第9話 夫婦が愛し合わなければいけない決まりはない

 とぼとぼとラ・メール宮殿に戻る道すがら、考えこんだ。


 結婚するにしても、レオンとは冷たい夫婦関係のまま終わるだろう。テレーズはもうレオンに話す言葉が見つからない。レオンも、テレーズを本当は重くていとわしいと考えているだろう。


 大好きなひとと、一生、ずっと、心の通った会話もできないまま、死んでいく。


 顔を上げると、宮殿の玄関が開け放たれていた。女官が困った顔をして、エリザベートを抱いていた。

 四歳にしては育ちが遅れている末の妹は、火が付いたように泣いて大暴れしている。

 テレーズは急いで末の妹のところへ向かった。


「どうしたの」


「姫様」、と女官が溜息ためいきをついた。


「姫様のお姿が見えなくなっても、しばらくはご機嫌よくお過ごしだったのですが、先ほどからいきなり、大泣きして大暴れなさいまして」


 テレーズは急いで女官からエリザベートを受け取った。すると、すぐに末妹は泣き止んだ。女官が「リジー姫様は、本当にテレーズ姫様贔屓びいき」と肩をすくめた。


 紅葉のような小さな手のひらが、テレーズの泣き腫らした頬に伸びてくる。

 女官が不審げにテレーズを見た。


「姫様、まあ、とんでもなく泣き腫らされて。ヴィニュロー公爵邸で何がございました?」

「な、何でもないの……」


 テレーズは首を振った。


「姫様?」


 少しだけ、深呼吸をした。嘘をつくために。自分たちの虚飾の関係を周囲に知られてはならない。


「あのお家で、激しい恋のお話を読んでね、感動で泣いてしまったのよ」


 まあ、と女官は優雅に噴き出す。


「姫様はお心の清らかなお方。……ヴィニュロー公爵家は優雅なご家風で、絵画や芸術に造詣が深いお方が多いのでしょう。御心を動かす物語もたくさん御存知でしょう。そんなことで感動して泣いておられたら、お輿入れされたとき、毎日姫様は感動で泣いておしまいになりますわ」


 そう、本当にわたしには不相応、とテレーズはうつむいた。絵画や芸術など知らない。もちろん王女として恥ずかしくない程度には知っているが、造詣が深いとは到底言えない。きっと、あのブロンドの髪をした伯爵令嬢は絵画や芸術に造詣が深く、レオンと話が合ったに違いない。


「リジーと遊んでくるわ」


 テレーズがいうと、女官は解放されたような面持ちを隠し切れないまま、頷いた。



 エリザベートは最近、自分を料理人に見立てて、花を器に盛って周りに振舞ふるまうのがお気に入りの遊びになっている。


 子供部屋に行き、王妃や女官と作ったエプロンを着せてやると、エリザベートは得意顔になって、何が食べたいかお伺いを立ててくる。

 それで、肉や魚大きな花を焼く真似をしたり、野菜小さな花を器に綺麗に盛り付けようとしたりする。宮廷料理人の物真似をしているのだ。

 普段はこのお遊びに兄王や王妃、他の姉たちも参加し、客となってやるが、今日のお客はテレーズ一人だけだった。兄王夫妻は公務があり、シャルロットやカトリーヌはそれぞれ用事があるようだった。


 青い磁器に、白い薔薇と撫子が盛られていた。どうやら魚と旬の野菜であるらしい。


「げんきない。あっさりのあじの、たべて」


 エリザベートは姉の傷心を見抜いていた。


「ありがとう」


 テレーズは笑おうとして、うつむいた。涙がぽとりと、また落ちた。


「そうよねえ」

「?」

「そうだもの。お兄さまと王妃さまだって、仲は悪くないけれど、愛し合っているわけではないわ。マルグリット伯母さまだって、ご夫君が――ヴィニュロー公爵が、お父さまやお兄さまばっかりしか見ておられないで、ご自分をご覧にならないから、彼を見るの。夫婦が愛し合わなければいけないなんていう決まりはないわ。みんな愛し合ってなんかない。愛し合っていないのが普通なの。当たり前なの。自分で決めた相手じゃないのだもの。何を傷ついているの――」

「おばさま、いや!」


 エリザベートが震えて悲鳴を上げた。やってしまった、とテレーズは妹を抱きしめた。妹はあの雪に埋められた事件以来、マルグリットをおとぎ話の悪い魔女か何かのように考えていて、恐怖心を抱いている。


「大丈夫。伯母さまは遠いところにお出かけになられているわ。しばらくはお戻りにならない」


 エリザベートが「ほんと?」とテレーズの腕のなかで、首を傾げた。


「本当。秋が来るまではお戻りにならないわ」


 すると、妹はほっとしたように表情を緩めた。「やった!」とテレーズに思いっきり抱きついた。


「いっぱい、ねえさまとあそぼうねえ」


 テレーズはその物言いにくすりと笑う。テレーズの声音を真似している。

「そうね」、と彼女は笑う。


「そうよね。わたしにはリジーがいるもの。お兄さまも王妃さまもいる。シャーリーやカティだっている。天国にはお父さまとお母さまがいる。……」


 だからきっと、大丈夫、とテレーズは妹の頭をゆっくりと撫でた。



 テレーズは、ちょうどそのとき、すぐ下の妹のシャルロットが、兄の前でうずくまって泣き叫んで悲鳴を上げていることは、知らなかった。

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