第58話 償いの愛

 

 心歌術エルリートはパンテオンの魂と肉体を解離させる奇跡の術。クルールの魂はパンテオンだったが、その肉体と肉体の宿るもう一人の魂は只人であり心歌術エルリートの鎮魂歌の適応外であった。クルールの魂は完全にネルファの肉体から切り離され、その場に残されたのは心歌術エルリートで害することのできない只人のネルファ本人。

 彼女は静かに眠りについていた。


「これも、アイレさんの考えの内だったんだよね」


 同じ境遇の、好きな人に自分のいない世界を幸せに生きてと願われた同士、思う所がないわけがない。強い悪語のすべてがルナをあおるためであり、己を殺してもいい悪者にするためだった。

 彼は最後まで悪役を貫き通した。その愛を貫くために。その優しさを無意識に残しながら。

 アディルとリヴにはアイレの真意は伝わっていない。アイレという偏愛者は怪物を生き返らせるために数多の関係のない人間を生贄にし、ネルファを陥れて欲望を貫き通した悪者でしかない。


「どうしてっ⁉」


 だから、振り返った先でリヴが苦しそうにルナを責め立てることがルナにはよくわからなかった。


「どうしてルナがっ殺したのっ⁉ あ、あたしとお兄ちゃんがしないといけないのに……なんで⁉ ルナはこの世界の人じゃないかもしれないのに!」


 彼女の怒りも涙も悲しみもすべてはルナを思ってのものだ。記憶がなく、この残酷な世界に染まり切っていない、誰も死んでほしくないという誰もが嘲笑ちょうしょうして呆れる世迷言を本気で願うことができる純粋無垢な女の子。


「ルナはそんなことしなくてよかった! ルナを、守るのはあたしたちの役目だからっ」

「…………」

「だから――っ」


 切実な願いは罪から逃げるように吐き出された。


「ルナは汚れたらダメなんだからっ!」


 愛他的な感傷と利己的な願望がルナの在り方を否定する。そう在ろうと決めて、アイレが肯定してくれた優しさを、けれどリヴは拒絶する。

 そんな在り方はルナには相応しくないと。

 切願するリヴに胸が痛むのを感じながら、それでもルナは変わらない。


「ごめんなさい、リヴ。私は誰も死んでほしくないと思ってる。それは変わらないの」

「じゃあ――」

「それでもね。私は大切な人を、リヴをアディルさんをセルリアさんを、アイレさんをクルールさんを助けたいんだ」

「……っなんで⁉ 二人は悪者だったじゃん! 救うってなんなの!」

「それは……」


 言えない。言ってはならない。アイレが成そうとした愛の真相を知ってしまったら、きっとリヴもアディルも耐えられないはずだ。

 パンテオンに対して救うという決断ができたのは、記憶のないルナだからだ。

 話そうとしないルナに「どうして……っ」と憎み悲しむリヴは何かを嘲笑わらうように。


「罪ってねすごく痛くて重いんだよ。……ルナには絶対に背負えないよ」


 歪みは自己防衛を強くルナの決意を否定する。きっとリヴからすればルナの覚悟は幼子の決意のようだっただろう。無知だからこその在り方。

 心底、罪を嫌い、罪を嗤い。罪を怖がるリヴの口先に――違う、そうルナは頭を横に振った。



「私は決めたの。大切な人を救いたい。そのために強くなりたい」

「――――……」

「罪を背負う覚悟はできてるよ。殺人者として、それでも大切な人を助けるために生きたいんだ」

「――――――」

「だからね。私は今の私が間違いだなんて思ってないよ」


 悲壮や後悔の影は見えなかった。強固な声音に誇りなどという立派なものはないが、それでも胸を張って声を張って意志を正して言葉に宿った。ならばそれはルナの生き様と言うのだろう。


「…………なんで……」


 罪を恐怖するリヴは愕然がくぜんうつむき、それ以上は何も言わなかった。

 ルナのもとまで歩いてくるアディルも何も言わなかった。彼はルナを追い越し、眠るネルファを抱きかかえルナに背を向けて歩いていく。


 この瞬間、きっと互いの道を違えたのだろう。

 それはどうしようもないさがだ。

 殺す許しを求め罪に恐怖する道化のリヴ。

 使命のためならば容赦しない在り方の裏に偽善を秘めるアディル。

 誰も死んでほしくないと願い、殺人者になっても大切な人を助けると誓ったルナ。

 誰もが矛盾を抱き期待を押し付け理想を重ね合わせる。移ろい続ける意思の中で、きっと変わらないものが欲しいのだ。

 だから、純粋無垢な優しさを求め、立ち上がる勇士を求め、思い描く勝利を求め。

 だからこそ、揺るぎない誰かの意志は自分の理想を砕いてしまう。人の意識に依存できも共存はできないのだから。

 アディルは確かな憤慨ふんがいを覚えながらも、それ以上に己の情けなさを呪いながら、せめての義務を果たそうと歩く。

 ただ一人、この凄惨な戦地で生き延びているバカな男の下へ。


「…………」

「……ッチ。なんだよォ? 俺を笑いにィきたのかァ? それともォ殺しにきやがったァ?」


 左腕を無くし、もともと傷だらけだった身体を更にズタボロな状態の男、アンギアは唾を吐き捨てる。見下げるアディルの腕に抱えられているネルファを見て、その顔が歪む。


「まさかァ……また俺にィその餓鬼ィのおもりをしろってかァ?」

「そうだ」

「ハッ! 冗談だろォ?」


 明確な怒気を孕むアンギアだが、アディルの顔色は変わらず、その真剣な瞳は彼の胸の内を見透かすように。


「カイン・ビルマー。ギウン・フォルス・サリファード」

「⁉」


 顔色を変えた彼に告げる。


「そして、アンギア・セブン。オマエら三人は軍時代の同期なんだろ」

「どうしてそれをォ⁉」

「…………ギウン・フォルス・サリファードは俺たちが殺した」

「――――」


 それだけで彼にはすべてが伝わった。鼻で笑った彼は馬鹿馬鹿しいと持ち上げた身体を力なく地面に倒す。今だ不透明な白霧の空が何もかもを隠してしまっている。


「そうかァ。アイツはついにィ狂っちまったかァ」

「…………」

「ああそうだァ。テメェーの言う通りィ。俺らはァ軍の同期だァ。三人で冒険にィだって行ったこともあるゥ……特別仲がァよかったわけじゃねェーが……義理ってもんはァ確かにィありやがるゥ」

「…………」

「カイン・ビルマー。アイツがァ病気だったのはァ知ってやがんだろォ」

「ああ。毒素の溜まる病気だって、言ってやがった」

「…………俺のせいなんだァ」


 それは彼がみせた二度目の後悔とやるせない怒りだった。


「俺が肝心なァ所でェしくじっちまったァ。敵は黒毒水蛇メラノケファルスだァ。情けねェーことにィ俺は死ぬとォ思ったぜェ。そんな俺をォあのバカはァ庇いやがったァ。直ぐにィ消毒したがァ……手遅れだったァ。アイツはァ冒険もォ軍も辞めやがったァ」

「だから、ネルファを受け入れたのか?」


 もちろん、彼の娘のこともあるだろうが、きっと一番の理由はカインへの償いだったのだろう。彼の人生を奪ってしまった罪への贖罪。


「はっ笑えるだろォ。こんな面でェ女々めめしいかってんだァ。でもなー、失ったもんはァどうやってもォ取り戻せねェーんだよォ」


 妻も娘も友も幸せも。

 だから、生きる命以外すべてを失ったネルファを受け取ることはできないと告げた。

 それでもアディルはその場を去らずに一つだけ問う。


「軍の依頼を受けてまで手に入れようとした金で何をするつもりだった?」


「…………」


 口を閉ざした彼をアディルは逃がさない。その眼は今一度罪と向き合えと言って来るようで、アンギアはもう逃げられなかった。


「……。その女の、家をォ買ってやるゥつもりだったァ」

「家?」

「アア、そうだァ。家だァ。こんなァ危なっかしいィ場所じゃなくてなァ。天場のォ危険のねェー都市に家をォ買うゥ。そいつが……あいつがァ幸せにィ生きられる、そんな場所をだァ」


 彼は下手くそに情けねーと歯を強く食いしばった。


「クソだろォ……今もォまだァ……あいつの、家族あいつらの……むすめネルアを重ねてだよォ。ホント……くだらねェー」


 妻と娘を失って五年。冒険にのめり込み何度も死を見ては引き戻され、二人の所へ逝けずただ忘れるための生きる日々だった。五年の年月は徐々に二人との日々を薄れさせ過去のものにしてくれた。それでも……娘とよく似たネルファを見た瞬間、アンギアは重ねてしまったのだ。ネルアではないとわかりながら、ネルファを己の娘のように。


「んなもん、全部がァ俺の身勝手なァ罪滅ぼしだァ」


 この上ない欺瞞だと、アンギアは己に反吐する。娘に償うためにネルファに家を与えようなどと、どの面を下げて言えたものか。過去を嫌うあまりにネルファを引き留めなかったくせに。


「ほんと、わらえねーよォ!」


 罪悪感と愚かさに切り刻まれるアンギアの傷口を更に広げるように、アディルは告げる。


「なら猶更だ。ネルファはオマエにしか任せられねー」

「――ッざけんてんのかァ‼」


 殴り掛からん勢いで上半身を起こした彼は左腕の痛みに唇を噛む。


「俺はァだなァ‼」

「やれよ」

「は?」


 厳しい声音が突き刺す。


「やれよッ! 償う気があんならこいつをっ……幸せにしてやれよッ!」


 地団駄を踏み、腰を落としてネルファを押し付けるアディル。


「そのくだらねー矜持なんざ捨てて、くだらねー金でこいつを生かしてやれよ! カインができなかったことを、償いだろうが娘の代わりだろうが生きさせてやれよッ!」

「…………」

「腕のねーテメェーにできんのはそんくらいだ」


 そう、突き放したアディルはネルファをアンギアの代わりに抱えて背を向ける。

 それの背を穴が開くほど見つめながら、アンギアはふと思うのだ。


「オマエらはァ……なんて言うんだろうなァ」


 そう、わかりきった答えに彼は右手の拳を地面に叩きつけた。




 *




 夢を見ていた。あなたが消えていく夢を。あなたが変わらず幸せを願ってくれる夢。生きてと抱きしめてくれた夢を……見ていた気がする。


 夢としては朧気おぼろげで、誰かと何か話したような気がするが、何一つとして思い出せない。そもそも、これもまだ夢の中なのだろうか。そうだとしたら私はいつ夢から覚めるのだろう。

 いや、もう目覚めなくてもいいかもしれない。だって現実は辛いことばかりだから。

 あなたのいない世界をどうやって生きたらいいのか、やっぱりわからない。だからもう目覚めなくていい。そうすればきっとあなたの傍にいけるはずだから――


 ――お願い、目を覚まして。


 その時だった。聞き覚えの無い声がした。私と同じくらいの女の子の声だと思う。判然としない白い空間を見渡してみても誰もいない。きっと幻聴なんだと思い込んだ。


 ――お願い、お父さんを救ってあげて。


 え? 今度こそはっきりと聴こえた女の子の声。切願の響きを帯びた言葉に辺りを見渡し、うっすらと浮かぶ女の子がいた。女の子としての形がわかるだけで、どんな子なのかは何もわからない。

 あなたは? そう訊ねるけど女の子は答えてくれなかった。代わりに。


 ――お父さんのせいじゃないって言ってあげて。


 そんなお願いが続く。


 ――幸せだったよ。

 ――楽しかったよ。

 ――生きててよかったよ。

 ――お父さんの子どもで嬉しかったよ。

 ――お父さん、大好きだよ。


 私はその言葉を復唱した。どうしてか口にしなといけない気がしたらか。私は涙を落した。驚いて目じりを指で触れる。つーっと雫が輪郭を描いて落ちて行く。

 静かに星のように。私は拭うことができず、流るるままに涙する。

 すると、女の子は笑顔を浮かべて。


 ――ありがとう、あなたも幸せになってね。


 そう言い残して完全に消え去った。今のがなんだったのかわからない。けれどそうだ。

 カイルのせいなんかじゃない。

 私はカイルという時間が幸せで。

 楽しくて。

 生きててよかったって何度も思った。

 あなたが私の騎士で嬉しかった。

 カイルが大好きだ。

 今もこれからもずっとずっと大好きだ。

 聴こえてくる誰かが誰かを呼ぶ声。私はその声に自分の意志で答える。

 だから――




 —――――――――――――――――




 夢から目を覚ます。

 長い長い夢から覚めて最初に目に入ったのは、目を赤らめた男の人だった。一瞬カインかと思ったけど似ても似つかない。厳つい顔の男の人は目元を袖でごしごしと拭い。


「ネルファ・アルザーノ」


 私の名前を呼ぶ。よく見て聞いて男の人が誰だったか思い出す。


「アンギア……さん?」

「……アア。アンギア・セブンだァ。……カインと軍からのダチだァ」

「そう、なんですか……」


 ああだからかと納得する。だから彼は無法都市に逃げて来た私たちを受け入れてくれたのだと。私はベッドから身体を起こして改めてアンギアさんと対面する。アンギアさんは何か言い難そうに、包帯の巻かれた腕に一度視線を落とし左胸の傷痕から手を離して、どこか穏やかな相貌が私を見つめてこう言った。


「だからァ、俺と一緒にィ来ないかァ?」

「…………」


 どういう意味か最初はわからなかった。けれど、右手を差し出すごつごつとしたその手はカインの手によく似ていて、その眼は真剣だった。

 考えて考え尽くしてそれでも何もわからない私が信じられるのはただ一つだけ。


「カインのお友達ってほんとうなの?」

「ああ。なんならオマエの知らねェーやんちゃだった頃のォ奴も知ってるぜェ」

「例えばどんなのですか?」

「俺ともう一人とォカインでェ、騎士に喧嘩吹っ掛けてェ基地を滅茶苦茶にィしたりなァ。奴がァ戦犯だァ」

「うそ、私の知ってるカインからは想像もできないわ」

「まーなァ。二十年の付き合いだァ。テメェーが望むならァ俺の知る限りをォ話してやるよォ」

「……ふふ。それはとても魅力的な提案ね」

「はっ!」


 私の知らないカインを知るために生きる。あなたをもっともっと大好きになる。それは辛くて虚しく苦しいと思うけれど、きっと私にとっての幸せだ。


 幸せになろう。そのために生きよう。

 カイン、あなたのことが今もこれからもずっとずっと大好きだから。


 私はアンギアさんにぺこりとお辞儀をした。


「不束者ですがよろしくお願いします」


 困り顔をした彼に私は少し笑った。

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死贈りの歌姫 青海夜海 @syuti

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