第51話 君だから side『風』

 

 昏い。闇に堕ちたみたいにくらい。それが死なのか、此岸と彼岸の狭間なのか。あるいは冥界や奈落、地獄なのか。

 ただ一つ、譲れないことが今も灯っていた。僕は這うように進む。自分の存在が闇に溶けていく夢のような気分で、遠くに見える微かな光に向けて這っていく。

 何十年、何百年と進み続けたような気がして。ようやく辿りついた光は闇を破いたその先へと続き、僕はそっと光の先へと抜けた。


「うっ…………僕は……」


 朧気おぼろげな記憶を辿り有象無象の感覚を無視して、ゆっくりと立ちあがる。

 僕は歩いた。ゆっくりとふらふらと着実に。

 僕は歩いた。急きながらつまづきながらそれでも確実に。

 僕は歩いた。君の名前を呼んで、君に伝えたくて、君を抱きしめたくて。

 僕は歩いた。血濡れの君のもとまで。


「…………」


 少女の姿に戻った君はぼろぼろで今にでも消えてしまいそうだった。止まらない赤い血が君を一人の女の子にたらしめ、僕は膝をつく。小さな顔の儚い寝顔にそっと手を伸ばし、痛々しい傷に歯を噛む。沸き上がるものたちを代行して、頬を汚す血赤を拭った。


「ぅ…………」


 ゆっくりと眼を開く曖昧な君の眼に映る僕は。


「あぃれ……ないてる、の?」

「な、泣いて……ないよっ」

「……あはは。うそ」

「うそ、じゃないよ……」


 君は力なく笑った。無理矢理動かそうとする君の手を僕がぎゅっと握る。震えが収まっていく。


「しっぱい……しちゃった、ね」

「――どうして? あんな、無茶なこと……」

「ん。……んーとね……たすけたいなーっておもったの」

「…………」

「クゥーはね……アイレのこと……だいすき、だから」


 へへへ、と微笑する君に僕はどんな顔をしているのだろうか。伸ばす君の小さな手を取って僕の頬に当てる。君は少し口元を曲げた。


「だい、じょうぶ。アイレは、つよいもん」

「ああ。僕は、強いんだ! クゥーを守るくらい、っ強いんだよ!」

「うん……うん。クゥーはしってる、よ。アイレが、がんばって、くれたこと。クゥーとのやくそく、まもろうと、してくれて……うれしかった」

「僕がっ! 僕がバカだったから! なんでなんだよ……なんで、クゥーがこんな目にあないといけないんだよ……っ」

「…………」


 君は何も言ってくれなかった。触れる手の温もりが心無く君を求めてしまう。だけど、君は何も言わない。僕を見つめてそっと微笑むだけだ。

 嗚呼、言わないと。たくさんの言いたいことを言わないと――


「っち。あれだけの攻撃をもろにうけてまだ生きてんのかよ」


 ああ、けれど、彼らは僕らの未来を待っていてはくれなかった。

 振り返ると炎を放った男が今の状況に嫌な顔をしながら僕の足元にナイフを転がす。


「オマエの事情は知らねー。けど、チャンスをやる」

「チャンス?」

「オマエの手でその怪物を殺せ」

「――――」


 その残酷なこと。頭が真っ白になり次にはドス黒い怒りの炎が燃え上がり。


「っ! ふざけ――」

「そうすればオマエだけは生かしてやる」

「…………」


 その言葉に君の手が力を込めたのを感じてしまい、怒りが行き場を失う。


「これが最後だ」


 それは彼なりの慈悲であった。ある意味で僕らが救われる妥協の末でもあった。

 ナイフを見下ろし、想像する。このナイフで君の心臓を突き刺すのを。


「うっ」


 想像しただけでも耐えきれずえずく。無理だできっこない。拒絶する僕に。


「おねがい、アイレ。……クゥーをころして」


 君はそんなことを言うのだ。


「なんで……? なんで、そんなこと」

「クゥーはもう、だれもころしたく、ない。それに、アイレにはいきてほしいの」

「そ、そんなの……き、君がっ! クゥーがいないじゃんかっ!」

「うん……あはは。それでも、クゥーはね。アイレにいきてほしい、なー」


 嫌だった。君が僕に殺してって言うことが。君が自分の命を僕との約束を手放そうとすることが嫌だった。でも、君の痛いほどの慈愛が伝わってきて、君の痛いほどの罪の悲しみが伝わってきて。怯える手で持つナイフはぶるぶると震える。


「さあ殺せッ! おまえのせいで被害が大きくなったんだ! 俺らに殺されるのが嫌なら自分で殺せよ!」

「隊長の寛大さを無碍むげにするわけ? あなたの命と怪物の命どっちが大切かなんて決まってるでしょ!」

「はやく殺してよッ! こっちだって、あなたを殺したくなんてないのっ!」

「その、怪物は殺さないと……誰も救われないよッ!」


 悲痛で痛哭な声が背を押す。殺せ殺せと。じゃないと、誰も救われないと。


「お、ねがい……アイレ。アイレは死んじゃイヤ」

「…………」

「だからね、いいの。……クゥーをね、ころしていいの。クゥーがゆるすから」


 慈愛の儚げな声が心に訴える。お願い殺して、あなたは生きてと。


「殺せ殺せッ!」

「死なないで」

「はやく殺せよッ! じゃないと俺らが殺すぞ!」

「生きて……生きて」

「殺してよーっ! あたしたちを開放させてよっ!」

「クゥーのおねがい、きいて。おねがい……」

「みんなの無念を叶えてくれよ! 天国に旅立たせてくれよっ! だから――」

「クゥーは、もうだれもころしたくないの。だから――」

「殺せ――」

「殺して――」

「「終わらせて」」


「――――――」


 僕は震える両手でナイフを持ち上げ。そして――



「ぁあっあぁああああああああああああああああああああああああああああああああ‼」



 君の胸にナイフを突き立てた。

 顔に飛び散る墳血が。眼を伏せた痛苦が。口から零れる命が。

 君を、君だけを冷たい灰に変えていく。

 命を奪った一突きが君を徐々に灰へと殺していく。零れ続ける命を取り戻すことはできず、一瞬で襲い掛かった後悔を呪って過去に戻れと唱えても君の息は荒くなるだけ。

 死なないでくれ、ごめん、逝かないでくれ、まだ生きてくれ。

 そんな言葉を吐く代わりに涙が止まらなく嗚咽が過呼吸を起こす。

 罪だ。これは罪だ。僕の最も酷い罪だ。

 零れる命に命と注ぎこもうと自分の首に爪を立てる。僕の命で、僕の血で君を――


「だ、め……」

「……」


 小さな手が裾を引っ張る。焦点の合わない世界に儚くも笑みを浮かべる君がいた。

 君は小さく頭を横に振って。


「いき、て……ね」

「クゥー……ぼっぼくはっ! こ、こんなつもり……じゃっ」


 コクリと頷く君は「さむいね」と呟いたから僕は君を抱きしめた。

 獣の姿が嘘みたいに華奢きゃしゃで小さな身体。冷たくて消えそうで失われていく身体。命が灰となって足先から零れ落ちていく。

 停まらない命の終わり。失われていく君との未来。分け合う温もりを「あたたかい」と力なく呟いた君に温もりは灯らない。どれだけ強く抱きしめても抱きしめても抱きしめても残ってはくれない。


「あいぃ、れぇ……」


 耳元で掠れた声が僕を呼ぶ。


「なに……」

「ありがと……だいすき」

「――うん。大好きだよ。大好きなんだ……僕の方が――」


 その言葉が届いたのかはわからない。最後まで伝えられないまま君は灰となって僕の腕の中から零れていった。

 もう、そこには何も残っておらず、吹き抜ける風が灰を攫っていく。

 ただ、残っている僅かな温もりを抱きしめて、僕は叫んだ。



「ぁっああっあぁあああああああああああああああああああああああああああ――――」



 ああそうだ、僕は間違えたんだ。その死になんの意味があったか。君のいない三百年にどれだけの価値があったか。生きろと言ってくれた君を恨んでしまうほどに。

 嗚呼、こんな日々に意味などなかった。きっと僕は今もずっと間違えている。伝えられなかった数多の言葉をのみのように溜め込み、それを宝石と間違えながら君の願いにしがみついている。

 なにを持って幸せになれるか。何を願って生きたいと思えるか。何を得て前に進むことができるか。

 君がいない世界なんて生きていても仕方がない。

 僕はしなければいけない。この間違いを正さなければいけない。この膿を宝石にしなければいけない。君の願いではなく、僕らの約束を果たさないといけない。



 だから――――



「まだ終われないんだ」



 そう、アイレは光輝く夢想花レヴァリアへと手を伸ばす。


「君のいない世界に意味はない。君を苦しめる世界なんていらない。僕らが手にしたかったのはささやかな幸せだけだ」


 光の中を何かが浮かびあがる。それはネルファであり、その身姿は異形へと変形していく。裸体の大半を浅葱色の鱗が多い、腕や脚にはヒレが生え、背中には大きな方陣が浮かび上がる。灰色だったネルファの髪色は透明な水色へと流れ変わった。

 その女性を見上げながらアイレは告げたのだ。


「だから――約束を果たす」


 パリンっ、ガラスが砕ける音が響き渡り幻想の檻が開放される。眩い光が収まっていくのと同時にその女性はゆっくりと瞼を開けた。

 翠の瞳とルナの瞳が交わり合い、ゆっくりとアイレへと向け。


「クゥー……逢いたかったよ」


 微笑む彼に首を傾げた彼女は再びルナへと視線を戻し。

 そして――


『キャァァァァァァァァァァァァァァァッッッ――‼』


 【翠星の獣】は産声を上げた。


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