第45話 行方彷徨うケモノ道 side『風』

 

 何かが絶え間なく攻めて来る。人の居場所を心をズカズカと踏み入り、その手はにじるように『翠星の秘境』に幾度の振動を及ぼした。外の景色を映し出す水鏡に走る波紋が収まらず、大きく波を立てる。判明しない映像の奥、この秘境の入り口付近より迫る何かが聞くに堪えない悪語を吐き攻撃する。木々が水々が、獣たちが震え逃げ出す。

 安寧の楽園から追放されるが如く。


「いやー! こないで!」

「クゥー!」


 耳を両手で押さえ拒絶を叫ぶ。彼女の心に共鳴するように水柱が立ち、忽ち竜の尾のように秘境の入り口めがけて伸びていき、凄まじい破壊音が轟震した。途端、更に攻撃が苛烈を増し、クゥーの拒絶も虚しく一歩一歩と侵入を許してしまう。


 声が聴こえるのだ。


 ――殺せ殺せ。

 ――我らの敵は皆殺し。

 ――獣は一匹残らず滅殺しろ。

 ――我らを脅かす悪魔は殺せ。


 そのすべてがクゥーひとりに向けられている。あの悪語、憎悪、嫌悪の殺意がただ一人の少女に向けられている。姿は見えないのに数多の意志を集わせたかのように、殺意の声が響いて蝕む。存在を否定してくる『ケモノ』のような者ども。

 へたり込むクゥーが恐怖に開いた眼を彷徨わせ、その口は酷い過呼吸を起こす。


「いや……こっこないっで! はあアっ……、クゥーは知らない! クゥーじゃない!」

「クゥー! 落ち着いて! 大丈夫だから! 僕がなんとかするから」

「くぅっクゥーじゃない! っはぁはあっ、クゥーはただ……みんなとっハァ、一緒にいたかっただけなのに……」

「クゥー……」


 クゥーが、鱗の少女が何を抱えているのか僕にはわからない。本当の君が何者なのかも。君がどうして僕を選んだのかも。

 でも、君が泣いている姿はすごく痛々しくて見ていられなくて、そんな涙は拭ってやらないと僕のいる意味がない。

 この選択が過ちだとしても、僕は既に君を選んでいる。

 へたり込み怯え涙するクゥーの視線に僕の目と合わせる。


「クゥー逃げよう。僕が君を守るから一緒に逃げよう」


 顔を上げたクゥーはくしゃり顔を潰し。


「だめ! だって……アイレはクゥーと違う! アイレが危険!」

「それでも! 僕は君を選ぶ。君の正体が、僕が戦わないといけない相手だとしても、僕は僕を見つけてくれた君を選ぶ」

「――――」

「君となら僕はどんな苦難も乗り越えてみせるよ。今までみたいに一緒に」

「……アイレ」


 もう、迷う心はない。僕が僕として今も生きている理由はクゥーだ。クゥーが生きる術をくれて、生きる理由をくれて、生き方を手伝ってくれて。君を選ぶ理由なんてそれだけで充分過ぎる。

 だから、どうかと君に願う。伸ばす僕の手を取ってくれと。情けなく。


「それに、一人はもう嫌だから」


 そんな感傷を並べて下手くそな笑みでも浮かべる。けど嘘じゃないからきっと伝わるはずだ。僕と君が抱えた同じ寂しさだから。

 クゥーはうんと頷き、そっと手を伸ばす、あのねと顔を上げ、ぎゅっと手を握り、アイレと僕を呼んだ。なにと訊ねて、ゆっくりと立ちあがり、ぽんと僕の胸の中にクゥーは顔をうずめる。そして、一言。


「クゥーはアイレと離れ離れは嫌だ」


 続けて君は僕の心臓に直接言葉を贈る。


「アイレがいると安心する。アイレといると楽しいの。アイレがいないのは嫌」

「アイレがいい。アイレが好き。アイレが大好き」

「アイレ。アイレ。アイレ。……クゥーを助けて」

「ずっと! クゥーと一緒にいて。――アイレはずっと生きて」


 顔を上げた君の涙顔にそっと。


「約束。僕はクゥーと一緒にいるよ」


 君も――約束なの、とはにかんだ。


 そして僕らは手を繋いで駆け出す。もう一度、君と笑って暮らせる場所に。

 僕らの居場所は蹂躙された。『翠星の秘境』はほむらに焼かれ、燎原りょうげんの意を告示する。刻まれた死が背を追いかけてくる。この手を引き千切るが如く、正体の見えない『何か』は僕らの背を指差す。


 ――獣は一匹残らず殺戮しろ。


 それでも……この逃亡が無意味と嗤われたとしても。

 僕はその手の温もりを永遠に死ぬまで感じていたい。

 だから僕は君の手を離さなかった。




 慣れた冒険だけど、クゥーがいるだけでまったく違うように感じとれた。もちろん三年間の冒険時にも声だけとは言え、クゥーと一緒に冒険はしていた。けど。


「アイレ! はやくはやく!」

「待ってクゥー。危ないから」

「平気だよ。だってクゥー」


 瞬間、森林から顔を覗かせその大きな顎がクゥーに迫った。二足歩行の竜に似た獣がクゥーを喰わんと肉迫し。地中から吹き上げた水柱が竜の頭部を根こそぎ吹き飛ばした。ばたりと横向けに倒れる胴体とどこかへ飛んでいった頭が落ちる音が響き渡り、それをやってのけたクゥーは「ね!」と笑みを浮かべ。


「クゥーは強いもん」


 そう自信満々に胸を張る姿は可愛らしいくも結果の仰々しさにアイレは苦笑してしまう。


「ほんと、心配無用なくらいに強いね」

「だってクゥーは……」

「ん?」


 言葉を止めたクゥーに首を傾げる。その顔は言葉を選んでいるというよりも……。

 クゥーは気を取り直して。


「クゥーはアイレのお師匠だから!」

「確かに。僕がこの力を使えてるのはクゥーのお陰だ」

「ふふん!」


 再び歩き出す君を僕は追いかける。疑問も恐怖も僕には必要がない。僕の人生において、君だけが僕を一人の人間として扱ってくれた。出来損ないで弱くて頭も悪い僕を生かしてくれた。その恩を仇で返せるほど僕の理性は獣ではない。僕は人で、君も人だ。


「……………アイレは何も聞かないんだね」

「それは……」


 振り返らない君の表情は見えない。憂いているのか哀れんでいるのか。ただ、感謝している風ではなく言葉に詰まる。


「わかってるんだよね。クゥーが」

「やめてくれ!」

「……」


 立ち止まった君がやっと振り返る。なのに、今度は僕が視線を落としてしまって、やっぱり君の表情は見えない。お願いだから。情けないとわかっていても、無様だとしても。それでもお願いだから。


「それ以上は……言わないでくれ」


 嗚呼、情けない。つまらない。無様で醜くて浅はかで仕方がない。こんな自分が嫌いで、それ以上に君の口から真実を聞くのがもっと嫌で。口先が笑う。自虐じぎゃくが胸を突く。憐憫れんびんが湧き抹消していく自己肯定感が支離滅裂な我欲に変貌していく。気持ち悪いのに、そのどこかに心地よさがあって、僕はそれにすがる。

 君は言った。空を仰いで、穴を抜けたずっと天へ昇る月が満ちる天地を見上げ。


「クゥーね。思い出したの。クゥーがやらないといけないこと。クゥーが何者で、クゥーがどうして『人間けもの』に追われているのか、やっと思い出したの」

「――――うそだ」


 顔を上げる。ああ、悲し気な眼差しが僕を見つめる。寥々りょうりょうと僕らを隔て別つ。遠くから人間の声が届いてきた。森が火に焼かれ静寂の夜は火罪を迫る業火の烽火ろうかとなって吠える。それは人間の殺意の具現だった。あの殺意がクゥーを殺そうと迫る。異端の罪傀として樹冠火じゅかんかが幻聴をもたらす。


 ――おまえが我らを殺した。

 ――町を人を人生を破壊した。

 ――貴様は人間の敵だ。

 ――我々人間にとっての絶対悪だ。

 ――愛しい人を奪った罪は決して許さない。

 ――死ね。死ね。死ね。死して罪火に焼かれろ。聖火に朽ちろ。地獄に堕ちろ。


「違うっ‼」


 その叫びに意味があったのかなんて知らない。でもでもでも!


「違うっ! クゥーはそんな怪物なんかじゃない! クゥーがそんなことをするはずがない! だって! ……クゥーはっ!」


 気づく。気づいてしまう。この言葉のどこにも真実など欠片もないことに。慈愛を抱いて、自負を犯して、狂気に欺瞞して、それでも愛を囁いて、言葉を尽くす。その言葉が出てこない。

 君の眼に僕の偽善しか映らない。偽善の僕が歪んだ慈悲を叫んでいるだけだと、その抗いは君を悲しめているだけだと。僕はようやく悟らなければいけなかった。理解して受け入れてこの分水嶺を決めなければならなかった。


「クゥー……僕は君が」

「クゥーはアイレの怪物だよ」


 その笑みは優しく突き放す。そこにいるのは僕の知ってるクゥーじゃなかった。僕と一緒にいたいと言ってくれたクゥーじゃなかった。


 君は――


「クゥーはね。わるいわるい怪物なの」


 だからと。君は卑怯に慈愛を捧げて。


「やっぱり、アイレと一緒にはいられないみたいなの」


 業火が迫る。僕らの道をここで隔てるように。

 道は二つ。来た道を戻るか、君と炎の中に飛び込むか。

 烙印は準備されていた。罪が問うてくる。正義が問うてくる。悪が問うてくる。君が問うてくる。


「クゥーは、アイレを殺しちゃうのは嫌だなー」

「――――――」

「だって、アイレが好きなのは変わらないもん」


 えへへ、と見た目相応な笑みが伸ばそうとした手を留める。君はうんと頷いて、それでいいのと僕から一歩下がる。その間を焼けた樹木が倒れ完全に住む世界が別たれた。

 君はそっちで僕はこっち。僕らの境界線は罪の線だと世界は君を怪物と定義する。それがたまらなく悔しくて咄嗟に掴めなかった自分に怒りが湧いてきて、今なお動けない僕が嫌で。

 動け、彼女の手を取れ、否定の言葉を並べろと訴えるのに、僕は動けなかった。

 君の笑みが、今も見つめては浮かべている笑みから視線を逸らせない。

 どうして? どうしてなの? どうして、そんなこと言うんだよ?

 きっと全部のどうしてが君に届いていたと思う。君は悲し気で困り顔で儚げで、それでも笑みを浮かべて背を向けたから。


「バイバイ、アイレ。アイレがいてくれてクゥーは嬉しかったよ!」

「クゥーっ⁉」


 炎の向こうへ走っていく。その背が罪火に包まれて消えていく。


 ――いたぞ! あの獣を殺せぇええええええ!

 ――俺たちの仲間を返せ! この殺人鬼ッ!

 ――絶対に許さない! 殺す殺す殺してやる!


 森の中を僕と同じ人間たちが駆けていく。獣を追いかけ、獣の罪を裁かんと、炎が雷が槍が剣が弓が獣へと襲来する。

 轟音が響き渡った。幾度も幾度も。業火の烽火が瞋恚しんいとなって蹂躙を記す。

 僕はただ、その場を動けなくいて、気づけば倒れた木は鎮火していて、やっと動けると倒木を乗り越えた時には既に音は遠くになっていた。


 甲高い獣の咆哮が風に流れ世界を冷やす。


 空を見上げる。黒煙に覆われた断罪の空が僕を見下ろして鼻で笑い視線は逸らされた。今のおまえを見る価値もないと言わんばかりに冷風は肌を切り裂く。

 痛みと寒さと空虚と闇が後悔を強く胸に押し付ける。


「僕は……どうして、人間なんだろう」


 そんな、現実逃避に意味なんてあるはずもないのに。

 僕は動けなくて、何もできなくて、結局は偽善で偽愛で無責任で。


「何が救うだよ。なにが一緒に……だよ。なんでっ僕はっ!」


 流れるバカな涙を空は隠してくれない。爪の食い込んだ掌から流れる血、その痛みを感じたいのに感じさせてくれない。戦闘音が聞きたいのに、もう遠くてどこから聞こえてくるのかわからない。僕はどうしようもない愚者だ。


『あの子はまだ生きてる』


「え?」


 唐突な声に顔を上げる。目の前、僕を見下ろす黒衣に包まれて相貌が見えない何者かは言うのだ。


『あの子に愛された人間ヒト。どうか立ち上がってほしい。そして、あの子を助けてあげてほしい』

「助ける……でも、彼女は」

『君の見て来たあの子とはどのようなヒトだった。あの子は独りで戦えるような存在だったか?』

「そ、それは……」

『よく知っているはずだ。あの子がどれほど寂しさに凍えていたのかを』

「――ぁ」


 そうだった。僕とクゥーの出逢いはそこから始まったのだった。


 孤独は辛い。誰にも覚えてもらえない、認めてもらえない。それは酷く寂しくて悲しくて痛いもの。そうだ、僕は孤独が嫌だった。そして、クゥーも孤独が嫌だった。

 だから僕らは出逢った。一緒に生きることを誓い合った。

 僕の胸に顔をうずめて孤独の寂しさに涙していたクゥーがどうして孤独で大丈夫だと思ったか。違う。


「僕は逃げてた。クゥーが笑ってくれた、そんな免罪符が、僕を逃がして、僕は逃げて……逃げて良いはずなんてないのに。僕はっ」


 知っていたはずだ。クゥーの笑顔はあんな悲しそうなものじゃないことを。抱いていたはずだ。見ない振りをしていても今もあるはずだ。クゥーへの想いが。

 黒衣の者は告げる。


『どうかあの子を孤独にしないであげてほしい。この選択があなたを破滅に追い込むとしても、どうか願わせてほしい。クルールに生きていてよかったと、『人じゃなくてもけもの』でもよかったと思えることを、あなたに託したい』

「生きててよかった……」


 その言葉が僕に決意させた。ずっと、生きる理由を探していた。最初は見返すため、次は声の少女に出逢うため。次は君と一緒に生きるため。

 嗚呼、これは我儘だ。僕の完全なる強欲だ。醜い願望だ。

 それでも――


「僕はクゥーと過ごした日々を悪いものにしたくない。刹那な日々だったとしても、良かったと思いたいし、クゥーにも思ってほしい。君の言う通り、僕も生きててよかったって思ってほしい」

『……』

「ありがとう黒衣の人。僕はクゥーを助けるよ」


 今度こそ迷わない。これが僕のすべてだと今ここに誓う。この命も人生もすべては捧げると。約束を果たしに行く。

 黒衣の者は僅かに顎を下げ、指を差した。


『この先にあの子はいる。どうか、あの子を頼む、風の人』

「任せてくれ。僕はもう迷わないから」


 僕は駆け出す。風に乗って掴めなかった君との日々を約束を果たしに、僕は君の下へと走った。

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