第50話 劫火の狭間で翠星は灯りを side『風』

 

 立ちふさがる業火。深紅の殺意が森を燃え上げ、瞋恚の咆哮が幾度と轟震する。視界を埋める赤が、炎か血か。混沌を極めただ赤い現実に焦燥を駆り立てる。

 その木を塗らず赤は誰のものか。その焼け焦げた肉は誰のものか。その千切れた耳は誰のものか。それを執行したものは誰なのか。


「っく! はやく! はやくッ!」


 全力の風魔で森を駆け抜ける。倒木を吹き飛ばし、炎を払いのけ、瓦礫を越え、戦いの余波に肌が墳血するが構うものか。攻防戦、激し戦闘音が木霊する。戦慄が喉を締め上げ、焦燥が心臓を叩き、罪悪感が全身に痺れをもたらす。構うものか。すべての痛みも苦しみも自嘲も今だけは走る糧にしろ。呼吸している暇を忘れ、急く心臓に合わせて駆けろ。痺れているなら身体は迷わず前だけに進め。


「――っ! クゥー! 今、行くから! クゥーっ!」


 僕は走った。走った。走った。走った。君との約束を守るために、もう逃げないために、そう在りたいがために。

 君の名を呼んで炎を退け狂騒の中核へ身を滅ぼす約定だと知りながらも、君の名がそこで君をそう体現するのだから。


『キャァァァァァァァァァァァァ‼』

「クゥーっ⁉」


 燃ゆる森をすくませる獣の激昂。けれど、僕には聴こえるのだ。そう、聴こえたんだ。


「痛いって、やめてって……クゥーが泣いてる」


 泣いている。あの咆哮は怒ってるんじゃない。泣いてるんだ。やめてって、来ないでって、殺さないでって、クゥーは泣いてるんだ。


「――っ僕はバカだ! わかってたはずだ! クゥーが他の獣と同じじゃないことくらい。だから、僕が助けるって決めたんだろ!」


 急げ急げ。僕が焦燥する度に君の悲しみは膨れ上がる。僕の怒りが増すごとに君の痛みが薙ぎ払う。

 草木を炎を煙を人間の死体を抜けて――僕は――――


「死ねェエエエエエエエエエエエッッ‼ 獣ォオオオオオオオオオオオオッッッ‼」


 膨大な憎悪が君へと放たれた。数十人による特大の砲撃が爆発する。無音に返し一帯を薙ぎ払う凄まじい一撃が黒煙に一瞬だけ穴を開け、更なる硝煙で埋め尽くす。火の粉が舞い踊る血濡れの戦場がそこにはあった。肩で息をする数十人の人間たち。無数の死体が転がる戦地の向かい側。黒煙をおどろおどろしく上げる陽炎が揺れ動く。


『キャァァァァァァァァァァァァァァーーーー‼』


 甲高い、けれど少女の鳴声とは程遠い正しく獣の悲鳴が耳を劈き黒煙を払う。


「……クゥー」


 炎から姿をみせた獣に息を呑む。

 三メルを越える巨体。上半身は鱗に覆われた女の姿であるが、その下半身は魚であった。浅葱あさぎ色の鱗が覆う魚の半身だ。背や腕、局部辺りにヒレが生えており、翠の綺麗な瞳は真っ赤に染まり背の後ろには不思議な方陣が複数浮かんでいた。水色の綺麗な髪は水そのもののように変形してる。その姿、その声は僕の知るクゥーではなかった。正しくこの世界に跋扈ばっこし、三年前に僕らの大地を凄惨に破壊した獣の一匹。

 真横から潜み狙った弓が獣の皮膚に突き刺さる。


「へへへ。どうだ! オマエなんて針のむしろにしてやる!」


 ゆっくりと顔を向ける翠星の獣は弓を放った人間を狙い定め、水髪が伸びた。


「え?」


 水髪が人を呑み込み、ぶはっと空気を吐き出させる。藻掻くも自在に変形する水の檻は決して人間を逃すことはなく、その者は身動きをとらなくなった。


「……」


 翠に光輝く身姿に呆けて見てると、獣は人間を吐き捨てる。その身は枯れ果てた花のようにしおれ、生命力がすべて吸われてる状態であった。


「うそ、だよね?」


 今の光景に疑ってしまう。いや、疑いたくて仕方がない。クゥーが意図的に人間を殺し、その命を養分にした事実を。

 あの獣がクゥーじゃないと言いたかった。そう思いたかった。そうすれば僕は人間を守れたのに。けれど、僕はわかってしまっている。


「くっ! 攻撃の手を休めるな! 家族の友の仲間の無念を果たせ!」

「うぉおおおおおおおおおおおおおおお‼」


 再び始まる獣への攻撃。容赦のない憎悪の猛りが激情の限りに殺意を降す。浴びせられる攻撃のすべてに殺意があった。その砲撃が獣の身にぶつかる度に「死ね」と言われているように、君は何十何百の「死ね」を浴びて泣き叫ぶように咆哮を上げ人間どもを薙ぎ払う。


 でも、その声が嗚呼、やっぱり君だった。


 姿が変わっても、獣の本能に呑まれても、泣いている君がクゥーだってわからないわけがない。

 君が泣いている。ならば、僕がすべきことは一つだけだった。

 今一度覚悟を決める。どんなことがあっても君と一緒に生きる覚悟を。


「僕は逃げない!」


 僕は飛び出した。集束させた風弾をクゥーと人間たちの中間地点に叩きつける。すべての攻撃と一帯の煙と火の粉を霧散させる風撃が押し寄せ、今ここに空白を築く。


「なんだ⁉」


 そして、抜けていく風に取り残された僕と彼らの視線を混じり合った。人類の敵を背にかばうように、僕は同族の彼らに槍先を向けた。その構図、その刃先、その眼差し。彼らの顔は怪訝けげんなものから理解できない異端を睨む瞋恚しいとなって僕を睨みつけてきた。


「おまえっ、怪物の味方をするのかァ⁉」

「……」

「答えろッ! オマエは敵か味方か! どっちだッ!」

「……」


 言葉を探す。探すだけ時間の無駄で沈黙が彼らにとって肯定になるように、僕は敵対の意志として彼らの刃先を向け続けた。


「ふざけるなァアアア! オマエも怪物かァ!」

「怪物と言うなら僕は彼女と同じ怪物になるよ。そう決めたんだ」

「ほざけ! その怪物は俺らの家族を皆殺しにした悪魔だァ!」

「そうよ! あたしの妹を目の前で水攻めにして残虐に殺したのよ! そこの男のように!」

「怪物は僕らの平和を奪ったっ! たくさんの命を奪ったっ!」

「なんでっ⁉ どうしてあなたはこっちに刃物を向けるの! 意味わからないッ!」

「どいてっ! その怪物は殺さないといけない! じゃないと報われない!」


 誰も彼もが胸を悲痛に歪め憤怒と憎悪を握りしめ、得物を向ける。今までの人生一度として見た事のない、失った者のいる眼。失って気づいて復讐を燃やした者の眼。悪を裁く我欲の眼。されど、尊く強く捻じ曲がらない覚悟の眼だ。


「……」


 その眼が正しさを語る。その眼が真実を語る。その眼が愛を語る。

 それはきっと正し眼だ。それで僕は間違いなのだろう。クゥーだった獣が人を殺した所なんて見ていない、あれは正当防衛だ、なんて詭弁きべんは通じない。運よく話しができると知ってもらえても、それは受け入れられるかは別の問題。人のようだから……だから人を殺してもいいのかと問われて頷けるほど僕は悪者になれない。

 だから、僕の行いのすべては過ちで間違いで裏切りだ。そうだとしても、それでも――


「僕はクゥーを守る」


 嗚呼、幕は上った。舵は切られた。火蓋は放たれた。

 もう戻れない戦火の中で、僕は孤独に立ち向かう。

 その眼は獣を見る眼差しと同じで、決裂の蔑視べっしを浴びる。

 胸の痛みを誤魔化すために舌を噛む。後は下手くそな笑みでも浮かべようか。


「はっ……怪物に名前つけってんのか? ペットのつもりか知らねーけど……邪魔するなら人間おまえでも殺すぞ!」

「その覚悟の上だ! 僕の決意は変わらない!」

「――――ッチ。なら望み通りにしてやるよォオオ! オマエらァアアアアアア殺せェエエエエエエエエエエエエエエッッッ!」

「「「うぁああああああああああああああああああ――っ!」」」


 やけくそだと言わんばかりの咆哮が砲撃となって殺意を宣告した。


「っ! あぁああああああああああああああああっっっっ!」


 風を展開し凝縮させた風砲で迎え撃つ。せめぎ合う渾身の一撃。互いの意地と意志のぶつかり合い。凄まじい砲撃の攻防は一進一退とはいかず、同等の覚悟の力が複数集う彼らの殺意が着々と僕を後退あとずさらせる。


「ぐっ⁉ ま、まだまだっ」


 限界まで力を振り絞る。血管が皮膚が骨が断たれようとすべては意地となった意志で耐え忍ぶ。それでも、圧倒的な出力の前に僕一人のちっぽけな力では弱すぎた。

 それでも負けるとわかっても意地だけはあった。直撃する寸前に風砲を暴走させ爆破を起こす。巻き込んだ彼らの砲撃がもつれて連鎖的に爆発を起こし視界を空白に染めた。つんざく爆音が耳鳴りを起こし明滅する視界は煙に覆われ、無数の針に刺されたような痺れか痛みかよくわからない感覚が身体を蝕む。唯一わかる熱さが生きていることを実感させた。

 灰となった槍が煙と一緒に晴れていく。彼らの驚愕が僕を指差す。困惑か混乱か。一泡吹かせられたかなと、少しだけ笑みが零れる。

 嗚呼、僕はやっと証明できた。背後で蠢く少女だった君に、君と一緒に生きることを。もう迷わないことを。君がいいことを。


『ぁ……い、ィ……れぇェ……?』


「うん。僕はアイレだ。クゥー、ごめん。君を独りにして。でも、もうそんなことさせないから。きっと君を守ってみせるから」


『だ……メっ……っよぉ……にィ、ゲっ…ぇ』


「逃げない。僕は決めたんだ」


 そうだ、決めたんだ。ならば貫き通すだけ。


「僕はっ、君と一緒に生きるんだぁああああ!」


「こっころせぇぇぇぇ! 怪物もあの人間もころせぇぇぇぇえええええ!」


 僕は駆け出す。得物を構え放たれる砲撃を俊足を生かして回避し、砲撃の横雨に突貫する。予備のナイフ二本を両手に捌きながら距離を詰める。

 しかし、僕単体への集中砲火が彼我の距離を埋めさせてくれない。火砲を切り裂き足下からの隆起を跳躍して回避。空を昇る風刃を相殺。水弾を風に乗って躱す。襲う火焔の唸りを風で障壁を張って耐え忍び。皮膚をじりじりと焼いていく火焔を風撃で霧散し、そこを狙った石礫をナイフで捌くが肩や脚を裂いていく。

 真上に出現した水の輪っかをいち早く察し、地上に降りて転がるようにその場を離脱。輪っかから瀑布の如く放たれた水砲が大地を破壊。無数に穿たれる矢をすぐに身体を捻って躱し、回り込まんと駆けだす。が、炎の壁が道を遮り引き返そうにも激風が押し寄せる。このままでは炎の壁に押し込まれてしまう。


「くっ」


 仕方なく跳躍して回避。そしてすぐに誘い込まれたと気づく。


「くたばれェ!」


 岩石で固めた巨大な拳が振り下ろされた。この三年間の経験あってこその間一髪、全力の風魔で対抗するが、圧倒的物力に僕は吹き飛ばされた。地面に深く叩きつけられ内臓が飛び出さんと血反吐を吐く。そのまま何度も地面にバウンドして転がった。胸を圧迫する脅迫染みた感覚に呼吸の苦しさを味わいながら顔を上げると。


「一斉攻撃! やれぇえええええええええええええ!」


 その光景は強大な星屑が流れてくるようだった。様々な色があったとしても、ただ無数の白い光の往来に見え。その無慈悲な光景にされど空疎ながらの綺麗を感じてしまった。


 だってそれが、彼らの想いから産まれた光だから。


 純白の光に巻き込まれ自分の姿形の一切を見失う。僕の身体がどうなっているのか、今どこにいるのか。ただ白い中を舞い続け、唐突に地面が間近に迫り大きく心臓が跳ねた。あるがまま成す術なく僕が転がり続け、止まったと思う頃には身体はビクとも動かない。この焼かれている冷たさが痛みなのかなんなのかわからない。それでも、嗚呼と死を容易く連想させた。


 僕は死ぬのか? そう、ふと思ってしまうと急激な死の予感が強くその首に伝う。死神に鎌をあてがわれているみたいで、スーっと血の気が引いた。現実か夢かわからない最中で己の呼吸の違和感に気づく。灼けるほど辛かった身体が急撃に冷めていった。何かが失われていくみたいで、まどろむ視界は何も見えず、手を伸ばしているのにその感覚すらふわふわと朧気ない。

 零れていく。忘れていく。失っていく。何かを何かを何かが――


 ――あいれっ……。


「いっ……しょ、にぃ……」


 声が聴こえた気がした。だから答えようと声を出した。自分の声がまだ聴こえる。嗚呼、僕はまだ生きている。動かないけど微睡まどろみが激しけど零れ続けているけど、生きているなら僕は立ち上がれる。


「いき、るって……やく……そ、く……」


 今やっと信じることができた。この想いは嘘なんかじゃないって。あの日々は紛い物なんかじゃないって。この選択は間違いなんかじゃないって。

 だから――


「した、からさ……ちゃんと、まも……らない、とだよ」


『あ、いれ……』


「だから、さ……もうちょっと、まって、て。ちゃんと、つた……える、からっ」


 炎の別れ際で言えなかった沢山の言葉がある。あの時、あの日々の中で言えなかったことを言って、ちゃんと約束をするんだ。ちゃんと伝えるんだ。僕のこのバカな気持ちを。


「なんでだよ……なんで、そんな死にそうで、まだ立ち上がれるんだよッ!」


 その怒号はとても遠くとても小さく少し笑えて。


「助けたい、から……一緒、だよ。君……たちと、ね」

「――――。ふざけるな。ふざけるなぁあああああああああああああああ‼」


 裂帛する怒りの矛が灼熱を発し。


「俺たちを侮辱するなぁあああああ‼ そんなの、救われないじゃないかっ‼」

「…………」

「もういい。いなくなれよッ‼」


 視界を埋め尽くす灼熱が跡形もなく僕を滅殺せんと襲来し――死を覚悟したその時だった。



「――――ッ」



 何かが僕と炎の間に入り込んだのは。その大きな体は誰の身体で、その魚の下半身は、背の方陣は、浅葱色の鱗は、水色の長い髪の毛は、その子は――


「――ぅううううううっ‼」

「――っ⁉ く、クゥーっ⁉」


 灼熱が君を焼き殺していく。それなのに、僕の声に振り返った君は。


「アイレ……ありがと。大好き」


 笑みが咲いていた。


「クゥぅううううううううううううううううーーーー」


 伸ばした手はあまりにも遅く。君はありがと、と笑みを浮かべて炎に消えていく。僕らを呑み込むやるせなくどうしようもない切願。熱いのに冷たい灼熱が君を呑み込んだ。

 瞬間、その事実を打ち消すように炎は爆ぜすべては射光に覆い潰された。



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