第20話 王女の喝破

 ***


 ばさり、と音がした。

 目の前に散るのは深紅――薔薇の花だった。

 マルグリットが金と瑠璃ラピスラズリ柘榴石ガーネット紫水晶アメジストで出来た花瓶に生けていた薔薇の花が、目の前で散った。


「ですから、母上。私は母上を信じることができません」


 最愛の息子の初めての反抗に、しかも信じられないほど強い反抗に、マルグリットはヴィニュロー公爵家に伝わる花瓶を割った。


「なにをおっしゃるのです、レオン殿」


 息子の完璧な顎の輪郭、その輪郭を撫でるように、マルグリットは彼の両頬を手で挟んだ。


「もう一度、母に申してみなさい」

「母上は第一王女殿下がカトライアからお戻りあそばすという異常事態に乗じて、こともあろうに王妃殿下とスリゼー公爵の間がただならぬという、国王陛下を含めたお三方を侮辱する噂をばら撒いておられる。王家への不敬極まりないと申し上げている。もう表舞台に立つのはやめて、隠居なされては」


 息子は立て板に水のように答えた。マルグリットは平静さを失った。


 夏になったから、王国の東部へ避暑に来ていた。そこに息子がやってくるというので、マルグリットは有頂天になっていた。


 あのな姪は面倒を運んできたものだ。

 暴行や痣の跡がひどく、などと夫は憔悴していた。だが、妻たるもの、夫に従わなければ暴力の一つや二つ振るわれるものだ。幸いマルグリットはそういう目にあったこともなく、まわりにそういう夫婦もないが。

 だが、大抵の夫婦はそんなものだ。テレーズの覚悟不足。わがまま。甘やかす必要などない。

 何故そのお姫様の人生を舐めたわがままに、夫はまだしも、次の太陽たるレオンが関わらなければいけないのか。理不尽でないか。わがままで人生を舐めている姪の面倒を見させられるなど。

 マルグリットは、理不尽な目に遭ってきた最愛の息子を、どうやって慰めようかと考えていた。


 だというのに、息子は。


 最初、帰ってきた息子はその完璧な美貌に静かな表情を浮かべていた。あまり疲れていないようだ、とマルグリットを安心させた。

 だが、晩餐の後、薔薇の花を生けるマルグリットに聞いてきたのだ。


「母上はエリザベート殿下を私から隠していましたか」、と。


 当たり前でしょう、レオン殿、あんな子をあなたの神聖な眼に触れさせるなど、と微笑んだ。息子は表情を氷のように冷たくし、再び疑問を投げつけた。


「では、母上、母上は国王陛下の実子をスリゼー公爵の子だと主張なされている。エリザベート殿下に対する扱い、国王陛下や王妃殿下への扱い、とんでもない不敬と存じますが」


 マルグリットは息子を睨み据えた。


「黙りなさいレオン。全てはあなたが王になるため。病弱で気の弱いロベールより遥かにあなたのほうが王にふさわしいわ! それを明らかにするため!!」


 息子は信じられない言葉を吐いた。


「私は母上が理解できません。理解することもあきらめています」


 息子が。最愛の息子が。何にも代えて愛おしい息子が。


「ですから、母上。私は母上を信じることができません」とも付け加えた。


 怒りが全身を突き抜け、花瓶を割った。



 隠居をすすめられたマルグリットはレオンの襟を掴んだ。


「とうとうお覚悟を決められたはご立派なれど、レオン殿。考え違いをなされるでない。あなたの玉座はわたくしという王家の血を受け継ぐ器あってのもの」

「父上の母君――祖母君おばあさまは先々代の妹ぎみです。母上の叔母上でしょう。そちらから王位を請求できます」

「甘い!」


 その瞬間、初めて息子がマルグリットのほうを向いた。その翡翠色の瞳を少し揺らして。

 彼女はそのゆらぐ表情に満足した。まだ息子はマルグリットが導いてやらなくてはならない。まだ十九歳。頑是ないといって差し支えない。


「そうであれば、先々代の王弟を婿としたスリゼーに負けるであろうが! レオン殿、スリゼー公オーギュスト殿は隠居した母君、アニェス殿から爵位を継いでおられる。そのアニェス殿のご夫君は! そなたの祖母君の弟ぞ! レオン殿がわたくしなしに玉座を手にできるなら、スリゼー公も玉座を手にできる、違うか!?」


 マルグリットは息子の甘さを喝破かっぱする。黙りこくった息子の額に口づけた。息子はマルグリットにすがるような眼をした。彼女は心底安堵した。


「そなたはまだお若い。このようにお考えもまだ浅い。……母の事を信じていれば、必ずや王にして差し上げましょう」


 いままで従順そのものだった可愛い息子がなぜ反抗してきたか、とマルグリットは考えた。


 ——テレーズか?


 あの姪に何か吹き込まれたのか?

 


 レオンは母にすがるような表情を作りながら――何せこれが母の嵐を鎮める最適の方法なのである――、自分は未熟で愚かだと憤慨していた。

 母を表立って責めるべきではなかった。母はおそらく、しばらく自分を囲い続けるだろう。

 しかも、一言も言っていないのに、息子が玉座に登りたがっていると、とすぐ母は看破した。


 ——これが、筆頭王女の手強さ。


 彼は、壁にぶつかったまま、考え込まざるを得なくなった。



 その年の秋、第一王女テレーズは、母国においては、夫からの凄惨な暴行による婚姻無効を認められた。

 直後、王はテレーズをモーテルピュイ女大公に叙す。

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