第33話 風の寂しさ side『風』

 

 彼の旅路は愉快とは程遠く、また幸せともかけ離れていた。


 獲物を見つけたとばかりに襲い掛かってくる幾多いくたの獣たち。その剛腕が大地を粉砕する。跳躍ちょうやくして回避した彼の背後を猛禽もうきんの爪が喰い込まんと強撃。風の膜で守り距離を取る。地上に逃げ降りたその瞬間を狙って数多の砲撃が叩き込まれた。ある獣は己の棘を。ある獣はエネルギーを。ある獣は槍のような得物を。

 名も知らぬ獣たちから一斉に狙われる蹂躙じゅうりんの地獄。止むことのない驟雨しゅううのよう。乾くことのない命の危機が彼を生へ駆り立てる。


 ――ふぁいとー!


 時たまに聞こえる不思議な声にはげまされながらすべての砲撃を風撃で相殺する。

 彼が選んだ得物は槍。リーチを生かし、近接と中距離の間を維持しながら相手の土俵には乗らずに心臓を一突き。軽快な身のこなしで敵陣を無双していく。精練せいれんされてきた風が適切に獣を切り殺し、槍の柄で背後からの攻撃を防ぐ。流れる動作で攻撃を往なしては隙を逃さずに瞬殺。それを獣が絶えるまで続けた。

 永遠に槍を回し続けていたような感覚に後になって力が抜ける。それは酷い酔いのようなもの。これが戦う度に彼へ圧し掛かる傷害であった。


「やっと、終わったかな? 少しずつだけどちゃんと戦えるようになってきてる」


 風の力を手に入れて約一年弱。今だ四肢万全で残っているのが不思議なくらいだ。この一年はひたすらに修行に明け暮れていた。第一にこの獣が跋扈ばっこする世界で生きるには戦闘は避けて通れない道。無論、寝床ねどこや水の確保。食料の調達なども必要不可欠だが、弱いとそれらを行う前にこちらが食べられてしまう。


 彼が最初に打ち立てた計画はこうだ。

 ある程度強くなる。食べれる物や生態系を調べる。旅に必要なものを揃える。


 この三つだ。水源は運よくも森林地帯だったことで直ぐに見つかった。食べ物に関しては最初は果実やキノコなどを頭に響く不思議な声に導かれるまま、とりあえず火には通して恐る恐る食し、獣を倒せるようになった四十日後には獣を食べるようになった。葉っぱや蔦、木材を利用して簡単な鞄や水筒などを作った。そうこうしてやっと重い腰を上げられたのはこの奈落に落ちてきて百二十日目のことだった。

 その後、今日までの六十日間で探索を行い、色々な場所を巡った。

 そして、今彼を悩ませている問題が一つあった。


「ここどこだろ?」


 絶賛迷子であることだ。いや、元から絶賛迷子なのだが今は道を退き返したはずなのに、辿たどって来た道から外れてしまったということ。膨大な大地の地図は大葉では収まりきらない。今となればつづった地図すら無駄なこと。


「とにかく森をでるしかないかな」


 森を出ると決まればとにかく前進すればいい。そうすればいつか辿り着けるだろう。


 ――そこ、みぎー。


 時たま聞こえる謎の声に従って右折する。


 ――あの果実おいしいの。

 ――そこのキノコは毒だから。

 ――横の葉っぱで薬作れるんだよ。


「…………」


 時たまというか、あの日、力を授かった日から暇があれば喋りかけてくる少女らしい声。

 彼は一度咳払いし、今日こそはと身体に力を込めて訊ねた。


「君のお陰で生きてこられたんだけど、そろそろいいかな?」


 ――ん? どうしたの?


「――君は誰なの? ずっと声しか聞こえないんだけど」


 この謎の少女の声、頭に直接届く声のお陰で生き抜けた事実に感謝はあるが、一年間、声の少女が誰なのかわからない状態が続いていて軽く恐怖である。もう何度目になるかわからない質問の返答は決まっていた。


 ――ナイショなの。


「ナイショかー」今日もダメらしい。


 ――うん。ナイショ。


 つまり、この声ってだれ? であった。


 確かに感謝はしている。声さんがいなければそもそも最初の一歩目で四足の鳥に食べられていたことだろう。食べられる植物だったり薬草や鉱物の性能まで教えてもらい、あまつさえ現状進行形で道案内までしてもらっている。感謝の念は絶えない。できるなら直接お礼を言いたい所だが、現状がその猶予を許してはくれない。


 ――前から何か来るの!


「獣⁉」


 草陰に身を潜ませ、少女の言う何かが通り過ぎるのを待つ。

 ダダダッッ! と、もの凄い数の足音が濁流だくりゅうのように押し寄せてきた。二足の長い脚に前後に長い首と頭をつけたダチョウのような獣だ。


 ――守って!


 瞬間、獣の驀進ばくしんは五メルの距離で隠れていた彼にまで衝撃をもたらした。その脚が土を踏み込むたびに生じる衝撃。それが数十匹の束となってそこら一帯を薙ぎ倒す。喰らった衝撃は内臓を揺るがし骨をきしませるほどだ。

 走る自然災害は五秒とせずに通り過ぎていったが、被害は尋常じゃない。樹木の幹には叩きつけたような深い傷跡。小さな樹木は半ばから折れており、距離の近かった地面は掘り返されたようにせり上がり軽くクレーターが出来上がっている。


「走るだけでこれって……相変わらず意味わかんないんだけど。はぁー、また君のお陰で助かったよ」


 ――ふふーん! でしょでしょ! もっと褒めてもいいんだよ。


「じゃあ、名前教えてくれたら――」


 ――ぶぶー。ナイショはナイショだからだめー。


 どうしても正体を教えてはくれないらしい。こんな感じの問答はもはや既視感すら覚えてしまう。


 ダチョウのような獣が通り過ぎた道はさながら獣道、というか畑を耕した感じに似ている。

 一年弱だが、この世界にいて一つわかったことがあった。

 獣が環境に適応している。それは変わらない。しかし、獣の能力や生態系が環境を脅かし、その度に環境が獣に合わせて再生していく。最早進化しすぎた獣に環境が変化を強いられているのだ。


 とある範囲内だけで生活をしていた時、蜘蛛型の獣に襲われたことがある。その時の環境は木々がある程度の感覚を開けて並んだ森の中の平地であった。蜘蛛くもが得意としないフィールドであったことで苦戦せずに勝利を収めた彼だが、数日後、その場所に訪れた時には木々の感覚は周囲の森に適応し、平地だったのが緩やかな丘陵きゅうりょうとなり岩などが加えられていたのだ。罠をしかけて獲物を捕食する蜘蛛には適したフィールドへの変化だった。

 このことからできる限り戦闘を行った場所には戻らないようにしている。そして、この獣道もまた獣に合わせて変化するのだろう。


「とにかく進もう。獣が寄って来ても困るし」


 ――ひだりひだり。左真っすぐで森を抜けるよ。


「わかった。左に行ってみる」


 ――うん!


 少女の声に従って左へ進む。しばらく歩くと言った通りに森林を抜けた。

 そして、凄まじい音と景観が眼を奪った。


「ふぅー……ってこれはすごいや」


 彼に驚愕をもたらしたのは圧倒的な世界の中心像だ。それはまさしく瀑布ばくふ。ゴォオオーっと凄まじい音を立てて落ちていくアプス淡水の滝。遥か先に対極の崖がなんとか見えるような大円形。

 それは人では距離を測れないような途轍とてつもなく大きな穴だった。

 この世界の空が神秘の門を謳うように光を差し込み、空を飛ぶ獣どもが咆哮を上げた。果ての見えない大瀑布に彼の心臓は奪われた。


「…………」


 ――おっきいね。


「うん。どこまで続いてるんだろ。それとも落ちたら死ぬのかな」


 穴へと近づき、少し顔を乗り出して見下ろす。瀑布の音は穴の心音か寝息のようで、果てなど存在するのかと思わせるほどに深い。故に容易く穴の闇は死を連想させ、同時に浮遊感にも似た何かが芽生える。

 そう、感覚が言っているのだ。この先にまだ何かがあると。まるで獣がこちらだと手招く不思議な感覚はその鼓動をドクドクと熱を高めた。言葉になどし難い。心臓を掴んで離さない、そういったものがその穴にはあった。

 魅入ってしまう、その一言でいいとさえ思えた。同時に抱く恐怖はこれまで生きて来たなかでもっとも美しく繊細に鮮明だった。


 感じるのは圧倒的な死。死によって燦然さんぜんとさせる生だ。


「僕は……ここから生まれたのか……」


 そう自然に漏らしてしまう。それは絶対の生死が強く宿っていたからだ。生命の存在を明確にするようなありえない感覚に原始の母のような郷愁きょうしゅうすら感じてしまう。


 ――死なない。この先にはまだまだ世界があるもん。


 優しい炎が弾けたように唐突な少女の声。虚無に落ちて行っていた思考が戻され、正気がはっと後退あとずさりさせた。

 少女の声は頭に直接届くというのに、呆けた頭は周囲を見渡してしまう。


「世界って、今僕がいるところと同じ?」


 ――うん。ちょっと違うけどたくさんあるの。


「まだ……あるんだ」


 彼には目的があった。無能と追い出された家族を見返すために特別になること。けど、それはあの英雄たちのようにこの風の力を手に入れ獣と戦えたこと。もう二度と天場てんじょうには戻れないこと。この二つが彼の抱いていた目的を砂に返してしまった。ここで生きていく中で命の尊さや人の脆さも知ったことで、バカみたいな家族への固執こしゅうがなくなったとも言える

 そんな彼だが、目的に変わってその心を埋めるものが、今は一つとしてなかった。

 その胸は、心は空白を見つめ、空虚な胸を埋める何かを愚かにも絶景に対して凄切せいせつをみせた。


「僕さ。最初は怖かったんだ」


 それは吐露とろだ。見栄を張って一生懸命生きてきた彼の弱音だ。


「特別になりたいって、それだけで頑張ってた。この力を手に入れて、獣を倒せて嬉しかった。でも……いつ死ぬかわからないから怖かった。……誰にも知られずに死ぬのかなって、それがすごく怖かったんだ」


 ここではひとりぼっちだ。この一年間、誰とも出逢っていない。声だけの少女としか会話をしていない。その少女も、本当に存在しているのか。世界の理不尽に頭が狂っただけではないか。そんな考えだって寂しい夜にはふと思う浮かんでしまう。


「家族に見返してすごいって言ってもらいたいだけだったのに、認めてもらいたいだけだったのに……」


 それすら叶わない今、彼は孤独にさいなまれるのだ。


「どこに……居場所を求めたらいいのかな……」


 空白に零す吐息は聞こえているのだろうか。それとも目の前の瀑布に流されていったのか。


 理不尽が何度も襲ってきた。何度も死にかけた。同時に過去が薄れていく実感が苛んで仕方がなかった。なんとかうそぶいて奮闘してきた空元気も、世界の真実を目の当たりにすればその瀑布に仮面は流されてしまった。守っていたガラスは砕かれ、産まれた姿で野に放りだされた。瞬間に襲ったのだ。


「僕はどうやって生きたらいいんだろう」


 特別は手に入った。家族のもとには帰れない。認めてくれる人もいない。ここでは孤独で愛せなくて愛されなくて、ただただ殺戮の戦場を生き抜くだけ。

 そこに、生きる意味はあるのだろうか。生きるとして、何を力にすればいいのか。


「僕はわからないんだ」


 壮絶な神秘の前に矮小な人間はすべてを打ち明けなければいけなかった。そうしなければ今ここに立っている資格を剥奪はくだつされるような気がしたからだ。

 矮小な彼のちっぽけな叫びは大穴へと吸い込まれていく。人間如きが、と愉しげに笑うように大気が震え木霊した。

 無骨な世界は彼を試す。天場にはない光を持ってここが生命の生き場だと胸を張るように、その未完成は人間を試すのだ。

 一歩踏み出せない彼に、それは小さな温もりとなって届いた。


 ――じゃあ、クゥーに会いに来てよ。


「え?」


 まるで少女が背中を抱きしめるように。


 ――クゥーがあなたの生きる意味になってあげるの。


 実態のない温もりと感触と微かな指先の冷たさ。


 ――待ってるの。


 それは振り返ると消えてしまいそうで、その声を追いかけるように彼は温もりを手繰り寄せてぎゅっと拳を握った。

 その手にあるのは浅葱あさぎ色の結晶。綺麗な結晶をぎゅっと握りしめ決意するのだ。


「君に会いに行くよ。これを返しにいかないとだから」


 理由を貰った。まるで生きてほしいと願われているみたいで、逢ったこともない少女に彼はどこか愛しさを覚え始めた。


 もしもと思うのだ。もしも、君に逢えたのなら――


「僕はひとりじゃないんだね」


 そう、確かに思えるから。


 彼はもう一度大穴を覗き込む。果ては見えず呼んでいるような滝の音。空では怪鳥が嘲笑い、未完成の大地は一人の人間の可能性を見定めている。


 大穴は笑った。大穴は悦んだ。大穴は歓迎する。

 獣が吠えたのだ。だから彼は覚悟を決めた。


「待ってて。今行くから」


 そうすべての過去にけじめをつけ、彼の身体は大穴へと吸い込まれていった。

 落ちていく闇の先で微かな光を見つめながら、彼は風に包まれた。

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