第6話
気が付けば、私は手帳をギリギリ握り締めていた。革張りの表紙には爪の跡がくっきり残っていた。
私は深呼吸をする。そうでもしなければ、狂気という深海に溺れてしまうのではないかと思われた。
そうさせるのは、手の中で不気味にテラテラ輝く手帳。それを所有していた十六女黒栖という少女に他ならない。
――あの時を境に黒栖は姿を消した。
私はといえば、なぜだか姿を消すことはなかった。一緒にいたはずなのに。
理由はわからない。あの魔法陣の中に入って、黒栖とともに何をして、その結果何が起きたのか、全然覚えていなかった。あるいはあまりにショッキングなことに、記憶に蓋をしてしまったのかもしれない。
その日の明けの明星が昇るころ、私は通りかかった警察官によって保護された。夢遊病のように不確かな足取りで学校の近くを歩いていたらしい。ブツブツ何かを呟いていたらしいが、やはり記憶にない。どうやって山を下りたのかさえ覚えてはいなかった。
服は何かに引っ掛けたみたいに傷ついていて、腕や首元には似たような傷がついていた。どれも浅いもので、下山する際に木の枝にでも引っかけたのだろうと警察は考えたらしい。私もそう思うが、今思うとそれにしても傷つきすぎだった。
じゃあ何によって引っかかれたのかと尋ねられると、答えに窮してしまう。誰か知らない人間に乱暴されたという痕跡も幸いなかった。それなら黒栖……それはあり得ないと私は断言できる。もっとも理屈ではなく、直感だが。
宇宙人。
当時の私の回答である。当然のことながら一蹴された。だが、あの時の私は本気でそう思っていた節がある。
霧みたいに白々した記憶の中で、唯一覚えている言葉がある。それは人間が発しているにしては、母音と子音の区別が曖昧で、音もどことなく間延びしていた。例えるなら、お経のように一つ一つの音が繋がっているように感じられた。
そのひとつなぎの言葉というのが、先ほど挙げた言葉である。
「ビュンキラービュンギラギン ティンクララ ヘィアィア ボオウボオウ カアカア ペィアピィア」
手帳にも書かれた、呪文めいたその言葉を、指でなぞりながら読み上げる。
ザラザラとした紙の質感。どこからともなく風が吹き込んできて、豆電球を揺らす。バタンとけたたましく扉が閉まった。物置の扉を開けっぱなしにしていたことを今更ながら思い出した。昔は秘密基地のように使っていた物置は、大人になった今だと影の向こうに何かがいるような気がしてどうにも落ち着かなかったのだ。
誰かが入ってきたような気配がして扉の方を振り返る。だが、木製の扉の前には誰もいなかった。四畳半もない物置の中に隠れられるような場所はなく、まったくの杞憂だった。
どうやら私の精神は過敏になっているらしかった。手帳の内容は、すっかり忘れてしまっていたとはいえ、恐怖はなく、懐かしさがこみあげてくる類のものだったのに。
そのオカルトじみた魔術とか宇宙生物とやらが、二十年のあいだに積み上げてきた常識とか理性といったものをグラグラ揺るがしてきているとでもいうのだろうか。
「何をバカバカしい」
私はユルユル首を振った。そんなことがあるわけがない。私たちがやっていたことは結局のところオカルトの範疇を出ていなかった。大学生になっていろいろなことを学んだ今ならそれがわかる。
それに何より、黒魔術の結果として何かが起きたということは、記憶している限りないのだ。私と黒栖は秘術を行うためにニワトリを絞めて、魔法陣の前で厳かに呪文を唱えたものである。その結果起きたことといえば、お尻を百回叩かれたくらいである。
世界の崩壊とか、何やら悍ましい存在の顕現とかそういったことは一切起きなかった。
少なくとも、記憶の中ではそういうことになっている。
つまるところ、あの時――黒栖が行方不明になってしまったあの夜に何が起きたのかはわからない。私たちが黒魔術と称してやっていたおままごとが、あの夜、本当のものになってしまったのかもしれないのだ。
そう考えると、うすら寒いものが背中を走った。死にたいと思ってオカルトをやっていたわけではない。この世に対する未練というものは尽きるところがなく、世界を破壊しようだとか、この世ならざる存在と対面したいという欲もなかった。
では何のために黒栖と親しくしていたのか。
……その答えにたどり着いたことは、今のところ一度もない。
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