第18話 ささやかな幸せを祈って。ただ愛していました。

 

 それは遠い遠い過去を振り返っているようで、どこか居心地の良さを感じていた。

 曖昧だった記憶に沈み、当時の私とあなたがはっきりと見える。

 背が高くいつもがっしりとしたよろいを着ている精悍せいかんな顔立ちのその男の人は、目の前の五歳の私と視線を合わせるように片膝をついて。


『初めましてネルファお嬢様。今日からお嬢様の護衛騎士に任命されましたカイン・ビルマーと申します。どうぞよろしくお願いします』


 体つきと顔付きからは想像もできないほど柔らかな声と笑みだった。私だけに向けられたその笑顔にきっと私は一目惚れをしたのだ。


『カイン! 遊びましょう!』

『いいですがその前に歴史学のお勉強がございます』

『えー。私はカインと遊びたいわ』

『では、お勉強が終わりましたら絵本を読み聞かせてあげます』

『ほんとう!』

『はい、お嬢様』


 私は無邪気に大きく頷いた。あなたが私に構ってくれるのが嬉しかった。


『お嬢様! 勝手に人のものを奪ってはいけません』

『だ、だって! みんな意地悪するの! 私だけ仲間外れにして……』

『だとしてもお嬢様の行った盗みはお嬢様への意地悪と同じことです。お嬢様はやられて嫌なことを他の人にもしたいのですか?』

『――そんなことない! したくない!』

聡明そうめいで優しいお嬢様ならわかりますよね。私も付き添いますから』

『……うん』


 守銭奴しゅせんどのお父様だけを見て育っていたなら私は醜く傲慢ごうまんな令嬢になっていたこと。私を正しい道へと導いてくれたのはカイン。誰も私に構ってくれない味方してもくれないしかりつけてもくれない屋敷の中で、あなただけが私を一人の女の子として扱ってくれた。あなたにそのような気がなくても、私の心は唯一のあなたに惹かれていった。


『カイン。冒険者はどうして死に逝く者モータルと呼ばれているの?』


 十になった私は学び舎に通うことが多くなった。その授業の一環、特に軍に関わることへの比較として冒険者はいつだって侮蔑ぶべつを浴びせられおとしめられていた。けれど、たくさんの童話に出てくる冒険者や英雄、勇者はかっこよく書かれている。


『それはですね。軍が命を賭けてパンテオンから民を守っているのにも構わず、憧れや私欲だけで【エリア】に挑むからです。【エリア】は危険です。その地にお宝などを求める彼らは私どもから見れば命を捨てているように見えるのです』

『じゃあ、冒険者に憧れることは悪いこと?』

『…………もしも、お嬢様が地位も家族も友達もすべてを捨ててでも冒険者に為りたいと思いましたら、微力でありますが私だけはお嬢様を応援します』


 すべてを賭ける、すべてを捨てる覚悟。それは当時の私にはあまりピンとこなかった。けれど、カインと離れ離れになることは憧れや好奇心よりもずっと光輝いてなどいなかった。


『ううん。やっぱり私はこの家を継ぐわ。そしたらカインを私のお婿むこさんにするの』

『私とお嬢様では身分が違います。それに、私はもう三十路の身。きっとお嬢様には素敵な人が現れますよ』


 私の一方通行だった恋心。好きな人に別の人を紹介されたみたいで私は頬を膨らませてそっぽを向いた。その時、何がなんでもカインと結婚するんだと誓ったものだ。


『貴族の役割は主に二つです。民衆商売に寄付をして直営のお店を持つこと。それにより売り上げの何割かを税金という形で徴収する。これが主に収入となります。二つ目は軍の支援に当たります。貴族は元は軍に所属していた公務員の方が佐官や将官などの位を賜り軍の繁栄に与えられた冠名です。我々には軍を支持する役割があるのです』

『つまり、お母様は三十以上のお店の管理と問題の対処、軍の支援もすべて一人でやっていたってこと』

『……調べた所。奥様の秘書など当主様がお金欲しさに売りさばいてしまったようです。雇った所で同じことが起こると考えたのでしょう。無理のたたった奥様は』


 十二歳の誕生日を迎えた日。お母様が亡くなった。原因は過労死。職務のすべてを一人でこなしていたのだから当然、そう今では割り切れても怒りが収まるわけもなく、当時は虚無が酷く寂しさで満たしてきていた。

 そして、当然だけどお母様一人ではすべての職務を全うするなどできるはずもなく、山積みの問題が数週間で暴動に到り真面に運営できないアルザーノ家は二ヵ月もしない内に没落した。お父様が急遽雇った方々が奔走してくれたお陰で貴族としての体制だけは保てた現在、アルザーノ家の治下ちかにあった直営店の経営者はお金を奪って逃げ、またお父様が泥酔でいすいして漏らした軍の機密が流され、また不法物の取り扱いなどの疑いをかけられたことで直営業が廃止された。


『カイン……私はこれからどうしたらいいのかな?』

『…………』

『わからないよね。……うん。私は私のできることをやろう。そのためには頑張って勉強しないと!』


 正直に言えばわかりそうでわかっていなかったのだ。

 家が大変なことはわかった。お母様が過労で亡くなったのも、そのうち涙とともに受け入れた。ただ、これからどうなるのか。そしてお父様の考えの何一つとして私は理解していなかった。

 ただ――


『そうですね。いつどんなことが起きてもよいように備えておきましょう』


 あなたが笑ってくれたからきっと大丈夫だと私は頷いたのだ。

 だから、お父様に呼び出された時、そんな話しを聞かされるなんて微塵みじんも思っていなかった。


『ネルファ。おまえには結婚してもらう』

『…………え?』


 唐突な申し出……違う、に私は咄嗟とっさには理解できなかった。

 私の年はまだ十三。成人まであと二年もある。婚約はできても結婚は法律でできない。なのに、もう一度言ったお父様の『おまえにはサリファード家の次男と結婚してもらう』と具体的に言われて心臓を鷲掴みにされた。


『そ、それはどういうことですか? 私はまだ十三で』

『どうもこうもあるか! 上級貴族のサリファード家の次男にとつげ。これで我がアルザーノ家も復興できるのだ! 貴殿は約束してくれたのだ。アルザーノ家を守ってくれると!』

『どういうことですか! どうしてサリファード家が! ……お言葉ですが零落れいらく寸前の貴族の身請け話などありえません!』

『黙れ愚女! サリファード家は我々のために献身けんしんしてくれたのだ! あの心優しきお方にどれだけの感謝をすればよいか。これ以上、誰にも没落貴族などとは呼ばせぬッ』

『お父様! どうかもう少し事の詳細を』

くどい! あの女と似ておまえに才などない! 無能のおまえは女らしく嫁げばいい! 私に逆らうなァ!』

『なっ……お母様は無能なんかじゃ!』

『これは決定事項だ。そいつを部屋に閉じ込めておけ』

『わかりました』


 お父様が新しく雇ったのか、知らない男の人二人が私の両腕を掴み上げ、まだ背の低い私の足は宙ぶらりん。


『離してっ! やめてっ! なんでどうしてっ!』


 叫んだ。バタバタと身体をよじった。けれど、男たちはビクともせずお父様の視線は既に私から離れていた。叫んだ何度も叫んだ。


『どうして私が結婚するのですかっ! 結婚なんて嫌です! もう一度考え直してください! 絶対におかしいです! お父様、お父様。お父様!』


 虚しく私は閉め出され、枯れたと思った涙がぶり返しこれまでの人生を砕くほどの衝撃が呼吸を荒くしていった。砕けて砕けて砕けて砕けて――


『お嬢様! 貴様ら何をしている! 今すぐお嬢様を離せ!』


 その声に大好きな声に私は振り向けなかった。

 私は汚れたぬいぐるみのように廊下に捨てられた。尻もちをつき床が痛いほどに冷たい。


『その娘を部屋から一歩も出すな』

『なにを言って』

『当主様の命令だ。おまえがそれ以上を知る必要はない』


 男たちは一方的に告げて戻っていく。カインが私の名前を呼んで身をかがめる。


『お嬢様! 大丈夫ですか? 何があったのですか?』


 心配性なあなたにきっと今までの私なら『カインは心配しすぎ。私はほら、大丈夫』とくるりとその場で一回転してみせただろう。けど。


 ――サリファード家の次男に嫁げ。


 その顔が見れなかった。その声に答えられなかった。ただ伸ばす手は中途半端に止まり、いつかと願ったあなたとの幸せは破片になって胸に突き刺さる。流れ出た血が知らない男との未来を描きだす。虚無を掴むことしかできない。声もあげずに涙を流す私にあなたは何をしてくれたのか、今となってもよく思い出せない。



『ねぇ、カイン。私がサリファード家に嫁げばすべてはうまくいくのかな』

『…………わかりません。お嬢様がサリファード家に嫁ぐのは公的な互いの利益の上での政略ではなく、アルザーノ家を傘下に加えるという意味だと私は考えております』

『つまり、何も利益のないアルザーノ家だけと支配下に置けばアルザーノ家が所有する土地を利用できる。……お父様はどうなると思う?』

『…………。十中八九、口封じに殺されます。それか洗脳されます』

『私はどうなると思う』

『…………』


 この問いにだけあなたは答えてはくれなかった。けれど、私を守る盾がいなくなれば私の身分も人権もすべてはサリファード家が所有することになる。奴隷が関の山だ。


『…………』


 そしてそうなった場合、きっとカインも殺される。それだけがどうしても嫌だった。自分の処遇しょぐうよりもずっと想像しては動悸どうきが苦しくなる。

 あなただけは死なせたくない。私の家の問題であなたを不幸にしたくない。あなたと離れ離れになるよりずっとあなたが殺されるほうが私は嫌。

 だから考えた。考えた。外に出ることができない中、必死に頭を回転させた。お父様を説得させる案。逆転できる案。サリファード家の思惑を掴む案。……すべて却下。


『カイン、あなただけでも今すぐに逃げて』

『お嬢様を置いて逃げるなどできません』

『カイン、お願いだから逃げて! あなたには死んでほしくないの』

『申し訳ございません。ですが、私の命はお嬢様と共にあります』

『お願いだからっ。……あなたには恩がたくさんある。返しきれないくらいにたくさん。……そんな優しいあなたに死んでほしくない。命令だから! 私の騎士なら命令に従って! ここから逃げて! 幸せになって』

『――――。私の幸せはネルファお嬢様を守ること、あなたの笑顔を守ることです。命令であったとしてもお嬢様を置いて逃げるなどできません。それにきっと幸せにはなれないでしょう』


 決して彼は頷いてはくれなかった。私を置いて逃げてはくれなかった。そんなあなたをどんどん好きになっていった。私は愚かで不純で愛おしさの大きさに比例してあなたに生きていてほしい、そう強く望んだ。

 だから――もうこれしかあなたを生かす方法はなかった。


『カイン、私の最期のお願い聴いてくれる?』


 あなたは頭を横に振った。


『何度言われても私の意志は変わりません。お嬢様を置いて逃げるなど私には』


 知っている。だから、私はこう言った。


『なら一緒に逃げてくれる?』

『――――』


 眼をまんまるに見開いた顔はおかしくてかわいくて、私は私自身が酷いと思った。


『お嬢様何を』

『正気だし本気。私がどれだけ言ってもカインは逃げてくれない。私はどうしてもあなたには生きていてほしいの。だからどうしたらいいのかずっと考えていた』


 ずっとあなたのことだけ考えていた、なんて言えたらロマンチックだけどこの選択は茨の道だと理解してなお私は口にした。

 恋の逃亡劇……違うよ。あなたに生きててほしいだけ。


『考えて決めた。私と一緒になら逃げてくれるでしょ』

『お嬢様……それがどれだけ危険なことか承知で言っているのですか?』

『うん。逃げるってことだから家を捨てることになるね。貧困都市ヒバで自分たちで働いて暮らさないといけない。もしくは冒険者になるとか。お父様もそう簡単に諦めてくれなくて追いかけてくるかもしれない。その時は無法都市に身を寄せるとか。…………想像してもうまくできないね』

『それが現実です。想像できないくらい、想像以上に厳しい道乗りです。お嬢様には過酷すぎる世界です。それこそいつ死ぬかもわからないような――』

『それは嫁いでも一緒だよ』


 愛人、奴隷、使用人、人身売買、研究材料。どれをとっても私は死んでるのと同じ。


『覚悟は決めたよ。カイン、私は本気』


 私の眼をあなたは見据えた。息が苦しくなるまで見つめられ、そしてあなたはやれやれとため息を吐いた。


『私はつくづくお嬢様に甘いようです』

『ふふ、決定だね。私とあなたの結婚生活の一歩目だね』

『はいはい。すぐに策を練りますよ』

『あー信じてないでしょ! 私は本気なんだから!』


 あなたが笑ってくれた。あなたが生きる選択をしてくれた。

 あなたと作戦を立てて秘密の特訓をする日々は楽しくて満ち溢れていて、きっとなんとかなるような気がしていたのだ。




 そう、気がしていた。そう願っていた。ここから二人で大変だけど幸せな日々を送っていくんだと。そしていつかはカインに私の愛を本気で理解させて夫婦になりたいと、そんな夢想を描いていた。その全部が私の原動力。

 今思うと私はまだまだ子供だったのだ。


 カインが秘密裡ひみつりに入手した眠り玉を使って門兵や巡回兵を眠らせて逃亡する。途中、見つかったけどなんとか家出は成功させた。そのまま貧困都市へと向かった。

 身振りの良いものはすべて売り、薄くそこまで綺麗じゃない衣に袖を通したのは初めて。濃い味付けで統一された栄養面が考えられていない質素な食事。部屋の半面もない宿で私はギシギシとなるベッド。カインは床にモーフを引いて寝た。

 次の日、これからどうやって生活していくか相談しながら都市を周っていると見知った二人の男が私を指差して追いかけてきた。お父様が雇った傭兵ようへいだ。

 私とカインは逃げた。けれど、既に貧困都市は包囲されていて都市を逃げきれたとしてもどこまでも追いかけてくる、その執念の怨念がひしひしと私の肌を焼いた。

 逃げきれない。ここに居場所はない。ここじゃ生きられない。


『お嬢様どうしましょうか?』


 カインはあくまで私の意志を尊重すると態度で示してくれる。そんな彼に私は甘えてしまった。


『ねぇカイル。私がもし【エリア】に逃げるって言ったらどうする?』


 カインは難しい顔をした。私は私が正気じゃないくらいわかっていて、でも賢しくない頭ではこれしか浮かばなかった。何より死の気配を酷似する傭兵たちの気配が私を焦燥に駆らせた。

 カインは何も言わなかった。だから、私は言った。


『カイン、一緒に逃げてくれる?』

『…………わかりました。お嬢様をどこまでもお守りするのが私の役目です』




 物語りの王子様がお姫様を助けて幸せにあるような夢を見たことがある。女の子なら一度は憧れる物語。私も例外ではなく憧れて待ち続けて、そして現れた。カインこそが私の王子様だと思った。一目見て、あなたが王子様だと恋をした。

 物語りはいつだってハッピーエンド。王子様とお姫様は結婚して子供を産んで幸せな家族を作る。世界は平和で争いはなくてみんなから祝福されて。

 きっと、きっと……そんなささやかな幸せがこの先の未来にあると信じていた。

 私の隣に前に立ち、あらゆる危険から私を守ってくれるあなたと幸せをつむぐのだと。


『私とお嬢様では身分も違えば年も離れています』

『お嬢様にはもっといい人がいます。どうか早まらないでください』

『私はお嬢様を守る騎士。これからもこれまでも』


 なにがどうしてそこまであなたを閉じ込めていたのかはわからない。一度たりとも頷いてくれなかったあなたに、それでも私は夢想を描いていた。

 だから、王子様とお姫様の手を引き裂くバッドエンドなんて想像もしていなかった。信じたくなかった。


『ネルファお嬢様! っく』

『カインっ! そこをどいて!』

『ネルファよ。誰が屋敷から逃げていいと言った? 私の命令を聞けないのかッ!』

『お父様……』

『おまえを育ててやったのは誰だァ! おまえが産まれたのは誰のお陰だと思っている! ネルファよ、おまえはアルザーノ家の跡取りとなるために存在している。大人しく私の命令に従え。いましめにそこの愚図を殺してやろう!』

『やめて…………や、めて。だめぇえええええええええええええ‼』


 そこからどうなったのか、あなたが生きているのか、それとも死んでしまったのか……よく覚えいない。

 けれど、どうしてだろう。

 今もあなたの声が痛みの奥で聞こえてくるのは……。




 気づけば私は見知った場所にいた。


「ここって……お屋敷の私の部屋?」


 何も変わってない私の部屋。脱出計画を練った地図。歴史学の本。読み聞かせてもらった冒険譚。彼の誕生日に集めたフォルティアという瞳の花。訓練の時に外れた籠手こて。彼が私の誕生日にくれた願い陽を象ったネックレス。間違いだらけの答案用紙。子どもの頃に泥だらけになったドレス。彼が縫ってくれたぬいぐるみ。


「これって、思い出……」


 見渡してそこに数多にある私とカインの思い出。私が大切にしている記憶。

 瞬間、嗚呼と何かが私を理解させた。

 はっと前を視れば部屋の扉のドアノブを握るカインがいた。


「待ってカイン!」


 咄嗟に叫んで走りだす。けど、思い出の品が溢れんばかりに床一面に広がっていてうまく身動きが取れない。

 彼はドアノブを回す。


「待って! お願いだから待って! 行かないでカイン‼」


 どうしようもない切なさが溢れ出た。途轍もない不安が痛いと叫ぶ。ありえないほどの動悸の中に白い光があって。


「私を置いて行かないでぇぇぇぇ――――」


 あなたはドアを開いて振り返った。その顔は穏やかで寂しそうで口がそっと動く。


 ――生きてください。


 手を伸ばす。脚を動かす。声を上げる。でも届かない。掴めない。辿り着けない。

 あなたは光の先へと歩いていく。私を置いて歩いて行く。歩いていく。

 あなたを呼んだあなたの名前は、虚しく私の意識を沈めて埋めて闇に落した。




 今はもう、あなたの声が聴こえない。




 *




 遺書 ネルファ・アルザーノ様へ


「ネルファお嬢様お元気ですか。この手紙はアルザーノ家から逃げる前日にしたためております。この手紙を読まれているということは私はお嬢様を守り切ることができなったのですね。酷く悔やまれます。

 このような手紙で申し訳ないのですが、一つお嬢様に隠していてことを告げさせていただきます。

 私は病気をわずらっています。私の死がその病気によるものか他の原因かはわかりかねますが、どちらにしろ私の命はそう長くありませんでした。この事実を隠していたことお詫び申し上げます。

 私はお嬢様を閉ざしたくなかったのです。きっと私が病気だと知ればお嬢様は私の治療と引き換えにサリファード家へと嫁いだことでしょう。お嬢様の人生を狂わせてしまうことが私には耐えがたい苦しみでした。

 これから先、どのような人生を辿るのかわかりません。そして、私はお嬢様がどのように育っていくのか見守ることも叶わないのです。

 だからどうか願わせてください。

 ネルファお嬢様が幸せに生きていけますこと。

 心より敬愛を。そして、親愛を」


 敬具 カイン・ビルマー。




 *




 最悪な寝起きは涙が止まらなかった。

 曖昧な記憶の中で必死に叫ぶあの人が浮かび上がり、鮮明になった卑下た視線と汚らわしい存在に身体をなぶられたことを思い出し、その場であえぐ。が、出てくるのは胃液のみ。全身がキモチ悪くて今すぐに皮膚をいでしまいたい。けど、今はそれ以上にやらなければいけないことがあった。

 見渡してここは宿の一室だと気づく。枕元に置かれた彼の遺書。壁に立てかけられている彼の剣。傷だらけの身体。残された願い。

 ゆらりと私は剣を手に外に出た。

 声が聞こえる。宿の外で誰かが言い争っているのがわかる。その声が忌々しいと沈んだ心がドス黒い何かを排出していく。

 その手を掴んで引き留める彼はもういない。何をする気かと構ってくれる彼は遺書を残した。悲しそうな顔をする彼は部屋を出ていった。


「だからァ、いねーつってんだろうがァ」

「嘘をかたるな屑‼ 私はわかっている! ここに我が娘がいることなどッ!」


 宿の外、騒がしい。ざわざわしているエントランスを抜ける。誰かが「あ」と息を漏らし次々に視線が集まってくるのがわかった。そんな視線に彼の視線はいない。


 声が聞こえる。忌々しい声が聞こえる。私と彼の人生をおびやかした元凶の声が。

 宿の扉を開いた。

 皆の視線が私に集まった。


「オマエっ。なんで出てきやがったァ!」


 心配の混じった怒声はアンギア・セブン。私と彼によくしてくれた腕利きの冒険者。その男と対峙する狂気を孕んだ五十を超える男は満面の笑みを咲かせた。


「ネルファ! 久しぶりなことだ! やっとわかってくれたんだな。ほらおまえのせいであの騎士は死んだ。おまえは大人しく嫁ぐべきなんだ。わかっただろ。ここにもどこにも、もうおまえの居場所はない。さあ、帰ろうか。最後くらいは親孝行してもらいたいくらいだ」


 お父様は頬を紅葉させて手を差し伸ばす。アンギアが「何を勝手なァ!」と口をはさむが護衛の傭兵と暗殺者がそれを阻む。お父様が雇った選りすぐりの汚い仕事もこなす傭兵たち。カインを傷つけた暗殺者たち。

 私とカインを引き裂いた悪魔たち。


「――――。ゆるさない」


 だから――


 私はお父様に近づいて。手に持つ彼の剣でお父様の腕を切り落とした。


「…………」

「…………ぇ」


 左腕が宙を舞う。墳血が顔に飛び掛かる。構うものか。


「すべてお父様のせいだ」


 そのままお父様の心臓へと一突き。剣が胸を貫き死を刻み込んだ。

 ごふっと血だまりを吐くお父様。剣を引き抜くと大量の出血。まるでお父様の罪そのものように広がった。


「ね、ネルファぁあああ! な、んのつもりだぁ、あ」

「…………」

「――その眼はなんだァアアアアアアアアア‼ 殺せぇえええええ‼ 殺せェぇえええええ‼」


 傭兵たちが一斉に動きだす。しかし。


「ここはオマエらの領分じゃねーんだよォ。失せろ屑どもォ」


 アンギアの大剣が一刀両断。筋力に自信のある傭兵の剣ごと真っ二つにした。他の傭兵もすべて周囲のアンギアの仲間たちが次々に制圧していく。


「なっなぁ……」


 私はお父様に近づく。裸足にお父様の血が付着してそれが私の罪なのだと酷く痛んだ。けれどもう後戻りはできない。急所は外したが次期に出血でお父様は死ぬ。


「お、おまえ何を……い、いやわたしが、悪かったっ。た、頼む許して、くれ。嫁がなくても、いいからぁ。なぁ?」


 剣を構える。その首を斬り落とす位置に。


「――っっっ‼ おまえもかァ‼ おまえも私を憐みバカにする眼差しを向けるのかァ‼ あァアアアアアアアア‼ 忌々しいィ‼ あの女そっくりだな‼」

「あの女……?」


 下卑た笑みを浮かべるお父様は言うのだ。


「ああ! おまえもよく知るおまえの母親だッ! あいつはいつだって私を見下してきた! 私のお陰で令嬢の地位にけたというのにィィィィ。私を見下し挙句に当主の座まで奪おうとしたァ‼ 私のために家のためにやっていただと? 違う違う違うゥ‼ あいつは私から当主の座を奪おうとしてたんだッ‼」

「―――――――お母様を殺したの?」

「ああ。殺したよ。そこの役立たずたちに雇う金の代わりにあいつを差し出した。最後は私がこの手で殺してやった。アハハハハ! アァア! これで平和なはずだった。だというのに平民の屑どもめェェエエエエ‼」

「――――――――」

「アハハハハハハ‼ ほら、はやく私を助けなさい。今なら不問にしてあげる。おまえも愚図な母親あいつのようにはなりたくないだろ」

「――屑はあなただ」

「は?」


 不思議だった。お母様の亡くなった姿を見せてもらえなかったこと。その前の週まで元気だったお母様が急に亡くなったこと。お金のないお父様が傭兵を複数人雇えたこと。後のない貴族に傭兵が雇われたこと。使用人が数十日でいなくなっては入ってきたこと。


「詐欺で女性の使用人を雇い、その使用人を傭兵たちの報酬としていた。あなたのやっていたことは奴隷の飼い殺しだ」


 傷のついた女の価値は下がる。それだけで世間から指差され笑われる。だから誰もうったえなかった。あるいは心が死ぬほどにむごいことをされたか。

 ただわかること。

 下卑た笑みを浮かべ今なお助かると思っている屑なお父様。助かった後、私を無理矢理に嫁がせようと思惑しているお父様。


「あなたが一番悪い。私は絶対に許さない。たくさんの人の人生を壊したあなたを……あなたという悪魔を私は許さない!」

「ま、待て。ちがっ」

「死んで償って」


 剣を振り抜いた。二度と見たくもない思い出したくもない顔が吹き飛びボトンと落ちて転がっていく。その顔をアンギアが踏み潰した。

 呆気ない幕開け。けれど引かない悲しみと怒りはどうすればいいか。


「これからどうするつもりだァ?」


 私は空を見上げた。夜明けが迫る。長すぎた夜を終え、新しい光がやって来る。

 あなたのいない日々がやって来る。すべてが変わって、けれど何も変わらない今日がやって来る。風の呼び声を受け、住まう孤独に今なお泣き忘れない記憶が発露する。


「生きる」


 今はまだそれしか思い浮かばない。けれど、アンギアは「上等だァ」と私の頭を強く撫でた。今はその手に甘える。彼とは違うごつごつとして大きな手。だけど、温もりは似ている気がしたから。今だはこの愚かしい欺瞞を許してほしい。


 男たちの死体処理が行われ私は一人その場に取り残された。

 天場では見ることのできない、朝焼けという一日の始まりを見つめながら、ふと思う。


「結局、結婚はしてくれたのかな」


 今更過ぎる。けれど、今なおそしてこれからも永遠に変わらない心が言う。


「あなたが好きだからあなたの願いを叶えるよ」


 光に背を向け、夜にさようならをして、まだ知らない世界へと私は歩く。

 風がこの身を灰に代えてあなたの下へと運ぶまで。

 だからどうか、あなたを好きで居続けることだけは許してください。

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