第8話 背信

 女官が憂慮に顔を曇らせるのを尻目に、テレーズは、本を返しにヴィニュロー公爵邸へ赴いた。レオンからねだって借りたものなのだから、まさか呼びつけるわけにもいかない。


 公爵邸は相変わらず庭が丁寧に整えられていて、いまはアイリスが咲き乱れていた。見惚れながら庭を突っ切り、玄関に向かう。すると、いつもならするりと通してくれるのだが、侍女が困惑の目つきで「しばしお待ちを」と告げた。


「来てはいけなかった?」


 テレーズが冗談交じりにそうたずねると、侍女は顔を青褪あおざめさせ、奥へ急いで引っ込んでしまった。

 客間近くの待合室でしばらく待った。待合室には庭に咲いていたアイリスの花が飾られている。

 ふと、上から男性と女性の話声のようなものがした。

 なんだろう、と耳を澄ますと、どこか濡れている女性の、すすり泣きのようなものが聞こえてくる。


 ――何か不幸でもあったのかしら?


 本当に来てはいけなかったかもしれない、と立ち上がろうとすると、青褪めた顔の侍女が震えながらいう。


「レオン様が、……是非とも、……お、お通ししてくれ、と」

「わかったわ。本を返しに来たの。そう伝えてくれる?」


 侍女はまるで泣きそうになりながら言う。


「できません、申し訳ございません、テレーズ殿下。レオン様のお部屋には、お供できません。申し訳ございません、殿下、お許しください」

「そう?」


 仕方がない。テレーズは本を抱えたまま、ゆっくりと磨き抜かれた大理石の階段をのぼった。あちらこちらに美しい女神のブロンズ像が立っている。


 ――ブロンズ像でも壊してしまって、マルグリット伯母さまにお説教でもされている侍女がいるのかしら。


 そういえば、とテレーズは気づいた。マルグリットは夫と息子を置いて昨日から避暑へ赴いている。ヴィニュロー公爵は側近として国王のそばに詰めきりだ。では、レオン一人が留守番させられているということになる。


 女の啜り泣きのような喘ぎ声がどんどんと大きくなり、テレーズは首を傾げた。


 ――レオンが誰かを叱っているの?


 だが、喘ぎ声は悲哀を示すものではない気がした。どこか奇妙に明朗さを帯びている。その声は、レオンの寝室から聞こえてくる。

 金の細工が所々に施されている白亜の扉を叩く。


「レオン? あのね、入ってもいい?」

「……どうぞ。お待ちしていました」


 その声が、濃艶のうえんかすれたものだったのに、テレーズは違和感を覚えながらも、扉を開いた。


「……」


 白い絹の艶めく寝台に、やはり白い薄絹のカーテンが下ろされている。そこに、裸のブロンドの髪をした見事な肢体の女が、誰かにまたがり、大きく弓のようにのけぞって、我を失って叫んでいた。声の源は彼女だったのだ。

 彼女に跨られているのは、淫蕩に微笑んでいる自分の美貌の婚約者だった。


 テレーズはその瞬間、表情が固まった。二人が何をしているのか、十四歳の彼女でも理解できた。

 ひどく血の気が引き、眩暈めまいがする。


「……その、女のかたは、だあれ」


 声を掠れさせながら聞く。するとレオンは起き上がって、名残惜し気に彼にすがる女を優しく寝台へ突き飛ばし、黒のベルベットのガウンを羽織って言った。


「リュファン伯爵令嬢。俺より五歳年上。もうすぐ結婚するらしいけれど、舞踏会で出会った俺にぞっこん。どう? 嫉妬してくれた?」


 彼は微笑んでテレーズに近寄り、彼女を壁に押しやった。彼女の華奢な手首を強く掴み、彼女の顎をもう片手で引き上げた。唇を貪られた。

 いつもの口づけとは違う濃密な口づけに、テレーズは眉をひそめた。


 レオンは蠱惑的に囁いた。


「なかなかこちらにいらしてくれないから、テレーズさま以外の女に目が向いてしまう」

「……」


 逢瀬の機会の少なくなったテレーズからの失寵をおそれて恐慌して、婚約者がこのような暴挙に及んだことを理解し得ない彼女は、その行動を、言葉を、真に受けた。


 ——そうだったんだ。


 親同士の決めた結婚だ。そこには、レオンの意志もテレーズの意志も介在していない。その、なんとか伯爵令嬢は舞踏会で出会ったという。さぞかし魅力的で素敵な女性なのだろう。

 ひるがえって、テレーズは、妹たちの世話や兄の愚痴を聞いたり、兄嫁の手伝いをしたり、様々なことで手一杯で、魅力的だっただろうか。


 ——そういえば、愛してるって、今まで一度も言われたことがない。


 第一王女で、親の決めた結婚相手だから、優しくしてくれていたに過ぎないのだ。口づけもそうだろう。


 昼間から燃え盛るような、お互いの婚約者を捨ててしまうような激しい恋をレオンとその令嬢はしている。


 そんな激しい炎に燃やされて、テレーズはまるで灰となったかのようだった。

 今までの日々は虚飾だった。虚飾に幸福を感じていた自分がまるで愚かに見えて、泣きだしてしまっていた。


「テレーズさま、泣くことないでしょう? ほら、私はずうっとあなたのものです」


 涙を流す少女を見て、勝ち誇ったかのように、婚約者は優しくテレーズを抱き寄せてきた。


「もう、優しく、しないで」


 彼の腕からするりと抜けると、テレーズは本を、そっと寝台の近くの机に置いた。

 つっかえつっかえになりながら、言う。


「あなたを好きになってしまって、……ごめんなさい。これからはもう、迷惑をお掛けしません。……お借りした本を、お返しします。その令嬢と、幸せになって。今まで、ごめんなさい」


 泣いてはだめだ、とテレーズは自分を叱咤した。王女なのだから。それに、愛情を押し付けていたのは自分なのだから。なのに、涙が止まらない。

 一礼すると、テレーズはその場を急いで去った。

 レオンが、茫然とテレーズの後ろ姿を見ていた。自分にすがる伯爵令嬢など目もくれず。



 テレーズは愚かだったので、幸せだった生涯唯一の恋を、淡いままで閉じた。

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