャルロットとレオンの関係は正式には取りざたされていなかった。耳を研ぎ澄まして社交界の噂を聞くに、二人が王宮のなかにあるとある離宮で密会したとか、お互いに造詣の深い絵画鑑賞の会にそろって出たとか、五つの宮殿のうち、ソレイユ宮殿で開かれた舞踏会で二人が踊るさまは見事だったとか、運河で、船の上に音楽団を載せ、花火と共に音楽を演奏させたが、それを聞く二人が含蓄がんちくのある音楽の会話を交わしていたとか――そういう噂が聞こえてきた。テレーズは静かに床を見た。

 彼は妹と結婚するだろう。


 それでも、レオンを好きでいることは許してほしかった。

 婚約者としてはいろいろと欠点だらけだった幼いテレーズにずっと優しくしてくれていた彼。カトライアから帰ってきたとき、熱心に看病してくれた彼。そんな彼を、心の奥で愛し、幸せを願うことは。


 あまり急ぐわけでもないので、のんびりと荷物の整理をし、荷物を仕分けしていた。出立が迫っているわけではないので、旅行鞄にはまだ詰めなかった。

 そのあいだ、気分転換だと、梨のはちみつ漬けを使ってケーキを作るなどいう悠長なことをしていた。



 昼寝している子供たちが起きたら、どれだけ喜ぶだろうと厨房に置いた瓶を眺めていると、来客があった。


 レオンだった。

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