九月二十六日(上)

 足が痛い。新しい木靴の内側でめくれ上がった木皮が、ダミアンの足の裏を気紛れに突き刺す。歩を進める度に背負ったズタ袋が、規則正しく腰にぶつかってくる。

「本当に来てるのかな」

 ダミアンのつぶやきは大公領の森の中に吸い込まれていった。立ち止まって少し背伸びをすると、木々の向こう側に使われなくなって久しい猟師小屋が顔をのぞかせた。石組みの壁が所々外れていて、老いさらばえたロバにそっくりだ。

 小屋の小さな煙突から白い煙が立ち上っているのを見たダミアンは、ちょっと唾を飲み込んだ。



 ここ最近のダミアンは災難続きだった。今日の昼なんて館の階段を跳び降りた途端、木靴が突然真っ二つに割れた。しかも両方とも。

 バラバラになった木靴を抱えて、裸足で家畜小屋に帰ってきた甥を見たアルフレッド叔父さんは、酒壺つぼを片手に大笑いした。

「お前は神様に見守られてるな」

「何でだよ」

「割れたのが木靴じゃなくて館の床だったら、お前の頭がかち割られてただろうさ」

 大して面白くなかったので、ダミアンは黙った。その代わりに叔父さんの右手に収まっている酒壺を指さす。

「収穫祭まで断酒するんじゃなかったの」

 叔父さんは素早く干し草の山に酒壺を投げ込んだ。

「干し草が飲んじまった」

 軽く震えている叔父さんの手を見て、ダミアンは続く台詞を喉の奥に押し込んだ。

「何でも良いけどさ、木靴の替えってあるよね」

「あー」

 少しばかり怪しげな足取りで、叔父さんは家畜小屋の奥の方を一頻り探して回った。この家畜小屋は二人の家も兼ねている。臭うし四六時中騒がしいけれど、それなりに住み良い場所ではある、とダミアンは思っている。

「ないな」

 かぶりを振りながら叔父さんが振り返る。

 ダミアンは鼻にしわを寄せた。

「ええ、困るんだけど」

「ジローに頼みにいったらどうだ。奴さん、そろそろ冬のたきぎの準備で忙しいから、手伝ったら作ってくれるかもしれんぞ」

 ダミアンは無言で右手を差し出した。

 アルフレッド叔父さんは口の端を歪めて、家畜小屋の奥へ引き返し、荒縄で括られた塩漬け肉を引っ張り出した。

「いいか、これは俺のさかなで」

「分かった分かった」

 未練がましそうな叔父さんから、ダミアンは塩漬け肉を引っった。

 叔父さんは目をぐるりと回して、小言を続けようとした。が、何かを思い出したようで、両眉を軽く上げる。

「ああ、そういや、エミールの旦那が呼んでたぞ」

 塩漬け肉が悪くなっていないか確認していたダミアンは、思わずうめき声をあげた。

「何の用で?」

「それは知らん。おっかない顔はしてたけどな」

 思い当たる節はあるにはあるが、考えるだけ無駄だな、とダミアンは思った。何せ何もなくっても叱りつけて来るのだから。

「神様が見てるんじゃないの?」

 干し草の中を弄りながら叔父さんは横目で応えた。

「よそ見でもしてるんじゃないか」

「神様なのに」

「父なる神とは言え、知らなきゃどうしようもなかろう」

 叔父さんは狐みたいに口を広げると、仕返しとばかりに意地悪く笑った。

「まあ、どうとでもなるさ。腹を括って行ってこい」



 館の執事のエミールは大公領で働く何百という使用人をまとめ上げる立場でありながら、良く研いだ包丁で贅肉も筋肉もこそげ落とされた様な、痩せ細った体をしている。それはもう痩せている。即死してもおかしくない。

 なので、エミールは使用人たちから皮肉を込めて「旦那」と呼ばれていた。勿論面と向かって言うほど度胸のある奴は、まだ現れていない。

 それに旦那はとんでもない地獄耳だ。骨張った顔に申し訳程度で付いている耳が、よくあそこまで聞こえるものだ、とダミアンは思う。叔父さん曰く「あの体の幅を活かして、何処にでも隠れられるからだな」ということらしいが、真偽は不明だ。

 旦那は館の正面玄関の前で腕組みをして立っていた。洗練された意匠の館に、あの貧相な体型は正直不釣り合いだ、とダミアンは思った。

 美しく整えられた道を、駆け足でやってきたダミアンを見つけた旦那は尖った岩みたいな顎を動かしかけて、顔を顰めた。

「何故お前は裸足なんだ」

 旦那の塩辛声にダミアンは努めて真剣な表情で応えた。

「いやあ、ちょっと木靴が壊れてしまいまして」

 旦那はダミアンを上から下まで満遍なくめ付けて、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「まあいい。次に私の視界に入るまでには、その身なりを足下から何とかするんだな」

 旦那の小言ははえになってダミアンの周りを飛び回る。

「それで、ご用件は?」

「流石のお前でも、大公様が聖ミカエル祭の日に決闘裁判を控えていらっしゃることは知っているな」

「ええ、一応」

 これは使用人たちの間では持ちきりの話だった。なんでもろうかいな大公は領地問題で貴族連中といがみ合っていて、遂に決闘裁判で片を付けることになったらしい。皆ここ最近は、貴族どもが喧嘩をふっかけただの、大公様がげきぶんを送りつけていただの、かしましく噂を交わし合っている。

 ダミアンにとっては、大して興味の湧かない話だ。年老いた大公が何をしようが、家畜小屋にまでそのしわ寄せは届かないだろう。

「大公様はこの度の決闘裁判に代理人を立てるということも知っているな」

「そうですね」

 ここで旦那はおもむろに背後からズタ袋を取り出した。棒きれみたいな足の間からちらちら見えてはいたのだが、ダミアンは気付かないことにしていた。どうせズタ袋の中身は面倒事と厄介事だ。

「ならば話が早い。今日から決闘裁判までの三日間、大公様の代理決闘士の世話をお前がしろ。決闘士は森の猟師小屋に滞在しているからな、手始めにこのズタ袋を決闘士までに届けてこい」

「ま、待ってください」

「なんだ」

「僕は叔父のアルフレッドの手伝いで手一杯なんです。しかも収穫祭まで時間もない。そもそも大公様の代理人のお世話なんですから、僕みたいなすぼらしい奴じゃなくて、館の小姓がやった方が筋は通るんじゃないでしょうか」

 旦那は目をむいて、ダミアンに骨みたいな指を振りかざした。あんまりにも勢いよく振り回すものだから、折れるんじゃないかとダミアンは気をもんだ。

「第一、私の決定に口答えするな」

「はい」

「第二、私はお前の木靴が壊れた理由を知っている。今日の昼、小姓達を馬鹿にして喧嘩を売ったんだろう。館の中で暴れて木靴を割っていたと聞いているぞ」

「いえ、それは」

「黙れ。頭の弱いお前は忘れているかも知れんが、お前と館の小姓ではそもそも身分が違う。酒狂いの叔父と二人揃そろって家畜小屋を追い出されたくなければ、その獣臭い口を今すぐ閉じて仕事に取り掛かれ」

 ダミアンはむっつりと黙ってズタ袋を抱えてその場で回れ右をした。急ぎ足で立ち去るダミアンの背に、旦那の愉快そうなダミ声が腐ったリンゴの様にぶつかってきた。

「もっとも、ここを出た方がもっと良い住処を見つけられるかもしれんがなあ」



「なんだい。やけに不機嫌じゃないか」

 ジローは薪割り台から仏頂面のダミアンに目を移して苦笑した。薪割りの手を止めて、年相応に白くなったあごひげでている。

 ジローの背後には頑丈そうな小屋が一軒、そのまた後ろに広がる森の番人面でどっしりと腰を下ろしていた。

 大公領の森は館からほど近くに位置している。時に大公の狩り場にもなるこの広大な敷地は、数人の管理者によって常に手入れがされている。といっても管理者とは要するに木こりであり、ジローもそういったしがない管理者の一人だ。

「普通だけど」

 ダミアンは素っ気なく返事をした。

「どうせまた旦那か小姓どもから『ありがたいお言葉』をいただいたんだろう」

「どうせ、って何だよ」

「お前は今年で十一だ」

 ジローは薪割り台に突き立てた斧を引き抜いた。足下に積み上がっているまだ太い薪を台に立てる。斧を背負う様に振り上げると、腰を落として振り下ろした。

 小気味の良い音で薪は綺麗に割れた。木屑きくずが陽光の中をきらめきながら、ジローの周りに飛び散る。

「ここに来たのが確か六つの時だから、大公領で暮らし始めてもう五年になるな」

「そうだけど」

 ダミアンに両親はいない。五年前からアルフレッド叔父さんが育ての親だ。その頃から既に酒臭かったのを、ダミアンはぼんやりと思い出す。

「もうそろそろ、ここでの上手い生き方を理解したっていいはずだ」

「分かってないって、訳じゃない」

 エミールの旦那は勿論のこと、館の小姓達もダミアンより身分が上だ。伯、大公といった上級貴族の小姓は、基本的にそれらに仕えている騎士もしくは下級貴族の子息、特に長男、次男以外が勤める。

 別に珍しい話でもないが、平民よりはるか高位の存在である彼らは、使用人をいびることで日々の鬱憤うつぷんを晴らそうとする。当然使用人達は黙って耐えるほかない。小姓達はそれを分かっているし、分かった上でやっている。ダミアンはくそだなと思う。

「そりゃ良かった。なら、何故そうしない」

 ダミアンは肩をすくめて、自分の足を見た。爪の間に土と砂が入り込んで黒くなっている。

 勿論、ダミアンだって、黙って頭を下げていた方が良いことは分かっている。少しでも反抗的な態度を取れば、十倍になって返ってくるのだから、一々不くされていたら切りがない。

 これは世界の理の一つだ。朝日が東から昇り、雨が空から降り、死が皆に等しく訪れる様に、平民は貴族の横暴に逆らえない。変えられないし、変えようとも思わない。

 ただ。

「別に。怒ることも許されないのかなって、思っただけ」

 哀れむ様な、労る様な、同情する様な、よく分からない溜息をジローは吐いた。

わしだってお前の気持ちは分からんでもない。若い頃は同じ様に憤ったもんだ」

 ジローは斧を薪割り台に突き刺した。腰に手を当て、ぐいと伸びをする。

「一発ぶん殴ったら、さぞ気持ちが良いだろうとな。だが、そう言っていても始まらんのだ」

 何故なら、変えられないから。

「それなら、腹を立てるだけ無駄だ。どうにかしようと考えるのも、知ることすら無駄だ。そうだろう?」

 ジローは柔らかく微笑んでダミアンを見つめる。ダミアンは自分の汚れたつま先にもう一度視線を向けた。

「それにな、お前は気に食わんかもしれんが、儂やお前がここで働いて生きていけるのも、旦那とかのお偉い方々のお陰だ。お前なんて特にそうだろう」

 ジローの言う通り気に食わないが、確かにそうだ。ダミアンは勝手にアルフレッド叔父さんの元に転がり込んでここに来たので、実際は大公領の使用人ではない。だから旦那があの骨張った顎を軽く動かしただけで、ダミアンは放逐だ。

「御機嫌ぐらいは取っておいて損はないぞ。まあ、無理にとは言わんが」

「世渡りってやつ?」

「そうだな。貴族の皆々様に頭を下げておけば、死ぬまでここで生きていける。ありがたい話だ。考えようにっちゃあ、感謝しなきゃいけないかもな」

 ジローは硬いでこぼこの手の平で、ダミアンの背中を優しく叩いた。

「木靴を貰いに来たんだろう。ちょっと待ってろ」

 斧を再び薪割り台に突き立てると、ジローは小屋の中へ入る。ダミアンは小屋の戸が閉まる音を聞いて、顔を上げた。

「死ぬまで、ここか」

 その場に腰を下ろすと、背中にズタ袋が触れた。ゆるゆると灰色の雲が秋の空を西へ西へとっていく。静けさの中から風が森を吹き抜ける音が響いてくる。

 ズタ袋を触ってみる。柔らかい何かが粗い布越しに触れた。多分食べ物の類いだ。

 代理決闘士はどんな男なんだろう。大公に雇われているともなると、相当に強いはずだ。ダミアンは勝手に古傷が全身を覆った大男を想像する。丸太の様な腕で剣を振るい、無駄な話は一つもしない寡黙な男。自由気ままに諸国を渡り歩いて、仕事をこなす。多分そうだ。

「良いなあ」

 ダミアンの声も森からの風にさらわれて、何処かへ飛んでいく。

「これでどうだ」

 ジローが木靴を手に小屋から出てきた。傷一つないところをみると、新品らしい。

「ありがとう」

 ダミアンは塩漬け肉をズタ袋から引っ張り出した。

「おお、ありがたい」

「大したものじゃないけど」

「そんなことないさ、アルフレッドによろしく言っといてくれ」

 ジローは塩漬け肉を受け取って、木靴を地面に置いた。ふわりと木の香りがダミアンの鼻をくすぐる。

「ちょっと大きいかもしれんが、まあいけるだろう」

 木靴に収まった足を見ていたジローはつと目線をずらした。

「で、なんだその袋」

 ダミアンはエミールの旦那から仰せつかったことを話した。罵られた部分は黙っておいた。

「決闘士か」

「知ってるの?」

「そりゃあな。まあ、大公様もお元気なことだ。とうに六十を越えていらっしゃるのに、政にはまだまだ未練があるんだろうな」

「決闘士って、どんな人か分かる?」

「ああ、噂でだがちらほらと耳にしてる。王国一どころか大陸一の腕前らしい」

「へえ」

「バカがつくほどの大男で、決闘の相手を盾で殴り殺したこともあるって聞いたな」

「……」

「命乞いをする相手には腕や足を痛めつけてなぶり殺しにするとか」

 押し黙ったダミアンをジローは暫く眺めていた。ふらりと秋風が二人の足下を通り過ぎる。

「今のは嘘だ」

「そうだよね」

 安堵あんどで声がちょっと震えた。ダミアンは奥歯を噛みしめて平静を装う。

「ただ、大陸一の腕前っていうのは本当らしいぞ。何せ我らが大公様が雇ったぐらいだからな」

 微笑を口に含みながらジローは続ける。

「まあ裁判は収穫祭の日だから、今日を含めてたった三日のお勤めだろ。気楽に行ってこい」

 雲は変わらずゆるりゆるりと動いていく。

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