第25話 星空

 使い勝手がいい子。


 テレーズはえづきながらその場にうずくまった。磨き抜かれた大理石の廊下は、夏の終わりだけれどもひんやりとしていた。

 王妃は善良だと――思っていた。自分を信頼してくれているとも。自分を愛してくれているとも思っていた。純朴な優しいお姉さまのような存在だと、思っていた。

 相手の顔がよく見えなかったが、オーギュストというあたり、スリゼー公爵だろう。声も彼のものだった気がする。

 スリゼー公爵は王の忠臣ではなかったのか。王妃は、王と仲は悪くはない夫婦ではなかったか。


 恐ろしさを覚えるような艶めかしい絶叫が、繰り返し、廊下の空気を裂く。

 

 テレーズが、這うように重たい体を動かそうとしたとき。

 ふわりと抱きしめられた。


「テレーズ様、どうしてこのようなところに……!」


 顔を上げると焦った顔をしているレオンだった。月光に白金の髪が照らされている。まるで月の滴が、彼の髪を形作っているかのようだった。


「……あなたこそ」


 襤褸切ぼろきれのような王女がくと、新しい「王の忠誠」ヴィニュロー公爵は答える。周りに黒い影が何人かいた。


「私は配下と共に今日の分のを終えたところです」

「おそうじ? どうしてあなたが」


 重臣たちの権力闘争にまだ無知な王女にいらえはなく、すっと抱き上げられた。配下はすぐに消える。

 テレーズは「……下ろして」と声をかすれさせながらいう。


「下ろしません」

「……シャーリーと幸せに過ごして」

「それは無理だ」

「何故?」


 抱きかかえられたまま、いつの間にか庭に出ていた。

 その瞬間、この宮殿が亡き父の愛した、そしてテレーズが本当に幼い頃を過ごした、ソレイユ宮殿だったといまさらながらに気づいた。庭は平面幾何式庭園で、所々に白い大理石で古代の神話を表現した像がいくつも配置され、その像のいくつかは水が噴き出て噴水となっている。


 噴水の近くのベンチに座らされた。レオンはそれと同時に、テレーズの問いに答える。


「理由をお答えできないわけではありません。しかし、私は貴女に戯れを申し上げるつもりはありません」


 どういうことだろう、とテレーズはうつむいた。戯れ、とは。


「空をご覧ください」


 レオンがそういうので、空を見る。一面の星空だった。神々しく神聖ささえ感じられる星々。すると、彼が微笑んだ。


「星座を見つけてみますか?」


 テレーズは「あそこ」と指を差す。なんとなく星座のような気もする、ダイヤモンドの指輪のような星の連なりがあった。


「あれは星座?」

「違いますね。でも、テレーズ様が星座をお創りになっても良いのですよ。王女殿下ですから」

「創らないわよ」


 レオンが溜息をついた。


「何故あんなところでうずくまっておられました?」


 テレーズは何も答えられなかった。王妃がスリゼー公爵と密通している。アンリは兄王の子ではないかもしれないなどと——、言葉にできなかった。

 言葉にしないほうがいいと、テレーズの氷のように冷静な部分が語る。レオンは次の国王を目指している。それが叶えば、あの小さいアンリは幸せにはならない。少しでもアンリに不利な情報をレオンに与えてはならない。

 だが、思わず口からずっと脳内をめぐっていた疑問が零れ落ちてしまった。


「スリゼー公爵は最近めっきり体調が悪いのに、王妃さまはまったく気づいてらっしゃらないのかしら……」

「テレーズ様、……スリゼー公の体調がお悪いのですか? 詳しくお話してください」


 レオンが翡翠色の瞳を細めた。「あっ!? ええ、そうね」テレーズとは素っ頓狂な声を出しながら、頷いた。


「酷く悪いときもあって、床から起き上がれないこともあるの」


 ヴィニュロー公爵になったばかりの青年は、姫君の言葉に無表情となる。その翡翠色の瞳に、小さな歓びの光がきらりと輝いたのを、テレーズは不審に思った。


 きらりと、金の滴を転がしたように流れ星が見える。テレーズはレオンに声をかけた。


「まあ! 流れ星」

「どこに?」


 空を探そうとするレオンを見て、テレーズはぼんやりと、このままだったらいいのに、と思った。

 レオンはテレーズを愛していない。シャルロットを愛しているのだろう。だが、言葉を交わすことは出来る。

 ヴィニュロー公と王女は結婚するのが習わし。もしシャルロットとレオンの関係が深まったら、すぐ婚約し結婚となるだろう。厚かましい願いかもしれないが、それまではレオンと幾許か会話することを許してほしかった。


 そうすれば、テレーズは引っ込むから。


 自分は道化だった。道化なので都合の良い子と王妃から思われていた。道化なのでレオンとシャルロットの関係の邪魔をしている。もう「王宮舞台」にいたくない。


 レオンが結婚したら、自分は兄王の許可を得て、エリザベートとアンリを伴い、モーテルピュイ大公領に行き、館に住もう。子供たちの成長を見守り、静かに暮らすのだ。


 レオンが突然、テレーズの心の声を聴いたかのように、口を開いた。


「このままだったらいいのに」

「……わたくしも」


 長くも骨ばった指先がテレーズの指先に絡みついた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る