第52話 夢想花レヴァリア

 

 世の中には不可能と思われる事象が複数ある。その中でも摂理せつりに反する絶対不可能こそ生命体の蘇生だ。それはどんな秘術や神秘、魔術を持ってしても叶わない願い。

 そのような不可能が溢れる世界で、されど納得できない者らはこいねがうのだ。不可能を可能にする理や次元すらも越える圧倒的な理不尽――奇跡を。

 嗚呼、正しくその出来事は奇跡と言えた。どのような形であれ、死した魂が再び肉体に宿り生き返る、それ即ち蘇生であり誰も見たことのない奇跡の一端である。


「生命は肉体に魂を宿すことで『生きる』と言う。死は肉体から魂が切り離された状態、人であれ獣であれすべての生物に等しく魂は宿る。が、一度離れると輪廻転生の儀式を行わなければ再び生を受けることはできない。それが世界の決まり事だ」


 しかし、その決まり事に反して再び生を受けた存在がそこにいた。


夢想花レヴァリアは本来ならあり得ない魂と肉体の融合、結合を膨大な命を対価に成し遂げる。それが夢想花レヴァリアの奇跡――蘇生だ」

「それって、ネルファさんの身体と誰かの魂を融合させたということ?」

「そう。死んだ人に未練がある彼女を誘導するのは簡単だったよ」

「……。そのために、たくさんの人を殺したの? 関係ない人を生贄いけにえみたいに!」

「君は嫌がりそうだね。あと、みたいじゃなくて生贄だよ。正真正銘のね」

「――っ! ひどい! そんなの酷すぎるよ! あなたの私欲で沢山の関係ない人たちを殺すなんて許されない!」


 正論を吠えるルナ。しかし、優しさの欠片もない非道で冷酷な眼差しはあざけるように。


「僕にとって誰とも知らない君たちの命より、ただ一人の愛した人が大切なんだ。非道? 残酷? 冷徹? 笑わせないで。この地獄に正義も倫理もないよ」


「――――」


「君の正義エゴと僕のあいに違いなんてない」


 言葉に詰まってしまう。だってそれはすべてこの世界に存在して定義され確定拡張された法定だ。この世界の記憶の一切がないルナの言葉はすべて空虚に落ちる。ルナの倫理観や道徳心が手放された【エリアここ】ではひとがりと変わらない。それがどうしてアイレの切なる願いを否定できるか。


「僕はずっと望んでいたんだ。。そして今、僕の願いは叶った。彼女は生き返った。姿が違ってもこの肉体に宿っているのは確かに彼女の魂だ。どんな君であっても僕は愛するし、愛されたい。だから、ここまでありがとう」


 なんの感謝か一瞬わからなかったが、はっと気づく。驚愕のルナにアイレは笑って手を振った。


「そして、君はもう邪魔だ。クルール、あの子を排除して」


 クルールと呼ばれたネルファの身体に魂を宿らせ生き返った怪物は無言でルナへと身体を向き直り。



『キャァァァァァァァァァァァァッッッ!』



 咆哮を上げて動きだした。背後に浮かぶ背丈ほどの方陣が輝きを放ち、周囲に六つ小さな方陣が展開される。嫌な予感を感じ取りとにかく走りだしたルナへ、小方陣から水砲撃が放たれた。六つの一斉放射はルナの僅か背後周辺に着弾し辺り一帯を吹き飛ばす。


「きゃぁあああああああーー‼」


 例外なく脆弱ぜいじゃくなルナは数十メルも吹き飛ばされ水浸る細根の上を滑るように転がる。荒い砂や土の上じゃないだけマシだが、擦り傷等より打ち身が酷く痛む。


「ぅっ……まずい」


 既にこちらに照準を合わせているクルール。装備のお陰と気合で立ち上がり無様に走りだすと同時に放射。尋常じゃない放水の砲撃が、今度はルナを囲むように六つ着弾。凄まじい水柱を上げ大地を抉る。荒波に翻弄されたが如く、打ち上げられたルナは受け身も取る暇もなく大地へ背中から落ちた。痛々しい打撲音が響き、身体の一部が破壊された。



「あがっぁっ……ぅぁっ……ぁぁぁぁぁっっっ~~~~ッッッゥ」



 蹴り飛ばされた人形のように抵抗する気力もなく数メル転がっていき、うつ伏せで止まる。

 肩甲骨けんこうこつの骨が砕け、内臓が破裂。貫かれたような衝撃が全身を幾度と襲い大量の血を吐く。身体の中身が逆流と順流を倍速で繰り返し、打ち上げられた波のように血反吐や唾液、吐瀉物としゃぶつを吐き出す。その度に背を走る激痛が灼熱をもたらし発汗はっかんが止まらない。身動きがとりたいのに動かない身体とその度に襲う激痛の嵐。視界が明滅を繰り返し大量の涙が滂沱ぼうだする。生体本能が無理矢理に行う呼吸だが、息を吸って吐く度に胸と背を殴られ続け、短い呼吸を繰り返す姿は地上に放り出された魚のよう。

 知りようもない経験などしたことのない、有り得ない激痛激熱苦痛の数多は容易たやすくルナの心を砕いた。意識がもたらすのは一言。


「弱い君はもう死ぬね」


 アイレの口から出た一言が明確に意識の奥へと刷り込まれた。

 死ぬ、どこか遠く実感の薄かった闇の感覚が想起しては上回る。ギルタブリルの時に感じた死とは大いに違う。


「歌うことしかできない君は無力だよ。こうして一人になれば容易く死んでしまう。彼女じゃなくて、他の獣でもきっと結末は変わらないよ」


「ぁっはぁ、ゲホっゲホゲホ……ッぁぁぁぁ――ッッっ」


「何もできない何も知らない何者にもなれない君が目指せるものなんかない。誰も死んでほしくないだっけ? 弱い君のそれは子どもの戯言と変わらない」


「――ぅっ……っっぁ、そぉ……ぐぅっ」


「わかったよね。弱いから死ぬんだよ。弱いから助けられない。弱いから恨み言ばかり吐くんだ。罪を弱さを正当化しようとして悪者だと糾弾する。正義っていう名分があるだけで何かできている気になるからね。だから君はおごってるんだ。自分から逃げてるんだよ」


「…………そ、れぇ……」


「もう終わりにしよう。君の歌は危険だからね。し。一思いにやってあげる」


 ただ彼の声に乗って言葉が流れていた。鮮明にならない意識だが、どうしてか彼の言葉のすべてが耳を通り記憶に残った。覚束おぼつかない頭でそれでも必死に考えるルナだが、与えられた問に答える前に人生の終わりを迎える。

 容赦も慈悲もない一点に集中した水砲撃が雷の如く駆け抜け――ルナの存在を霧散せんと強襲し。



「ざけんなァアアアアアアアアアア‼」



 怒りの轟雷が水砲撃を蒸発させた。圧倒的出力に対抗した圧倒的出力の雷がピリリとルナを覚醒させる。うつ伏せから僅かに顔を上げた先、ルナとアイレたちの間に立ちはばかったその男は〈天雷の蓄剣テンペルス〉を手に制御を離れた雷力の奔流を漂わせながら。


「テメェー……許さねーッ!」


 そう、アイレへと怒声を飛ばした。


「ぁ、でぃ……」


 その姿を見ようと顔をわずかに上げるルナに、振り返った彼は「よく持ち堪えたな。後は任せろ」と。その声音は優しく慮った音色だった。顔はよく見えなかったが、ただ二つ、助かったことへの安堵と何もできなかった事への屈辱が涙を強くした。


「リヴ、ルナの手当を頼む」

「わかった! ってうわぁああああ⁉ る、るなぁ! やばいやばい! えっと回復薬をはやく!」

「落ち着け」


 姿は見えないけど声だけでこんなにもテンパっているとわかるリヴは新鮮だ。ほんの少しだけ安堵が強くなり口端に安らぎを零す。


「ルナ! これ飲んで!」

「っ……んん」


 痛がるルナを仰向けに起こし、リヴはルナの頭を支えながら口へ回復薬をゆっくりと流し込んでいく。回復薬の効き目はすぐに表れ浅い傷から順に治療されていく。


「回復薬だけじゃ少し厳しいかも。浅い傷は包帯を巻くとして、どこが痛い?」

「背中……とお腹、あとっ胸が」

「背骨と内臓かー。ザクロの種を食べて。背中には軟膏なんこうを塗るから身体起こせる?」

「う、うん……」


 治療を始める二人を後目にアディルはアイレを睨みつける。


「テメェーどういうつもりだ? 裏切りか?」

「僕と君たちの状況がすべての答えだよ」

「っち。夢想花レヴァリアだったか。それを利用したがいために俺らを利用したってわけか」

「君たちが予想より早く来たのは想定内なんだけど、彼女だけでも確実に殺しておきたかったんだけどね」


 悪びれもせずのうのうと宣う。その言葉に嘘はなく、ルナの傷に嘘はなく、嗚呼、奴は殺す意志を持ってアディルたちと対峙たいじしている。それが無償に腹立たしく苛立たしく胸を締め付けた。


「クソが。簡単に死ねると思うなよ。テメェーは徹底的に殺してやるッ」


 リヴですら身震いしてしまうほどの瞋恚しいの殺気。竜の怒りそのもののような凶悪強烈な怜悧な眼差しに、されどアイレは淡々と告げる。


「今の君は獣と変わらないね。クルール、頼む」


『キャァァァァァァァァァァァァッ!』


 甲高い少女の咆哮が翠星地を震え上げ、六つの方陣が大地をも砕く水砲撃を放つ。六つの一斉放射に再び雷力を溜めた〈天雷の蓄剣テンペルス〉とただのセフィラ剣……風剣で迎え撃つ。意地で吹き飛ばしたアディルは微弱な風を纏い走りだす。

 追撃と六つの水砲が穿つが、研鑽けんさんされた身のこなしと洞察力で回避を成功させる。倒すために雷力は温存に専念。迎撃、相殺は最終手段。回避に一辺倒で距離を詰めるが。


「クソがっ! 威力がバカすぎて近づけねー!」


 アディルを狙う撃つ計四つを回避してみせても、残り二つがアイレまでの道のりを穿たれる。凄まじい破壊力と打ちあがる水柱によって道、視界ともに塞がれてしまう。無理に近づけば蓄力チャージの完了した水砲撃がより至近距離で放たれる。そうなればルナの二の前だ。


「っち。死角に回り込んで攻めるしかねーか」


 一か八か、温存している雷力を脚へと回し五つ目の水砲が目の前に着弾した瞬間に迅雷の如く駆け出した。

 水柱は確かにアディルの視界を奪うが、それは相手も同じこと。視界からシャウトした瞬間を狙った死角、背への回り込みからの反撃。見事、怪物の背中に回り込んだアディルは抑えていた息を吐き切り吸い込むと同時に。


「【雷想の真髄開放エレキ・リベラティオ】」


 蓄電してい雷力を雷へと昇華させ〈天雷の蓄剣テンペルス〉が雷火に燃える。雷竜ドゥグロームの鱗を用いてリヴが錬成したペンダント、〈雷竜の禊トニトローム〉の恩恵により力が減少する『聖域』内にて莫大な火力を生み出す。

 水属性に効果覿面こうかてきめんの雷属性による死角からの全力の初撃。がら空きの背へ突き伸ばす。


「死ねぇえええええええええええええッ‼」


 雷撃がほとばしり、瞬間、吹き抜けた風が膨大な盾となってあと数セルチの斬撃を防いだ。


「なっ⁉ ……テメェー」

「悪いけど、彼女は傷つけさせない」


『聖域』にて力が落ちているはずの風魔術が、対策に対策を練って極めた雷の一撃に真向から迎撃する。自分の風と比較にならない風圧に踏ん張るのがやっと。剣に込める力が霧散されていく。次には風魔が雷撃を上回り健闘も虚しく弾き返された。


「くそっ!」

「アディルっ! 横!」


 リヴの叫びに、ばっと視線を広げると、六つの方陣がアディルを狙いすまし。蓄力チャージ完了。光を一際強め放射。水砲はそのままエネルギー砲と違いなく破壊のままにすべてを埋め尽くす。真っ白に変換する水砲は大地を粉砕し、けたたましく水柱を上げた。


「アディルっ!」


 六つすべて砲撃を真正面から受ければ、さすがの水棲の聖衣ウンディーネストの保護効果のあるリヴお手製装備一式でも耐えられる可能性はゼロに近い。。人体が砕け散ってもおかしくはなかった。

 命の終わりを明細にするかのように静謐な雫が大地へと打ち付ける。寂しさが酷く滲み出す水音に立ち上がったリヴの膝が折れかけ。


「そんな奥の手があったんだ」

「え?」


 眼を細めるアイレの視線の先、薄れる水飛沫より姿を見せたアディルは「最終手段だったんだがな」と手に持っていたお腹ほどの大きさの甲羅が砕ける。


無敵の亀竜ニヒルトータスの甲羅。一度だけどんな攻撃も無効化する……そんなのいつの間に」

「素材集めの時だ。まさか序盤で使わされる嵌めになると思ってなかったんだが」


 しくじったと舌を噛むアディル。だが、この一連の攻防で得たものも大きい。


「その怪物の砲撃は視界の範囲なら砲撃が可能。つまり、アイレオマエがそこから動かねーのは、その怪物が力の開花に到ってねーからだ」

「――っ」

「どういうこと?」


 一瞬だが動揺を顔に走らせたアイレにアディルは確信を持つ。


夢想花レヴァリアが見当たらねーってことは、その怪物が蘇生された『何か』だ。どんな方法で蘇生したかは知らねーが、赤子のように鳴き散らす、その場から動かねー、反応の鈍さ、砲撃一辺倒。眠りから覚めた途端で覚醒には到ってねー。だからアイレあいつはあそこから離れて攻撃してこねー」

「そっか! じゃあ、アイレくんを引き離せば」

「ああ。あの怪物の隙を狙える!」


 たった数分の攻防でそこまで読んでみせたアディルにアイレは「参ったな」と苦笑した。


「君を舐めてたよ。すごい洞察力と思考力だね。さすがの僕でも驚くよ」

「なにがさすがだ? まさかテメェーが世界最強とでも思ってやがんのか?」

「まさか。そこまで自惚うぬぼれてないし、僕より強い人も獣もいっぱいいるよ。でも」


 そう、アイレは揺らぎない強い眼差しで言い張った。


「君たちよりは強いよ僕」


 それはあなどりや鼻長からの言葉ではない。心底真剣に微塵も間違いはないと、そんな自信がみなぎっていた。言葉だけでアディルたちを感覚的に納得させる妙な強気があった。

 それでも、アディルは一歩遅れて舌を回す。


「……ほざくな。いや、いい。ならここでオマエの鼻を折ってやる」

「それは楽しみだけど、僕は君に興味はないんだ。彼女が目覚めてくれればどうだっていい。僕がここにいるのは彼女を傷つけさせないためだよ」

「彼女……? それってその怪物のこと?」


 怪物……ああそうだ。アディルたちの眼にはその女は『怪物』に見える。浅葱あさぎ色の鱗が覆い、僅かな肌色を残すお腹から胸元の中心に何度も殴りつけられたような酷い痣、地面に流れる髪は水のようで、背には大きな方陣と六つの小さな方陣。翡翠の瞳は虚空を眺め続けてる。手足にはヒレのようなものがあり、人の形を保ちながら雰囲気は人の領域から完全に逸脱している。その力もまた人ではなくパンテオンに近い。何をどうして蘇生させたのかはわからないが、アディルらがそれを異称すれば正しく『怪物』が正し。

 しかし、怪物と呼んだ事にアイレは憤りを隠さずにリヴを睨みつけた。走り抜けた風がリヴの裾を浅く切る。


「…………ぇ」

「わかってたけど、やっぱり我慢ならないな。さっきからずっとそう呼んでさ。彼女は怪物なんかじゃないのに……」

「…………」

「クルールは……クゥーは人なんだよ」


 身動きとらず呼吸だけするクルールと呼ばれた女を見る眼差しは、それはそれはとても深い悲壮と深愛が込められていた。誰よりも慈しみ、誰よりも愛し、誰よりも悲しいと。それは奇しくもネルファを愛していながら先に旅立つことを与儀なくされたカイン・ビルマーの眼差しとよく似ていた。

 だが、それ以上にアディルとリヴに衝撃を与えたのがその名だった。


って……アディル」

「んなバカな……。いや、ありえねー。だってその獣は――」


 アディルたちに振り向いたアイレは悲しそうに嫌悪と後悔を滲ませ。



「そうだよ。僕たち人間が殺した『災厄の獣』のその一人だ」



 災厄の獣……それはどこかで聞いた言葉だったと、傷が治ってきたルナは記憶を振り返る。災厄とは正しく災害と厄害のこと。

 その最もにルナたちは一度出逢っている。


死神の獣ギルタブリル……」


 そうだ。天場を混沌に落とし災害を引き起こした『十一の獣』の一体。それは正しく災厄であり、そして――


「『十一の獣』の一体。【翠星の獣】クルール。大地を水で呑み込んだ悪魔の人魚」

「え? うそでしょ。なんで……? なんでっ⁉ なんで生き返らせるなんてっ!」


「必要だからだよ」


「え?」


【翠星の獣】クルールと聞いて恐怖するリヴをさげすむようにアイレははっきりと断ち切る。その眼には、昨日リヴに見せてくれた優し気は一切宿ってはいない。冷徹に怒りと軽蔑を込めて。その口が発する言葉はリヴにとって違う誰かの言葉のようだった。


「必要だから蘇らせた。これは僕の自由だ。君たちに彼女を否定する権利はない」


 それもそうだ……などとほざけるか。そう叫びたいのに叫べないのはアイレの情が深いから。正しく愛という一途な思いがこちらまで伝わってくる。だとしても、それは災厄だ。三百年前に天場を崩壊へと導いた混沌の一体だ。誰一人として人類はおのれらを脅かし多くを殺した奴らを許しはしない。そして、アディルも例外ではなかった。

 故に問わなければいけない。


「どうやって蘇生させた? 肉体なんざ残ってるはずねー。魂だって」

「魂はずっと待っていた。後は肉体と蘇生に必要な生贄だけだったよ」

「……魂が待ってる? いや、生贄ってことは」

「行方不明の人たちってこと、だよね……」


 十数日前から始まった冒険者の行方不明事件。ここ『青鈴の蘭草原』に任務で向かった冒険者が帰還せず、依頼によって派遣された冒険者もまた帰還しなかった。それが度々続き総数はわかっているだけでも三十七人。しかし、それだけで蘇生などという奇跡を起こせるとは思えない。


「何人……殺した?」


 アイレは顔を歪めた。


「その聞き方はズルいよ」


 彼は痛そうに目じりを下げて答える。


「……千人」


「せっ⁉」


 想像する桁が違う生贄の数に絶句する。千人の生贄など悪魔の所業以外になんと形容すればいいか。理解できないのだ。千人を殺すことを。それを平然とやってのけることを。恐らく見た目に反して何十年、あるは百年単位で生贄を捧げ続けてきたことを。

 戦慄が走り、アイレという存在がより遠く異質へと書き変わっていく。

 それでも、最後に聞かなければいけなかった。


「…………。オマエは肉体が必要だと言ったな」

「うん。言ったよ」

「……」

「アディル……っ」


 まるで泣きつくように知りたくないと兄を呼ぶリヴに、けれどアディルの矜持と偽善が知らないことを許さなかった。

 故に問う。



「その肉体は誰のだ?」



 アイレは眼を細め、ちらりとクルールを見つめてから視線をまだ立ち上がれないルナへと向け。


「彼女に聞いてみな。誰の肉体が素材に使われたか見ていたからね」

「――っ」


 瞬間、蒼ざめたのはリヴとアディルだった。その眼が恐る恐るルナへと向き、沈黙の中で首を横に振りながらそれでもたずねる空気に。ルナは悔しいさを噛み締めながら、とある少女の名を口にした。



「…………ネルファさんが……っあそこに」


「「――――っっっ⁉」」



 強い衝撃が二人を一瞬の混沌へ誘う。それは凄まじく息苦しい喪失感となって胸を締め付け、それを打ち消すように憎悪に似た怒りが沸き上がる。下唇を噛んで血の味を覚え、爪が喰い込む手の痛みを覚え、ルナの境遇に使命感を覚え。そうして覚えた、書き換えたその情動を持って二人はアイレと、そしてネルファの肉体を乗っ取ったクルールへ絶叫に似た殺意を突きつけた。


「許さないッ! 絶対に! あんたは許さないからッ!」


 リヴが吠える。彼女の、一度奪われたネルファを再び奪った、それも何も知らない純粋無垢なルナを穢した、友を傷つけた。それを許さないと。


「テメェーは必ず殺す。何がなんでも殺してッ、殺される痛みを知れェエエ!」


 アディルは叫んだ。人の命を軽んじ私欲で多くの人間の人生を奪い仲間を傷つけたことを許さないと。


 そして、彼は告げた。


「僕にとって千の誰とも知らない命より、一人の愛する人が大切だ。だから、僕は絶対に死ねない」


 そうして、極限の殺し合いへと場面は映る。

 互いの利己を燃やし、互いの我欲を貫き通す。

 ただ、人を思うそれだけの欲望が入れ違い、血を迸る。

 ひとり、ルナだけはそんな彼らを見つめては、何もできずに……違う。

 ルナだけは誰とも違う答えを探して、蘇生された彼女を見つめていた。

 その翡翠の眼とルナの眼が重なり合い。


 そして――終局へと彼らは駆け出した。

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