1、婚約破棄

第7話 婚姻話

 このフルール王国の北には濃緑の針葉樹に囲まれた王国、カトライアが存在する。


 半世紀ほど前、カトライアといま呼ばれている王国の領域には、二つの国が存在した。すなわち、ナルツィッセ王国とガルデーニエ王国である。だが、婚姻と陰謀とが、この二王国を一つにした。

 現在では軍靴の音と硝煙しょうえんの匂いの絶えない軍事国家となり、この大陸の向こう岸に広大な植民地を有する。


 花々の薫り咲き乱れる春が逝き、夏が到来しそうなある日。

 カトライア王国軍南部方面のとある部隊が、軍事演習を開始した。フルールとの国境付近で行われたこの軍事演習は、明らかに隣国フルールに対する示威行動に他ならなかった。

 軍事国家は、フルール王国を次なる目標と定めている、と誰もが気づいた。

 

 これはひるがえって考えてみれば当然の仕置きで、フルール国王ロベールは妻のベアトリクスを、カトライアの北、雪と湖の国であるマルグレーテ王国から迎えていた。マルグレーテとフルールに挟撃されると察知したカトライアは、自らの武威を誇示するしかなかったのだ。


 その為、フルール王国上層部は次の手を迫られることになる。

 


 海の宮殿と称される瑠璃ラピスラズリ色の宮殿、ラ・メール宮殿には、初夏の爽やかな光が室内を満たしていた。


 スリゼー公爵はその宮殿に参内すると、すぐに宮殿の奥、王の数ある私室のなかでももっとも広い一室に向かい、その豪奢なレリーフの美しい扉を軽く叩いた。

 どうぞ、という女官の声とともに開かれた扉の先には、半円形の静かな空間が広がっていた。淡い色のステンドグラスの嵌めこまれた、日差しをふんだんに取り入れた窓が、列柱のように並んでいる。クラヴサンや本棚やソファが置かれていた。


 ソファには本を読んでいるプラチナの髪の細身の美しい少年が腰かけていた。国王だ。今年十六歳になる、ロベール。崩御後には歴史書にロベール三世と描かれるだろう少年。

 その隣には、そのすぐ下の妹の第一王女テレーズがいた。こちらも色の抜けるような白い肌と、柘榴のような紅い唇とを持つ、宝石を思わす類稀なる美少女で、兄の隣で静かに本を読んでいた。

 テレーズの隣には小さな少女、今年四歳になる可愛らしいエリザベート王女がいた。エリザベート王女はようやく一人歩きができるようになり、少しだけなら話すようになってきている。

 ソファから離れたところでは、他のやはり美しい王妹たち——第二王女のシャルロットと第三王女のカトリーヌが、クラヴサンを弾いたり踊ったりしている。


 美しすぎ、そして幼すぎるゆえに、どこか不吉ささえ感じる兄妹たちだった。


 スリゼー公爵が入ってくると、王と王妹たちはその動きを止めた。


「なあに?」


 本から顔を上げて、国王がく。第一王女も顔を上げた。


「スリゼー公爵。お元気そうね」

「陛下、殿下、ご機嫌麗しゅう」


 跪くと、国王は「政治の話かな」と妹に本を渡し、こちらへやってきた。

 テレーズ王女は目をまたたかせ、スリゼー公爵を見た。

 国王はその部屋から素直に出て行く。スリゼー公爵は、国王に、「なるべく王女殿下がたのお耳に入れたくありません」と囁いた。国王は頷き、宮殿の中庭の紺碧の池まで、公爵を案内した。


 いつでも海を感じさせる紺碧こんぺきの池のほとりには、白や黄色の花が咲き乱れていた。畔に沿って朽ちた大理石で舗装された小径があり、国王と公爵はそこを歩いた。


「何の話?」

「カトライアでございます」

「何か手を考えた?」


 国王は首を傾げた。その仕草が、あまりにいとけなかった。


「妹ぎみのうち、どなたかをお輿入れさせるべきかと」


 スリゼー公爵の言葉に、まだ少年の国王は表情を硬くした。


「テレーズは輿入れ先が決まっている。そのほかの妹はまだ幼く……」

「お次の妹のシャルロット王女殿下でいかがでございましょう?」


 公爵の怜悧な声は池のさざなみの音に掻き消えなかった。国王は頷くしかなかった。


 テレーズは兄が出て行ってしまった後、しばらく妹たちの相手をしていた。

 ふう、とため息をつき、兄から返却された本を見る。テレーズがレオンから借りていた本だ。臙脂えんじ色の革でできたその本は、哲学の本で、見せたら兄は気に入って早速読みふけっていたのだった。


 女官に、「少し本を返してくるわ」と告げ、妹たちの面倒を任せた。マルグリットがエリザベートを雪中に突き飛ばした事件があって以降、さすがに女官たちはエリザベートの面倒を怠るような真似はしなくなった。


 それと同時に、今年十七歳になるレオンと十四歳のテレーズとの間に微妙な距離感もできていた。女官たちはレオン本人にはまるで自分たちの王子のように接するが、テレーズが再び一か月半も寝込むような事態になってはならないと思っているらしい。

 面会も少し制限されるし、以前とは異なり、レオンが女官たちの目のあるテレーズの居場所に参じることが多い。テレーズがレオンのところへ行くのは禁じられた。

 もちろん、女官たちとて未来のおしどり夫婦の邪魔をしたいわけではない。前述の理由もさることながら、初潮の始まった、急激に女らしい体つきになった王女を案じているだけであった。仲睦まじすぎるため、婚前にが起きてもおかしくはない、と。


 テレーズ自身も、女官たちが彼と微妙に距離をとってくれることに、安堵しているところがあった。マルグリットにあまり会いたくなかった。ヴィニュロー公爵家に嫁ぐということは、マルグリットと毎日顔を合わせることなのだと思うと、憂鬱になった。レオンだけとならこれ以上の幸福はないのに。


 だから、テレーズは、少しだけレオンを避けている節があった。それが、いけなかったのだろうか。

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