玉響 - 余命1年の君へ -

ろくねこ

玉響

「あのね、私あと1年で死んじゃうの。」


紅花色の花弁が無数に咲き誇る桜の木を背景に、ベットの中で座っている彼女は微笑みながら僕にそう言った。


「…昔から華澄は冗談を言うのが好きだったもんね。もちろん嘘だよね、僕はもうそんなのには騙されないよ。」


「嘘じゃないよ詩音くん。今日お医者さんに言われたの、『このままだとあなたの寿命は長くて1年程』なんだって。」


まるで当たり前かのように話す華澄の様子から僕は彼女が嘘をついているとは思えず、本当の事なんだと理解する。


僕の目線の先にある真っ白な華澄の瞳には、僕の姿がはっきりと映し出されていた。



-- 麗らか --



『葵ヶ坂病院前〜葵ヶ坂病院前です。』


バスの中で揺られながら眠っていた僕は、バスの運転手のアナウンスで目が覚めると同時に横にある鞄と大きめの袋を持ってバスの出口へと向かった。


バス停すぐの敷地玄関から入ると、病院の正面入口まで無数の美しい桜の木が続く桜並木を僕はゆったりとした速度で歩いていく。


途中に見える中央広場ではここで入院しているであろう小学生位の小さい子達やご老人が大きな桜の大木の下で動き回っていたりベンチで座って眺めていたりと随分賑やかな様子だ。


様々な様子を眺めながら桜並木を歩いているといつの間にか目的地であった病院の正面玄関の扉前にまで来ていた。


今風の自動開閉式の扉が開いて建物の中に入ると診察の待機で待っている人達と受付で座っている看護師さん数人の姿が視界に入る。


僕はそのうち1人の看護師さんの前のカウンターへと向かって歩いていった。


「すいません、H306室の『胡蝶(こちょう) 華澄(かすみ)』さんの面談で来たのですが。」


「H306の胡蝶様の面談ですか、確認を取りますのでしばらくお待ちください。御名前をお伺いしてもよろしいですか?」


「はい、『浅桜(あさくら) 詩音(しおん)』です。うたにおとで詩音です。」


「浅桜 詩音様ですね、承知致しました。それでは担当の者に確認を取りますのでお掛けになってお待ちください。」


僕は看護師さんの説明に従いホールの待合室の大きなソファに腰掛けた。


今は時間的にもお昼頃の為、受付のカウンターの奥では同じ看護師さん仲間達と仲良く話しながらランチを食べている看護師さんも居る。


なんとも平和な光景だなと思いながら座って待っていると、さっきの看護師さんが受付横の扉から出てくる姿が見えた。


「面談のご予定の『浅桜 詩音』様、第一受付までお願いします」


僕はその看護師さんの指示通りに1番左の第一受付の所へと向かった。


「H306の『胡蝶 華澄』さんとの面談の許可が降りましたのでこちらの面談者の首下げをお付けください。お帰りの際は受付の横にあるあちらの回収箱にそのままお入れ下さい」


「分かりました」


僕は看護師さんの丁寧な説明を聞きながら今手渡しされた「来客者用」と書かれた少し固めの首下げを受け取り自分の首元にぶら下げると、フロアの端にあるエレベーターへと向かう。


H306病室はこの病棟の3階にある病室なのでここから3階まではエレベーターで行く必要があるからである。


僕の姿が濁って反射する重めの銀色の扉が開くと、普段のショッピングモールなどにあるエレベーターとは明らかに広さの違う長方形の空間がそこにはあった。


普通のエレベーターは乗れても11人程が限界なのに比べてこのエレベーターは17人乗りと書いてある。


ベットや医療機器を運ぶ為に使われる物と考えると実際その位の大きさがあるのが妥当なのだと思う。


僕はそんなエレベーターに乗り込むと左側にあった階層選択のスイッチの中から『3』と書かれたスイッチを押すとそのスイッチは暖色に光った。


『ドアが閉まります』


そう音声アナウンスがあると目の前の銀色の扉が閉まり再び僕の姿がそこに映し出された。


エレベーターが上に上がる瞬間、少しだけ体が浮く感覚があるのだが僕はその感覚がどうも苦手なのだ。


僕はその感覚に耐えながら3階へ到着するのを今か今かと待っていた。


『3階です。ドアが開きます』


そのアナウンス通り階層選択のスイッチの上にある電子パネルには大きく『3』という数字が映し出されている。


そうして開いた扉から僕が出ると、先程の落ち着きのある音楽のかかっているゆったりしたロビーとは違い、何も音のしない静かな通路が現れた。


僕はその静寂に包まれた白い通路を歩き始め、右折左折を繰り返して病室の前に着く。


先程のエレベーターと比べると随分小柄な扉の横にあるネームプレートには綺麗な字で『胡蝶 華澄』と書いてあった。


コンコンコン


僕がその扉をノックすると中から落ち着いた優しい声で返事が返ってきた。


「はい、どちら様でしょうか。」


「すいません、浅桜 詩音です。胡蝶 華澄さんのお見舞いに来ました。」


「詩音くんね、どうぞ入って。」


僕はその返事を聞くと壁と同じ色の白い病室の扉をガラッと開けた。


入った病室は半分の仕切りの所でカーテンがかけられていて蛇口などが設置してあるこちら側は薄暗くなっている。


数歩進んでとても鮮やかな純白のカーテンを開けると、1人の椅子に座った女性とベットの少女が楽しそうに団欒をしていた様子だった。


「詩音くん、来てくれたんだ。」


このベットに座っている少女こそが『胡蝶(こちょう) 華澄(かすみ)』僕の幼馴染である。


美しい白い髪と同色の真っ白な瞳でまるで人間では無いのかと疑ってしまう程の見た目だが彼女は純粋な人間だ。


髪や瞳が白い事もあるのだが最も人間味を少なくしている要因としては彼女の異常なまでに白い肌にあるのだろう。


僕はそんな彼女の座っているベットの奥に座っている女性に会釈をしてからベットの手前の椅子に歩いていった。


「やあ華澄。体調はどうなの?これ果物買ってきたから良かったら食べてね」


「ありがとう。体調は前の時と特に変わりは無いよ」


僕は少女にそう質問をしながらリンゴやぶどうといった果物が入っている袋をベットの少し離れにある台に置いた。


少女は僕の質問に微笑みながら答えると彼女の隣に置いてあった本を手に取った。


本の表紙には『断罪』と言う本の名前が書かれていて深海の奥底のような青い色で塗り尽くされている。


「詩音くん、この貸してくれた小説凄く面白かったよ。昔から物語を書く才能があるな〜とは思ってたけどまさか作家さんになっちゃうとは思わなかったな。」


「僕もまさか自分が本を出すだなんて思っても無かったよ。」


そう、彼女が今持っている本は正しく僕が1年程前に書き、作家として初めて出した本なのだ。


中学生の頃に趣味のように様々な物語を書いて、それを出版社に送ってみるという事を続けて行った結果。送り始めて半年程が過ぎた頃に出版社から「本を出さないか」という手紙が来たことで1年前に作家として初めて本を出した。


そうして高校に進学した今は学業を行いながらも学生作家として活動を続けているのだ。


「もっと詩音くんが書いた小説を読んでみたいんだけどもし良かったら貸してもらってもいい?」


「もちろん良いよ。でも僕ので良いの?僕の本よりもっと面白い作家さんの本とかもあるよ?」


「ううん、詩音くんの小説が良いんだ。私の自慢の幼馴染が作家さんになって書いた、私にとっても自慢の本だから。」


そういうと華澄は手に持っている本をぎゅっと自分の体に押し付けるようにして抱きかかえた。


僕はそんな華澄を見て嬉しい気持ちになる反面、どこかやるせない気持ちも芽生えていた。


『1年』


華澄が今までのように僕の本を読んで、褒めて、そして自分自身の自慢までしてくれる年月は残り1年という気づけば過ぎ去って行く年月しか無いのだ。


僕は彼女が嬉しそうな反応をする度に自分の無力さ、そして運命という名の変えられない呪いを実感する。


「詩音くんどうかしたのかしら?随分顔色が悪いように見えるのだけど…。」


僕の不穏な心の中は椅子に座りながら心配そうに見つめてくる女性の声によって消え去った。


優しい声で僕の名前を呼ぶ女性の名前は「胡蝶(こちょう) 百合(ゆり)」さん、苗字や白い髪色から見て分かる通りの華澄の実の母親である。


「いえ…大丈夫です。お気になさらず。」


「そう…ならいいのだけど…。」


僕が百合さんの心配そうな質問に歯切れの悪い回答を返すと、百合さんの返答にも少し心配が残ったような言い方だった。


「それじゃあ詩音くんも来てくれた事だし、華澄ちゃん。私はそろそろ帰るわね。」


「うん、お母さんありがとう。」


「詩音くん、私はもう仕事に戻るけど華澄ちゃんの相手をしてあげてくれるかしら?」


百合さんは華澄の言葉を聞いてニコッと微笑んだ後、僕の居る方向に体の角度を変えてそう言った。


「はい、何時間でも相手をしますよ。」


百合さんの言葉に僕はそう笑顔で返す。


僕には百合さんの申し出を断る理由なんて物は一欠片も無かった。




「それでね、その小学生の女の子と一緒に中庭の綺麗な桜の木を見ながらお話してたの」


百合さんが帰って華澄と2人で話をし始めてから随分と長い時間話をしていた。


病室に備え付けられている時計をチラッと見ると、時刻を表す針はは16時30分の所を指している。


病院に着いた時には綺麗な青と白で染まっていた空が、徐々に夕焼けの茜色を帯び始めた。


華澄は時間も忘れて病院での出来事を楽しそうに話しているのだが、もうそろそろお別れの時間も迫ってきているのだ。


「華澄、もうそろそろいい時間だから僕は帰るね。」


「え、全然気が付かなかった。もう4時間位経ってるんだね、凄く時間が早く感じるよ。」


華澄は僕の言葉を聞いて納得するのと同時に少し寂しそうな表情を浮かべた。


僕としてももう少し華澄話していたいという思いもあるのだが、華澄の定期検診が17時に始まる為この病室を出ていかなければ行けない時間なのだ。


そして華澄に別れを告げながら僕が病室の扉から出ていくと、華澄は名残惜しそうに僕に手を振っていた。


「…くそっ」


僕は病室の扉が閉じ、華澄の姿が見えなくなったのを確認してから僕の口からそんな言葉が思わずこぼれる。


僕の感情の全てが詰まっている掌は強く握っていた事で爪がめり込み血が流れ出していた。



-- 蝉時雨 --



華澄の余命宣告から4ヶ月。


鮮やかに咲いていた桃色の絨毯は跡も残らずキレイに消え去り、代わりに嫌という程の直射日光が照りつけていた。


病室から見える大きな桜の木もすっかり紅花色の花弁を落とし、深緑色の葉で覆い尽くされていて夏の訪れを丁寧に知らせてくれているようだ。


「うわぁ、本当に詩音くんの小説が載ってるよ。ねぇ見てお母さん!詩音くんの名前があるよ!」


「本当ねぇ〜、凄いじゃない詩音くん。」


華澄は右手の指で雑誌の1ページの一端を指さしてまるで子供のようにはしゃいでいた。


その理由と言うのが、僕が書いた小説がとある小説大賞で受賞をし、その受賞作品としてこの雑誌に載っていたからである。


『小説家浅桜 詩音の第1ファン』を名乗っている華澄からすると一般的な『推しが雑誌に居る』のと同じ状態なのだろう。


百合さんも華澄の隣に座り雑誌を眺めながら笑顔で楽しそうに華澄とお喋りをしている。


「今回は順位受賞じゃなくて特別賞の受賞だから大きくは出てないんだけどね。いつかは1番大きく雑誌の中心に載るのが夢なんだ。」


「詩音くんなら絶対に出来るよ!この幼馴染である私がそう言うんだから絶対にね!」


「ははは、じゃあ華澄の顔に泥を塗らないように頑張るよ。」


華澄が自分の胸に右手を当てて自慢げにそう言ったので、僕はその華澄の自信満々な様子を見て思わず笑ってしまった。


そしてその僕の笑いにつられたかのように華澄と百合さんも笑い始めた。


普段は堅苦しく静寂に包まれている病室が何やら今日は賑やかだと言うことで、華澄の検査をしている医師の人も僕と入れ替わりで入ってきた時に何やら楽しげな表情だった。



カリカリ…


ごく普通な一軒家の静かな一室の中で、永遠と紙を文字を書く小さな音だけが響き続けている。


原稿用紙の上で黒い爪痕を残すペンはまるで踊っているかのように紙の上を動き回っている。


「詩音〜そろそろご飯できるから降りてきて用意手伝ってちょうだ〜い!」


その声に反応した時、自分の脳は既に判断を終えて右手のペンを進ませるのをピタッと止めていた。


自分の部屋で小説の原稿を書いている途中の僕の耳に、叫ぶように大きい声で僕の名前を呼ぶ母親の声が入り込んでくる。


「わかったよ、すぐ降りる。」


僕はその母親の声に反応すると、右手に持っていた黒色のペンを机に置き机上で文字の並びを照らしている暖色のライトを消した。



「それで、華澄ちゃんの様子はどうなの?悪くなったりとかはして無い?」


僕の目の前で茶碗を片手に心配したような顔で僕に質問してくるのは僕の母親だ。


僕と華澄が幼馴染ということは僕の家と華澄の家、もっと言えば母親同士が僕たちが産まれる前から仲が良かったという事もあり、このようにちょくちょく華澄の現状を報告をしているのだ。


以前に「そんなに気になるのだったら母さんも華澄のお見舞いに言ってきたらどうだ」と言った時には、「あんたと華澄ちゃんとの時間を邪魔しちゃ悪いでしょ」と一蹴された。


僕は左手に持っていた茶碗を机に置いて母さんの質問を答えるように言った。


「入院し始めた時と比べたら特に大きくは変わってないよ。ちょっと外に出てみるとかもしてるらしいし案外健康なのかもね。」


僕がそう答えると母さんは安心したような表情で机の上にあるお味噌汁に手を伸ばし口元まで運んだ。


そのお味噌汁の入った器を机に置く時にふと左手の薬指でキラリと光る銀のリングが目に入ったのか、テレビラックの上にある写真立てに目を移した。


「…あの人も今の華澄ちゃんと似たような状態だったもの、今の詩音の気持ちはよく分かるわ。」


母さんの見つめる先の写真立てには母さんと小さい僕、そして1人の男の人の姿が映っている写真が入っている。


その男の人は僕の実の父親であり、僕が2歳だった14年前に突然の病によってこの世を去った母さんの夫だ。


父さんは突然倒れ病院に運ばれ、1年の年月が過ぎたと共に無くなった。徐々に体の運動機能が低下して行き、まるで老衰かと思うような亡くなり方をしたらしい。


それは入院の年月や状況を見てみても今の華澄と同じと言っても差し支えない程に重なっている。


だからこそ母さんは今の僕の気持ちを汲み取って寄り添おうとしてくれているのだろう。


あの頃の自分がそうされなかったから。



食事を終え、自室に戻った僕は夜にもかかわらず熱い風が吹き込んでくる窓を閉め、外の月を眺めながら母さんの言葉を考え込んでいた。


静寂に包まれているはずの部屋で、昼間に聞いた騒がしい蝉時雨の幻聴が耳元で聞こえる。



-- 逢魔が時 --



「…もうベットから立ち歩くのもダメになっちゃった。」


華澄は前までの様子と変わらず、大きくて真っ白な病室のベットに座って僕と向き合って話しているのだが1つ状況が変わった事がある。



それは医師から事実上の「運動禁止」が出た事である。



病気で体の弱っている華澄の事なので運動禁止と聞いても当たり前だと思うかもしれないが、今回は「運動的行動」では無く「日常生活的行動」の禁止なのだ。


つまり食べ物や飲み物を取りに行く事も病室から移動する事も全て自分の足で行くことが出来なくなると言うことである。


華澄の苦笑いから放たれたその言葉を聞いた瞬間、さっきまで動いていた僕の口はピタッと止まり、静寂に包まれた病室には一瞬にして外の子供たちの騒々しさが流れ込んできた。


「ずっと言われ続けて来たから覚悟はしてたんだけどね。実際に自分の身が置かれるってなるとキツイものがあるね。」


華澄は全く取り乱すような様子も無く、ただ淡々と落ち着いた様子で話している為、僕はまた冗談なのだと思った。


「…そんなの…今度こそは華澄の悪い冗談なんでしょ…そうですよね百合さん…。」


僕は華澄の横に座って話を聞いていた百合さんの方を真っ直ぐ見ると、百合さんはゆっくりと僕の視線から外すように下を向いた。


共に医師から話を聞いたであろう百合さんがとても悲しそうな表情で俯いている様子を見て、僕の『信じたくない』という気持さえもが事実を受け入れる。



「…華澄はなんであんなに平気そうな顔をしていれるんでしょうか」


僕の隣で自販機の飲み物を買おうとしている百合さんに、僕はそう質問をした。


百合さんは少し驚いた表情をしていたが、直ぐに元の表情に戻り自販機の点灯しているボタンを押し、落ちてきた飲み物を取ると僕の方を向いた。


「あのね詩音くん。華澄ちゃんが本当に平気そうに見えるかしら。」


「…僕には怖くないと思っている様にしか見えなかったです。」


「そう。」


僕がそう返答すると百合さんは小さなカフェラテの缶を開けて飲み始めた。


「本当にそう思っているのならまだ華澄ちゃんの事を完全に理解しきれていないわね。」


「…それはどういうことですか。」


僕は百合さんの放った言葉に少し不快感を覚えてしまった。


ずっと一緒に居て大切にし続けた『胡蝶 華澄』という女の子との今までを全て否定されたような気がしたからだ。


「あの子はね、他人の、しかも詩音くんの前ではどうしても弱っている姿を見せないようにしているのよ。だから本当のあの子は『平気そう』じゃなくて『平気に見せてる』のよ。」


百合さんはそう言うと右手に持っていたカフェラテを飲み干して、自販機の隣に置いてあるゴミ箱に捨てると僕の方を真っ直ぐ向いた。


「あの子なりの決意があるのだと思うのだけれど、きっとそれはとても辛くてとても悲しい、苦しい事だと思うの。」


「だからね。もっとあの子の事を知ってあげて欲しいの。詩音くんが、華澄ちゃんの周りの誰よりもあの子の事を理解していられる位に。」


力強く話す百合さんの目は真っ直ぐ僕の顔を向いていて、本心からの言葉なのだということが伝わった。



ガラガラ


病室の重い扉が開くと、さっきから特に変わった様子のない華澄が座っていた。


扉の開く音に気がついたのか、僕と百合さんが病室に入るのと同時に華澄は扉のある方向を向く。


「あ、おかえり詩音くん、お母さん。」


「ただいま。」


ニコッと笑う華澄の目の下は擦ったせいなのか少し赤くなっていて、真っ直ぐ見つめている真っ白な目は少し涙目になっている。


百合さんの言っていた『平気と思わせる』のを僕の前でして感情を殺していたから僕のいない所でその感情が溢れてしまったのだろうか。そんな考察をしてしまった。


その様子を見た瞬間、僕の身体は考えるより先にベットに座っている華澄のもとへと向かい、僕より小さな体を優しく抱きしめた。


「…詩音くん、どうしたの急に抱きついて。もしかして私の事好きになっちゃった?」


「…」


華澄は茶化すようにそう言ったが、何も反応も示さない僕の様子を見て茶化す口を止めた。


僕は華澄を抱きしめていた腕を少しだけ強く、しかし痛みを感じない程度に抱きしめ直す。


「華澄…ごめんね」


「詩音くん、急にどうしたの?私そんな謝らないといけないことされてないよ。」


華澄は僕の言葉を聞いて不思議そうな顔でそう答えた。


もちろん僕が華澄に直接的な何かをした訳では無いので、華澄からしたら理由も無く謝られているから理解できないのも仕方がない。


僕は華澄の胸あたりにあった顔を上げるのと同時に体を持ち上げ、まるで花を扱うかのように優しく華澄の頭を撫でた。


「ごめんね、華澄。無理させてごめんね。ずっとこの病室で1人恐怖と隣り合わせでいるのは…怖いよね。なんの力にもなれなくて…ごめん…。」


言葉を発すれば発するほど僕の胸は段々と熱くなってゆき、それと共鳴するかのように僕の瞳からは涙がこぼれ始めた。


止めようにも止まらない。無力さ、後悔、怒り、悲しみ、僕の全ての感情がこもった雫はこぼれ落ちるのを辞めたりはしない。


その瞬間、僕の瞳の横に華澄の小さな白い手が伸びてきて、僕の流れている涙を拭った。


「私ね、今詩音くんがなんでこんなに泣き続けて謝ってるのかは分かんないけど、少なくとも私が言えるのは私の人生は詩音くんが居たからこんなに楽しいものになったんだと思うんだ。」


華澄の言葉を聞き、僕は思わず真下を向いていた顔を上げて目の前の華澄を見た。


華澄は優しく微笑みながら僕のことを見つめて、僕の体に腕を巻き付けて抱きついてきた。


抱きついた華澄は顔が見えないので、表情を読み取る事は出来ないので分からないが、華澄の小さな体は小刻みに震え続けている。


僕はそんな華澄を抱きしめたまま再び頭を撫でて慰めた。



これはただの恋ではなく、悲しみの結末を迎える恋なのだと。僕の中の決意は決まった。



-- 冬草 --



「…さっむ」


華澄の余命宣告からおよそ9ヶ月の月日が過ぎた。


季節は冬。辺り一面は普段から見ている道がまるで違う国かのように感じる程の真っ白な雪景色である。


こんなに寒い日に何故万年引きこもりの僕が出かけているのかと言うと、それはこの有名なスイーツ店のケーキを買う為である。


その理由は今日1月5日が僕の父さんの誕生日であり、そして命日だからだ。


毎年この日なると僕は家から電車で少し離れたこのスイーツ店のケーキを買っていくのだが、それは僕の父さんがここの店のチョコケーキが大好物だったからだ。


チリンチリン


木目で出来たオシャレな扉を引いて開けると、きらびやかな鈴の音がするのと同時にスイーツの甘い香りが僕の鼻を通り過ぎて行った。


「いらっしゃいませ、ケーキ以外のスイーツはそちらのトレイとトングでお取りください。」


僕がレジ前に向かうと、レジで立っている若い女性の店員さんは親切に説明をした。


「すいません、このチョコケーキをホールで1つお願いします。」


「かしこまりました。」


注文を終え、商品の入った箱を受け取った僕は親に購入完了の報告メッセージを入れて店を出た。


その瞬間、僕のポケットに入っている携帯電話が震えた。


大きめな黒いダウンコートのポケットから携帯電話を取り出すと、画面には「胡蝶 百合 さんからの着信」と映し出されている。


僕は画面の緑色の通話開始ボタンを押して耳元に携帯電話を持っていた。


「はい、もしもし。詩音です。…え。」


百合さんからの電話の内容を聞いた途端、僕は動揺のあまりさっき買ったチョコケーキの箱を思わず地面に落としてしまった。


完全に気が動転してしまっていて、箱を拾うという行動を考える暇もなかったのだ。


「…とりあえず今すぐそちらに向かいます。最短でも5分ほどは掛かります。では」


僕は百合さんの通話を切って再び携帯電話をコートのポケットに入れると、駅の方向に向かって走り始めた。


後ろで先程の店員さんが「お客様!商品をお忘れですよ!」と叫んでいる声が聞こえるが今はその声に反応する余裕も無いほど必死に走る。



電話の内容は華澄の様態が急変したというものだった。



「すいません!浅桜 詩音です!」


「浅桜様ですね、こちらです!」


僕が見慣れたロビーに駆け込み、響き渡る様な大声で受付の看護師さんに名前を言うと直ぐに緊急用のエレベーターへと通された。


恐らく百合さんが僕の名前で人が来るということをあらかじめ伝えておいてくれたのだろう。


そのまま看護師と一緒に緊急用の高速エレベーターに乗り込むと、あっという間に3階に着き扉の開いた先は華澄が居ると思われる手術室前だった。


僕が今までに感じたことが無いほどのスピードで目の前の手術準備室に走り込むと、そこにはベットで横になって口元を薄緑色のプラスチックのようなもので覆われている華澄の姿があった。


「…華澄、なんで…まだ時間はあったはずだろ…なんでこんな急に…」


僕は横たわって寝ている華澄の弱々しい細い手を握り、沸き上がる感情を感じながら思わず顔を俯かせた。


情けない格好を見せている僕を見て、冷たく弱い、しかしその奥に力強さを感じさせる華澄の手が僕の頬を撫で始める。


「…詩音くん…私…ね、本当はもっと…詩音くんと…一緒に居たかった…これからの手術で…どうなるのか分からないけど…今はとりあえず…詩音くんに言っておかないと…。」


「分かった…分かったから…もう無理して話さなくてもいいんだよ…」


華澄の声は途切れ途切れで明らかに弱っている様な声だったが、話している華澄の表情は笑顔のままだった。


美しく可憐な、そして温かみを感じるような、そんな笑顔。僕の1番大好きな笑顔だ。


無理に話すなと華澄に言う僕だったが、華澄はそんな僕の言葉を聞かずに話し続ける。


「あのね…私…詩音くんと居られて…幸せだった…本当に…幸せだったんだよ…ずっと笑って…たまに喧嘩して…でも仲直りして…そんな日々が…私は大好きだった…。」


「そんな事…これからずっとしていけばいいだろ…今言わなくてもいいじゃないか…」


僕の心の叫びはまるで届いて無いかのように華澄はずっと笑顔で話を続ける。


その言葉1つ1つが華澄との記憶を呼び起こしていき、僕の感情はもう自分ではどうしようも無い状態になっていた。


「だからね…詩音くん…これだけは絶対に…言っておかないと…いけないと思ってた…詩音くん。」


「…どうしたんだい。」



「………愛してるよ。」



「……僕も愛しているさ、永遠に…この世が終わる…その日まで。」



華澄は笑顔の表情を変えずに真っ白な瞳から涙を流して「両想いだったね。」と言って華澄を乗せたベットは手術室へと運ばれて行った。


ベットのローラーの音が、慌ただしい手術準備室の中でも鮮明に聞こえる。




…あれから10年の月日が経った。


高校に入学したばかりだった僕はその時15歳だったが、10年の月日が経った今は25歳となり、しっかりと成人として社会に出ている。


あの後、1年の期限付きで待ってもらっていた出版社の短編連載が大注目を浴び、僕は16歳の歳で「文豪学生小説家」として「浅桜 詩音」の名を世間に轟かせた。


その後、僕は小説家として活躍をし、今や世間では知らない人は居ない若手有名作家として話題になっているそうだ。


「…聞いてよ、僕ねすっごく有名な小説家になったんだ。有名な賞にもこの間僕の作品が選ばれて、そして今度テレビに出るんだよ。」


僕はたくさんの墓石が並んでいる人里離れた墓地の一角にある墓石の前で、独り言のように語りかけていた。


変に見えるが、僕はこの1月の5日には必ずこの墓地に来てこの墓石の前で現状報告をするようにしているのだ。


僕は目の前の墓石をじっと見つめて白い息が出るほどの冷たい空気を吸って息を整えた。


「本当は僕の活躍を実際に見てもらいたかったんだけどね。」


「私が見てるんだからいいじゃん!そんなに強欲なんですか〜?」


「うわぁ!」


墓石にそう願いを言って目を瞑ると後ろから何者かが抱きついてきた。


僕は思わず驚いてしまったが直ぐに元の自分に戻って抱きついてきた何者かの方向を向いた。


「…華澄だけじゃなくて父さんにも見てもらいたかったんだよ。」


「へぇ〜実は詩音ってファザコンだったりする?」


「実際に会ったことはねぇ〜よ。」


僕の胸の高さで抱きついて来たこの少女は正真正銘「胡蝶 華澄」であり彼女は生きていた。


というのもあの時の手術の直前に、アメリカでの医療留学をしていた天才日本人医師と呼ばれる人が帰国をしていたそうで、成功率の低い華澄の手術は無事に成功したのだ。


手術後の華澄にはこれといった後遺症は無く、5年の長いリハビリを経てこうして元の生活に戻ってきたという訳だ。


入院中ずっと切らずに伸ばし続けた長い真っ白な髪は現在、肩の上ほどの高さのボブカットまでバッサリ切っている。


華澄曰く「あの時はラクな前髪だけを切ってたけど本当は本で見た短めもしてみたかったんだよね〜。」との事らしい。


本やなにかに直ぐに影響されやすいのは彼女らしいなと思った。


「いや〜寒いね〜もうそろそろ帰らない?」


「そうだな、父さんへの墓参りも終わったし、そろそろ帰るか。」


「よ〜し、ここまで来たし帰りに美味しいご飯を食べに行こ〜う!!もちろん詩音の奢りで。」


「…鷹るき満々じゃねぇか…まぁいいけど。」


「やったぁ〜それじゃあ行こっか!」


少し前を歩く華澄はオレンジ色のマフラーを振りながら後ろを歩いていた僕の方向へ振り向いた。


満面の笑みで笑う彼女のはまるで舞い降りてくる雪の月初の様に美しく、そして鮮やかな笑みだった。

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