2、墜落
第12話 恋に病む貴公子
形の良い唇から漏れるかそけき溜息が、窓を白く曇らせた。
外は土砂降りで、自分の気分そのままだった。窓の向こうは、本来であれば、新緑の中に残る雪が見える、小鳥の鳴き声が絶えない森の中だ。
何度
扉を叩く者があるので、返事をする。入ってきたのは悲痛な表情をする母だった。「王宮」から遠路はるばるこの静養先へやってきたらしい。
もう十八の立派な男子だというのに、母は自分を抱き寄せて頭や背中を撫でてきた。
「レオン殿、ご体調のほうは」
「前にお会いした時よりも良くなりました、母上」
母は少し安堵した表情をしていた。本当にそういう母が嫌いだった。過保護で、なんでもくれて、でも、本当に欲しいものは何もくれない母が。
母はレオンの顔を見つめた。
「何か欲しいものはございますか? 珍しい果物でも、難しい御本でも、なんでも取り寄せましょう」
「テレーズ様にお会いしたい」
「……」
「テレーズ様を欲しいとは申しません。テレーズ様に一目お会いしたい」
ずっとそう懇願している。懇願し過ぎて、晩餐の際にいきなり悲しくもないのに涙が出て、父母の目の前で倒れ、酷く熱を出した。
まったく熱が下がらず、ヴィニュロー公爵家の保有する首都郊外の別荘に送られた。
母のマルグリットは、少し目を逸らした。
「それはできないの。できません、レオン殿」
「どうして?」
「お話し致しましたように、テレーズ殿下はカトライアへ嫁ぐことになりました。レオン殿の婚約者ではなくなりました」
「……嫌です」
「わがままを申されますな」
「わがままでしょうか。妻をカトライアに奪われてしまったのに?」
言ってしまうと、涙がこみ上げてくる。
苦しいのは、テレーズがカトライアに嫁いでしまうことではない。自分のしたことがテレーズを裏切ったことになると、知ってしまったからだ。
あれは十四歳の夏、母が毎年の避暑に赴いている時だ。父も国王のそばに詰めていて自分一人が留守番していた頃。とても暑くて水浴びをしていたら、ある侍女により、情事を強要された。その侍女は適当な理由をつけて解雇できた。
だが、他にも女は湧くものだ。その女が「抜け駆け」したと見るや、他の侍女たちが自分に襲い掛かった。侍女たちは自分の世話を丁寧にするふりをして、自分を搾取した。「若様……」と耳元で囁かれるのの、何と
第一、母親がそうなのだから仕方ない。肉体の交わりを持ったことはさすがにないが、侍女たちよりも何よりも干渉してきたし、なんでも息子の肉体のことを
社交界に出ても同じだった。好みではない浅ましく頭のゆるい女たちに、寝室に連れて行かれた。顔も覚えていない彼女たちは、人妻もいれば、結婚を控えた娘もいた。
そこでレオンは少年にして悟った。
——女は情欲を解消するためだけの存在。
そう考えれば、自分の身体目当ての女たちとも楽しく時間を過ごせた。
そこに婚約者で主君のテレーズだけは入っていなかった。
主君は違う。絶世の美貌どころか水晶を人の形にしたようなこの世に現われ出でた天使であった。天使が姫君の姿をしている。この姫君に濁世の穢れを知って欲しくはなかった。情欲というものさえも。
姫君を独占できる時間は至福であった。夫婦となれば姫君に情欲を向けるのだろうかと畏れ、だが、そうすれば自分の子を産んでくださるのだろうか、と喜びに打ち震えた。反面、姫君の
だというのに、最近の彼女は王妃や末の妹にかまけてばかりで、レオンとあまり会わないようになっていた。
失寵した、と恐慌した。まるで天から見放されたように。
テレーズの末妹のエリザベート王女については、不思議なほど情報が入ってこなかった。前の王妃が王女を出産したのち、産褥死したとしか。社交界で聞いた話によれば、信じられないような噂が出回っていた。エリザベート王女は育ちが遅れていて、歩くのも話すのもやっとだと。
そのような侮辱的な言いようがまかり通るのか。王の側近くに仕える父や、姫君たちの伯母にあたる母に聞けば、「ありえない」という。
——エリザベート王女殿下は大変にお元気で、大変にお可愛らしい。お花をこよなく愛されているため、そろそろお庭の一部を花畑に改修しようと国王陛下とご相談中だ。
——エリザベートは大人しい性格なだけなのですよ、レオン殿。
つまり。とレオンは結論づけた。
本当に寵愛を失ったのだ。天使のごとき姫君からの。
理由はわからない。別に姫君が目を掛ける男でもいたのだろうか。いや、姫君に限ってありえない。
目の前が暗くなり、何も訳が分からなくなった。
姫君の寵愛を取り戻すために、愛人を寝室に呼んだ。よく、愛人たちとの間でやっていることだ。ただの雌豚ごときが——愛人が、自分に無礼な態度をとるなどというふざけたことをするとき、罰として他の愛人と閨を共にしている姿を見せる。愛人はレオンにひれ伏し、寵愛を求める。
その結果は、自分の愚かしさを知るに十分だった。
——あなたを好きになってしまって、ごめんなさい……。
姫君は自分を愛してくれていた。なのに、愚かな自分は姫君の愛に気づかず、姫君の愛を失った。
一目会って詫びたい。
そう願っているのに。
母はひどく溜息をついているのを見るにつけ、息が上がってくる。
——また、熱が出る。
雨がさらにひどくなり、彼は酷く寒気がして、倦怠感が容赦ない波のように襲ってきた。安楽椅子では座っていられず、床に倒れこんだ。
母が恐慌して、「すべてスリゼー公爵が悪いの」と叫んだ。
「レオン殿、フレデリックがいうには、すべてスリゼー公爵の陰謀なのです。あの公爵はヴィニュローと王家が結びつくのが嫌だったの……! 王妃と結託してテレーズを騙したのよ!!」
母はいつもそうだ、と美しい青年は微苦笑する。「テレーズに逢わせてあげる」と叫べば息子は少しは熱が下がろうものを。
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