九月二十六日(下)
そんな訳で、今にもぺしゃんこになりそうな山小屋の手前で、ダミアンは息を整えた。大陸一の肩書きがこの小屋の中に収まっているというのが、何かの冗談の様に思えてきた。
煙突から細く立ち上る白い煙をダミアンは見上げる。この季節のこの時間に、わざわざ暖炉に火を入れる理由は何だろう。
ダミアンが小首をかしげたその時、小屋から物音がした。何の音かは分からないが、小屋の中の存在感が一気に際立つ。緊張でダミアンの肌はヒリつき、
深く息を吐くと半開きになっている戸へ近づく。頭だけを小屋の中に突っ込むと、白っぽい大きな何かが目に飛び込んで来た。
背中だ。ゴツゴツしてだだっ広い背中が、暖炉の前の小さな椅子に腰掛けている。
普段は使われていないこともあってか小屋に物は殆どなく、隅の方に袋に包まれた大きな荷物が置いてあるくらいだ。そのはずなのだが、暖炉の前に鎮座している背中が大きすぎるせいで、小屋がやけに狭く感じる。
「あのー、すみません」
背中がぐるりとこちらを向いた。
のそりと立ち上がる。やはり大きい。六フィート半はある。余りの威圧感にダミアンは
「何だ」
ちょっと間を空けて、あ、喋ったのか、とダミアンは気付いた。異常な程の巨躯のせいで、森や川が口を利いている様な不自然さがある。
「いえ、その、お届け物と言いますか」
「入れ」
「はい」
ダミアンを招き入れると大男は再び背を向け、暖炉の前の椅子に腰を掛けた。見ると火には小さな鍋がかかっている。大男は木の棒を手に取り、鍋をゆっくりとかき混ぜ始めた。
小屋の中に足を踏み入れると、独特の異臭がダミアンの鼻を刺激する。獣の脂が熱される強烈な臭いをダミアンは嗅いだことがある気もしたが、よく覚えていない。
大男の体は逞しかった。ダミアンは今まで屈強な農夫達を何人も見てきたが、明らかに筋肉の付き方が違う。皮を突き破らんばかりに隆起する肉の
沈黙が小屋の中に満ち満ちている。大男は何も話さないし、当然ダミアンも喋らない。煙はちゃんと煙突に逃げているはずなのに、強烈な息苦しさをダミアンは感じていた。
想像通りだったな、とダミアンは思った。でかいし、強そうだし、寡黙だ。国々を渡り歩いているかは分からないけど、そんな雰囲気はある。
大男は鍋を混ぜる手を止めると、足下の大きな袋から金属の
そんなダミアンの視線に呼応する様に、大男は戸口を背に突っ立っているダミアンの方に座ったまま向き直った。
「これはな」
大男は熱気を帯びる膠を慎重に革の服へと塗布しながら、口を開いた。
「内鎧と言うんだ。鉄鎧をそのまま装備する訳には行かないからな、これを内側に着て外からの衝撃を吸収させるんだ」
「
失言が口から飛び出したことに、ダミアンは数秒かけて気が付いた。突然話しかけられたものだから、調子が狂ってしまったのだ。苦し紛れに「……ですか?」と付け加えておく。
ダミアンは黙りこくった背中にバレないように、こっそり戸の方を振り返った。全力で走れば、激高した大男から逃げ切れるだろうか。
が、当の本人は大して気にもとめず、慣れた手つきで革の内鎧の上で手を走らせながら、ダミアンの
「鎖帷子ってのはな、馬に乗る騎士や何かが着る分には良いんだが、俺達みたいに自分の足で一対一を戦う奴には重すぎるんだよ。だから使わん」
大男の分厚い手は内鎧を動きに馴染ませるように曲げたり伸ばしたりしている。
「確かに耐久性は劣るが、決闘で一発貰っちまったら、どの道ジリ貧になって死ぬだけだからな。動きやすい方が都合が良い」
大男は背中を向けたまま、首だけをダミアンへ向けた。
「さて、俺が誰か分かるか?」
薪が火の中で爆ぜる音が、無遠慮に響く。
「大陸一の代理決闘士だってことは知っています」
ダミアンは慎重に答える。
大男が突然笑い出し、椅子から立ち上がった。内鎧を大事そうに埃と砂にまみれた床に置く。
「『大陸一の決闘士』なんて安い口上はな、何処の決闘士も名乗ってんだよ」
豪快な笑い声に、ダミアンの中の「代理決闘士」が吹き飛ばされて塵になった。本当に想像通りか? とダミアンは考え直す。少なくとも、これを寡黙とは言わないはずだ。かと言って不愉快なお喋りという事もない。陽気で、気さくで、ダミアンは何となくアルフレッド叔父さんを思い出した。
振り返り、大男は高見からダミアンを見下ろした。
「俺はギヨーム。アルザスのギヨームだ」
どっかりと椅子に座る。拍子に小屋がちょっと揺れた。
「小僧、その袋がお届け物だろ。寄越しな」
名前ぐらい聞いてくれよ、とダミアンは思った。ズタ袋を差し出すと、岩みたいな手が受け取る。
「ふん。しけたもん送りつけやがって」
体格同様大きな独り言を漏らしながら、袋の中を弄る。
「おい、小僧」
「なんですか」
「白パン、いるか?」
白パンなんて数えるほどしか食べたことがない。ダミアンにとっては黒パンですら高級品だ。
「い、いいんですか?」
「いいよ」
ほらよ、とギヨームはパンを二つ投げて寄越した。ダミアンは慌てて両手を広げた。こんな汚い床にご馳走を落とすわけにはいかない。
宙を舞うパンに取り乱した様子のダミアンを愉快そうに眺めていたギヨームは、再び袋漁りを始めた。
「あの」
「ん?」
「ありがとうございます」
「ああ、気にするな」
「その、代理決闘士って
「はあ?」
「別に白パンを食い飽きる程の金持ちって訳じゃない。決闘の前はあんまり食わないようにしてるだけだ」
「そうなんですか」
「精々チーズぐらいだな」
ギヨームはズタ袋からチーズの塊を取り出して親指大に千切った。口に放り込むと、顔を顰めながら
「……嫌いなんですか?」
「好きじゃないが、味のあるものを口に入れとかないとやってけないから、仕方なくだ」
「パン、食べれば良いじゃないですか」
「あのな」
ギヨームはちょっと間を置いて、話し出す。
「オオカミが一番凶暴になる時って、どんな時だと思う」
「お腹が空いてる時、とか」
「そうだ。知っての通り、あいつらは腹が減ると人里に下りて暴れ回る。ただ、不思議なことに空腹のオオカミはそれに加えて強いんだ。腹が減って気が荒ぶるのは分かるが、よりすばしっこくずる賢くなる」
「へえ」
「人間も同じだ。なんにも食わないのは良くないが、適度に腹を空にしとくと、頭が
格好が良いな、とダミアンは思った。禁欲が己を強くするだなんて、まるで騎士物語だ。
「あ、だからその白パンを俺の前で食うんじゃないぞ。目の前でがっつかれると辛いんだよ」
白パンを大事そうに抱えながら所在なさげに立つダミアンを見て、ギヨームはしょうがないと腰を上げた。
「ついでだ、この袋もやるよ。これに入れて持って帰りな」
ギヨームからズタ袋を受け取ったダミアンは、妙な手触りを感じた。軽い何かが、まだ袋の中に入っている。
袋に手を入れると、何かが触れた。取り出してみると、それは丸まった小さな羊皮紙だった。
「あの、これ」
「どうした?」
ダミアンは何気なくそれを渡す。ギヨームは何でもない様に受け取る。
羊皮紙を開き、それを見つめた数秒後、ギヨームの顔から表情が消えた。目と鼻と口が付いているだけの肉の塊が、羊皮紙を穴が空くほど凝視している。
握りしめたまま、小屋の真ん中から動かない。異様な雰囲気が小屋に立ち込める。
ふっ、と息を吐いて、ギヨームは羊皮紙を椅子の側の袋に入れた。
「小僧、用は済んだろ。帰りな」
「……大丈夫ですか」
「ああ、大丈夫だからもう行きな」
「どうしたんですか」
「俺は詮索好きは嫌いだ。悪いことは言わないから帰れ」
「……嫌です」
ギヨームの表情があからさまに変わった。世の不機嫌をまとめて鍋にぶち込み、ぐつぐつ煮込んで出来たみたいな顔だ。
怖いけど、帰りたくなかった。代わり映えのしない退屈を絵に描いた様な日々に、突然投げ込まれた鮮烈な色を、無視出来る程ダミアンは大人ではなかった。
「ずっと震え上がってたくせして、何言ってんだ」
「違うんです」
ダミアンは目を伏せ、弁明して
「僕は今叔父さんと一緒に暮らしてるんですけど、酒浸りでよく暴れるんです。今は収穫祭の準備でずっと忙しくて、そのせいで普段よりも飲み方が酷いし、あんまり帰りたくないんです」
「……」
「りょ、両親は流行病で死んでしまって、叔父さんが唯一の親類なんです。いい人なんですけど、最近は顔を合わせれば酒が片手にあって……」
「分かったよ。帰らなくて良い」
ギヨームの顔と声色は元に戻っていた。いや、無理に戻したのだろうか、その頬はまだ
「特に構ってやれることもないが、好きにしろ」
ダミアンはアルフレッド叔父さんに後で謝ることを神に誓った。白パンを一つあげれば釣り合いが取れるだろうか。
ギヨームはチーズをちびちび
ダミアンは改めてギヨームを見た。痛々しく曲がった鼻の強い主張とは対照的に、目元は優しげだ。整えられてない顎髭が荒々しい印象を放っているが、外見よりも歳は若いだろう。二〇半ば過ぎといったところだろうか。
折角ここに残ったのだから、何か話をしたい。でも口を動かそうとする度に、さっきの形相が浮かんでくる。何度か
「ギヨームさんは、若い頃から強かったんですか」
ギヨームは
「構ってやれない、って言わなかったか」
「話すぐらいは良いじゃないですか」
とんとん、という規則正しい木槌の音が、小屋の中を巡る。
「弱かったよ。一番弱かった」
「一番、ですか」
「そう、一番だ」
「どうやって、強くなったんですか」
ギヨームは鼻で笑った。
「今でも弱いままだ。別に強くなんかなってないよ」
「でも、大公様に雇われてるんですよね」
「そうだな」
「それって、決闘が強いからじゃないんですか」
「そうだな」
木槌の音が止まった。ギヨームは足下の袋に
「それでも、俺は弱い」
立ち上がると、ギヨームは内鎧を着込んだ。動きを確認するように、体を捻ったり、腕を回したりしている。
「逆に、お前は強くなりたいのか」
「え」
ダミアンはちょっと面食らった。自分が質問をされることは考えていなかった。
「強く、なりたいですけど」
「けど、なんだよ」
「強くなっても、意味ないんですよね。僕は叔父さんみたいにこの領内で生きていくから」
「そうか、必要はないだろうな」
「でも」
「ん?」
「必要じゃなくても、やってみたいことって、あると思うんです」
「ほう」
「強くなるって言ったって、そんな簡単にはいかないですよね」
「どうだろう」
ギヨームは再び立ち上がった。内鎧を袋の中に入れると、ダミアンの方に向き直る。
「じゃあ、見せてやろうか」
「見せるって、何を」
「どんな風に戦うのか教えてやるよ」
ついてきな、と言って、ギヨームは小屋の外に出た。ダミアンも後を追う。
木々の隙間から
「知ってるかもしれんが、決闘士の装備は支給品だ」
「そうなんですか」
「相手にも俺にも同じ鎧、
話しながら、ギヨームは足踏みをする。
「だから決闘の動きを正確にやるのであれば盾があるといいんだが、今は面倒だからなしでいく」
足を肩幅に開き、やや腰を落として、ギヨームは長く息を吸った。
左足が勢いよく踏み出された。土が
軸になった右足が回転する。回転は脚へ、腰へ、肩へ伝わる。筋肉が引き締まり、生き物の様にうねり、その剛力を伝え、右手の木の棒が唸りを上げる。風切り音が森の空気を切り裂いて、真っ二つにした。
風圧が少し離れていたダミアンの顔を強かに叩いた。思わず言葉が漏れる。
「凄い」
振るわれたのがただの木の棒だと言うことが、信じられなかった。巨体がこの速度で動き、尚且つ一瞬で攻撃もする。
ダミアンは呆気にとられていた。この人はもしかしたら、とてつもなく強いんじゃないだろうか。
ダミアンの表情を見て取ったのか、ギヨームは満足げに笑った。
「どうだ、初めて見ただろ」
「初めてですし、全然弱くないじゃないですか」
「この動きは、決闘開始と同時に
「一撃で、終わるんですか」
「今みたいなの以外にも、盾を上手く使って攻撃することもあるな」
ギヨームは気を良くしたようで、次なる実演のため、元の体勢に戻った。
「こう盾で殴ってだな」
左腕を全力で前方に押し込み、
「刺す」
左右の足を入れ替えて前進し、目にも止まらぬ速さで木の棒を突き出した。
ダミアンは再び圧倒された。興奮が止まらない。この人はこの動作で誰かを殺す、という恐怖が胸の高鳴りを更に加速させる。まるで、酷く野蛮で洗練された舞踊を見ている気分だった。
「小僧、やってみるか」
「え、何を」
「俺の真似だよ」
木の棒を手渡され、ダミアンは面食らう。ギヨームは明らかに見世物を見る目で、成り行きを見守っている。
やってみたくない、というのは嘘だ。非日常を目の当たりにしたことで、気持ちが背伸びをしたがっているのが分かる。
どうやっていたんだっけ。最初に出したのは右足、いや左足だったか。ついさっき見たばかりのはずなのに、ダミアンの頭と体は肝心なところを覚えていない。
「ほら、早く」
「は、はい」
ギヨームは心底楽しそうに笑った。
「まあ、だろうと思ってたよ」
なら先に言ってくれよ、とは口にはしないが、抗議の意味を含めてギヨームの顔をダミアンは見上げた。相変わらず愉快そうな笑顔だ。
「お前は体格が小さい。力がない分を俊敏さで補え」
どうするのか、ということには一切言及しない。素早さを活かすと考えても、お手本が思い付かない。精々兎程度が関の山だ。
一か八かだと腹を括って、ダミアンは立ち上がり体勢を整えた。腰を落として後ろ足に力を溜める。
一呼吸置いて、地面を蹴る。右、左、右へと跳ねる様に走りながら、出来るだけ速く棒を振るう。
「やるな」
「本当ですか」
思わず
「そうだな、それもいいが他にもやり方はある」
少し思案してギヨームはダミアンの手から木の棒を受け取った。
「右の剣で切ると見せかけて」
ギヨームは木の棒で撫で切る動きを見せ、その途中で左手に素早く持ち替えた。
「左に持ち替えて突く」
途切れることなく左足を踏み出しながら棒を突き出す。
「やってみな」
これには自信があった。ダミアンは手先が器用な方で、叔父さんがやって見せてくれた手品を叔父さんよりも上手くやり、
ギヨームを真似て右手で棒を勢いよく真横に振るう。
棒が体を
棒を左手で受け取りながら、一気に体重を乗せて棒を突く。上手くいった、と思ったのも束の間、踏みとどまった足に痛みが刺し込んだ。
再び体勢を崩したダミアンにギヨームが声を掛ける。
「大丈夫か」
「いえ、大したことないです。木靴の大きさが合ってないので、それで」
ダミアンの説明を待たずに、ギヨームは木靴を引き抜いた。血の
「おいおい、大丈夫じゃないな」
ギヨームはダミアンを担ぎ上げると小屋の中に連れ込み、暖炉の前の椅子に座らせた。巨体を揺らしながら、大袋から器やら布やらを取り出す。
小屋の隅の
「その木靴はもう履かない方がいいな。その代わりと言っちゃ何だが」
言いながら
「これを使え」
「いいんですか?」
「俺はもう別のを履いてるし」
ギヨームは自分の足を指さす。丈夫そうな革靴があるべき場所に収まっている。
「その足じゃあ、良いも糞もなかろうが」
手早く革靴をダミアンの両足に履かせるが、ギヨームのお下がりということもあり、やはり大きい。
ギヨームは気に留めることなく、何処からか取り出した皮のバンドを靴の上から巻き付ける。
「よし、これで良いだろ。立ってみな」
ダミアンは立ち上がり軽く足踏みをしてみる。バンドが良い
「ありがとうございます。楽になりました」
「そりゃ良かった」
暖炉の火がさっきよりも明るい気がする。ダミアンが小屋の外を覗くと、夕焼けがひっそりと森を覆い隠そうとしていた。
小屋の外には木の棒が転がっている。突然ダミアンの胸に一抹の虚しさが差し込んだ。
「あの、僕。そろそろ帰ります」
ギヨームは戸口から空を見て首肯した。
「そうだな。そろそろ日が暮れるだろうから、森を歩くなら今の内だ」
「ギヨームさん、明日もここに来て良いですか」
「明日か」
口を歪めて、ギヨームは上を向いた。ダミアンも一緒になって見てみたが、
「明日はちょっと用事があるからな、悪いが無理だ」
「そう、ですか」
「ほら、木靴忘れるなよ」
ギヨームから木靴を渡され、ちょっと悩んだ後、ダミアンは袋に入れずに手で持っていくことにした。
「さよなら、ギヨームさん」
小屋の戸口から出て行こうとした時、ギヨームがダミアンを呼び止めた。
「小僧、名前は」
ダミアンは突然の問いに面食らった。何で今になって、とも思ったが、少し考えて、こう答えた。
「ダミアンです。僕は、オルレアンのダミアンです」
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