第13話 政略結婚

 職人が丁寧に作り上げた繊細なレースの婚礼衣装が、眼前に広がる。テレーズはその衣装に、白い顔を輝かせた。母の使用した婚礼衣装を仕立て直すという話もあったが、カトライア国王が自ら婚礼衣装を贈ってくれたのだ。


 この一年で、カトライア語を勉強し——幸い、母の母国であるラヴェンデルの言葉によく似ていたのであまり苦労しなかった——、その他、武断の性格だという国王が趣味としている鷹狩りや、乗馬などをこなした。難しいことも多かったが、両国の平和のためであれば耐えられる。


 早急の問題は領土問題。

 この国の北部に位置するコンパニュル地方は、鉄を産出することから、カトライアも領有権を主張していた。そちらに向かってカトライアの軍がどんどんと攻めてきている。


 テレーズは国王と結婚し、それについて解決策を見出さなければならない。


 そう、スリゼー公爵にこんこんと諭された。だが、「王の賢者」はどこか疲労しているようにも見えた。無理をしているのであろうか。


 ——そうよね。


 戻ってきた老齢のグランシーニュ侯爵は豪放磊落で熱血だった。謀反の疑いをかけられるのも当然なほど、危うい言動が目立つ。

 ヴィニュロー公爵は、息子とテレーズとの縁談がうまくいかなかったこともあり、カトライア国王とテレーズの縁組に反対している。


 誰も頼れない中で、スリゼー公爵はひとり闘っていた。

 賢い忠臣の為にも、テレーズは成果を上げなければならない。


 ——だけれど。


 エリザベートを置いていくのが心配だ。王妃は自分に任せれば大丈夫だと太鼓判を押したけれど。


 何はともあれ、頑張らなくては、と櫃から婚礼衣装を取り出した。自分の身体に当てて、姿見の前に立つ。

 婚礼を控えた少女らしく、自然と笑いが漏れてしまう。


 あまり期待してはいけないが、カトライア国王はどんな男性だろう。自分より五歳年上というから、二十歳か。とんでもなく肥え太っているのも困るし、とんでもなく貧相なのも困るが……。それよりなにより。


 ——ま、美醜は気にしないけれど、誠実な人でいてほしいわね。それか不実を上手に隠し通せる人。


 テレーズは前の縁談で失敗した為、ちょっとした願望を縁談相手に抱いた。


「そうだ」


 優しい姫君は子供ゆえに、時折残酷なことを考える。柘榴ざくろのような唇に妖艶にも見える笑みを浮かべた。

 女官に命じた。


「最近調子の悪いレオンを連れてきて、この婚礼衣装を見せてあげましょう」


 彼女の心をずたずたにした「友人」に、せめてものはなむけを。


「殿下、面倒臭いことをお考えですね」


 女官はたしなめたが、テレーズは聞かなかった。


「ヴィニュロー公爵はカトライア国王との縁談に反対していてよ。でも、その息子は説得すれば賛成に転ずるかもしれないわ。だって、わたしのことがいとわしかったんだもの」

「姫様、それはちがいま——」


 普段は柔和で穏やかでしっかり者の、心に深い傷を負った少女が金切り声をあげた。


「厭わしかったの! 厭わしかったのよ!!」


 女官が急いで姫君から溢れる涙を拭いた。彼女たちは姫君が前の縁談相手から何をされたか、今ではきちんと把握していた。

 姫君は時折、一年前のことを思い出して涙に暮れる。父母をほぼ同時期に失った幼い王女にとって、婚約者のヴィニュロー公子は心の支えだったのだから当然だろう。


「わかりました、殿下、そういたしましょう」


 テレーズは微笑むでもなく、震えながら頷いた。

 その少女の小さな嗜虐心のような不思議などす黒い感情は、ずっと後、大きく広がり、彼女の弱りゆく魂を食い荒らしていく。



 婚礼衣装の調整の際、「友人」を呼んだ。

 久しぶりに見る「友人」は相変わらずの美貌だった。ここ最近、女遊びが祟りでもしたのか、調子を崩して静養しているらしい。面やつれしていたが、それも美貌に奇妙な色香を添えている。


 彼は婚礼衣装に身を包むテレーズを見て、茫洋としていた。彼女はそれを見て、友人らしくそっと肩を叩いた。


「あなたの女遊びが激しいから、あなたのお嫁さんを見る前に、わたしが嫁いじゃうわ」


 レオンは何も返事をしない。返事もできないほど婚礼衣装が綺麗らしい、とテレーズは得意げに微笑んだ。彼女が彼の心にガラスの雨を降らせていることなど気づく由もなく。


「体調はどうなの? 遊んでばっかりで寝ていないから調子を崩すのよ」


 自分に不実を働いた前の婚約者に、慈悲深くも体調のことを尋ねてやった。


 その時のテレーズは本当に子供で、目の前の元の婚約者こそが人生最大の悪であった。

 悪を叩き、ざまあみろと笑って、すかっとしたかった。


 彼女は華やかな笑い声をあげた。後となって考えてみれば醜悪すぎる笑い声を。

 ドレスの裾をつまんで、くるりと回った。


「見て見て! 綺麗でしょう。カトライア国王陛下が贈ってくださったのよ」


 レオンの顔色がどんどんと悪くなっていく。あまりすっきりしなかった。自然と手が彼の頬に伸びていた。


「……大丈夫? 苦しいの? そんなに悪いの……?」


 気づけば手が涙で濡れていた。彼が涙を流していた。


「悲しいの……? どうしたの?」

貴女あなたが他の男性と結婚してしまうから」

「どうしてそんな意地悪を言うの……?」


 惨めな気持ちになった。未練めいたことを言わないで欲しかった。彼は揶揄からかっているつもりなのかもしれないが、テレーズは本気にして心から血が溢れてしまう。


 うつむいていると、放蕩な「友人」は忠臣の顔をして、諫言をする。


「カトライア王陛下は二十歳にして、彼が動くと血が流れると言われるほどのお方です。殿下、その妃になるお心算こころづもりはありますか?」


 その話は初めて聞いたな、とテレーズは友人をまじまじと見た。


「本当のお話?」

「我が国北部のコンパニュル地方は、カトライア王陛下の策略で、陸の孤島となっているようです。スリゼー公爵はそれを切り捨て、殿下のお輿入れに注力され——」

「大丈夫。そのお話は聞いているの。国王陛下を説得してきてよ」


 テレーズは復讐を止め、気品ある王女の顔をして微笑んだ。非常に美しく。


「頑張るわ。……ね?」


 彼女は「友人」の手を握り、小さく上品に首を傾げた。



 その年の初夏、テレーズはカトライア国王に輿入れすることとなる。

 結婚式と同時に、国内で開かれた代理結婚式に、ヴィニュロー公爵家は参列しなかった。


 ***


 案内された場所は石造りの重厚な宮殿だった。カトライア王国の数ある離宮の一つ。

 結婚の儀式を終えて、テレーズは相手の顔もまともに見られないまま、夜、その離宮に移った。

 あれほど美しかった婚礼衣装を着るのは一日だけ。寝間着に着替えさせられた。撫子色の愛らしいもので、十五歳の少女によく似合っていた。

 母国の初夏とは違い、夜は少し肌寒いようだと、外を見やる。薄曇りだった。本当に針葉樹の多い国で、離宮の庭も森と言ってよかった。

 

 表情の冷たい女官に案内され、国王のいる部屋へ向かう。

 扉を叩くと返事があり、入ると、最低限のもの以外は何もなかった。

 人が書き物をしている音がする。


「……」


 テレーズが入ると、彼女のお付きの女官たちは引き離された。表情の冷たい女官がテレーズを寝台に案内し、彼女を夫婦の新床に座らせると、その場を離れた。外からがちゃりと鍵がかけられる。

 書き物の音が終わり、ぎっ、と椅子を引く音がして、今度はゆったりとした足音が聞こえた。

 緊張のあまりうつむいた。しばらくすると、誰かが前に立った気配を感じた。


 目の前に冷たさを帯びた金色の真っ直ぐな髪をした、物静かそうな男がいた。小さな蝋燭の灯りが、その男の鋭い輪郭を照らしていた。


「——これが余の妃か」

「これから、よろしくお願い申し上げます。——陛下」


 テレーズが一礼すると、男は微笑を浮かべた。男の——夫であるカトライア王は、テレーズの隣にそっと座る。


「心苦しくなるほどに幼い姫だな。さて——」


 カトライア王の骨ばった手が、テレーズの細い首に向かって伸びた。


 少女は、その瞬間まで、絶望という感情を本当に知ることはなかった。

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