第4話 幸福

 しばらく気まずい沈黙のときを過ごしていると、レオンがふと何か思いついたように、テレーズに視線を合わせた。


「テレーズさま、僕と一緒に勉強しません?」

「え?」

「このままずっと妹の世話と義理の姉上の道案内だけして終わるおつもりか?」

「刺繍もやるわよ」

「法学に歴史に外国語に数学に、……目が回るほど忙しいけど、その、何教科かだけなら、一緒に」

「……うん? うん」


 なんとなく頷いていた。読書することや勉強することは嫌いではなかった。

 少女は、はっ、と気づいたように目をまたたかせた。


「そうだ、エリザベートを迎えに行かないと」

「僕も行こうか?」

「だめ! 伯母さまから、だめっていわれているから!」


 彼は不審げに目を曇らせた。テレーズは、おや、と思った。彼は何もマルグリットから聞いていないのだろうか。


 授業を受ける場所は五つの宮殿のうち、シエル宮となった。

 シエル、という名の通り、天井が高く外から差し込む光をふんだんに取り入れたその宮殿は、しつらえられている部屋の半数以上が図書で埋まっていた。

 レオンの母のマルグリットは、王女とに大いに賛成した。まだマルグリットの考えなど見抜けるわけもなかったテレーズは、その時の彼女の行動に疑問さえ覚えなかった。


 信頼できる女官にエリザベートを預けてシエル宮へ向かうと、シエル宮へ向かう回廊で、レオンが待っていた。

 授業の時は迎えに来てくれることになっていた。

 差し出された手を繋ぐ。どこか冷たかった。


「手が冷たいわ?」


 彼の顔は相変わらず美しかったが、首すじに紅い薔薇の花のような傷がついていた。


「その傷、どうしたの!?」

「性格の悪い、しつこい侍女にやられまして」

「主君にみだりに暴力を振るってくるなら、その侍女は辞めさせるべきだわ……」


 なんてひどい、とテレーズが顔を真っ青にしていると、彼は曖昧に微笑んだ。そして、「こっちを向いて」とテレーズに要求する。


「首に口づけてください。書き換えて。僕の救い、僕の聖女、テレーズさま」


 テレーズは「もう、変な言い方やめて」とあきれ返りながらも、素直に首の傷に口づけた。


「傷が良くなりますように」


 彼女は彼の背中を叩き、シエル宮へと入っていった。



 教師たちが——この国でも一流といわれる学者たちが——二人を待っていた。


 教師たちは二人に分け隔てなく教えた。

 テレーズはレオンをはるかに越して賢さを見せることがあった。教師が舌を巻くほどの見解を見せることも。

 だが、それは周囲には秘せられた。レオンの母のマルグリットには特に明かしてはならないとのことだった。

 レオンは眉をひそめた。


「どうして? テレーズさまは素晴らしいご見識をお持ちだ。国王陛下をお支えする良き王女殿下になられると思うが。さすれば母上も喜ばれよう」


 教師陣は恐縮する。


「いえ、この国では女性がそのように勉学ができるなど、あり得ぬことですので。マルグリット夫人——いえ、マルグリット殿下の御不興を買います」


 少年少女は顔を見合わせた。だが、テレーズは言った。


「だって本当はレオンを教える教師でしょう? わたしのことばかり話していたらおかしいでしょう」

「……そうか」


 そのテレーズの言葉で納得いったふりをして、レオンは話題を切り上げた。

 それに、いいのだ、とテレーズは微笑む。つまるところレオンとしては、家庭に振り回されていた彼女に少しでも気分転換の時間を作るのが目的だったのだから。


 頭を目一杯つかった授業の休み時間は、レオンとシエル宮の散歩をする。

 誰もいない部屋に入ると、窓辺にふたりで腰掛けて、いろいろなことを話しながら、時折そっと口づけを交わした。

 テレーズとレオンの世界はそれで閉じており、幸福だった。数年後には結婚し、他の人間と同じように子供を何人か儲け、さらに満ち足りた暮らしをするのだとばかり考えていた。



 春が過ぎ、夏が来て、めっきり肌寒い秋になったある日、テレーズはシエル宮殿での授業を終えて、回廊を歩いていた。


 ふわりと、優雅な香りが漂った。


 何、と思ってみれば、二十代ほどの、月のような金色の髪をした、あおい瞳の端正な容姿の男がいる。身なりも大変整っていた。一瞬、ぼうっとした。


 ――もちろんレオンのほうがきれいだけど!


 その男が、「お越しでしたか」とテノールの声で話しかけてきた。


「な、」


 テレーズがその男に返事をしようとすると、その男の蒼い瞳はテレーズなど見ていなかった。金髪の豊満な肉体の女が回廊に立っていることに気づく。


 ――王妃さま?


 男はその金髪の豊満な肉体の女に騎士のように手を差し伸べた。女は――王妃は、白い頬を薔薇色に染め、男の手を取った。


「いつもありがとう」


 王妃は男に優しく微笑んだ。その瞳には、親密さを感じさせる光があった。

 なぜか、王妃さま、と声をかけることができない。王妃の義理の妹なのに。第一王女なのに。


 ――王妃さま、どういうことですか。そのお方はどなたですか。


 テレーズは回廊の隅で顔を隠し、王妃と男が立ち去るのを待つしかなかった。

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