第15話 あの子のささやかな幸せを願っただけだった。

 

 それはどうしてそうなったか。きっと誰にもわからないし、わかりたくなどないのだ。

 人生に苦悩は付き物だ。痛みをともなえば辛いことだってある。百の苦痛を感じてやっと一の幸せを手に入れられる。それが人生というもの。

 けれど、そんなすべてが報われるような幸せを望んだことはない。きっとほとんどの人がそう。苦しみや痛みの中にほんのささやかな幸せ、明日も頑張ろうと思える、そんなささやかなものでいいのだ。奇跡も神秘も幻想も誰も望んでいない。そんなささやかである。

 どこで間違えたかと聞かれれば、そもそもが間違いだったんじゃないだろうか。

 その家に生まれたこと。その親を持ったこと。その親から生まれた自分に何ものなかったこと。

 あの子が求めたのはただ一つのほんのささやかな幸せだったのに。

 誰かが求めた大きな幸せがあの子の幸せを喰らって手に入れようとしたから。

 そして、自分があの子を助けられなかったから。

 責任も罪も原因も三等分しても三倍になって理不尽が圧し掛かってくる。あの一瞬、あの刹那、あの選択を。自分が何か一つ正しい道を選び取れていたら。きっとこんな理不尽の魔の手に堕ちなかったはず。

 正気を忘れて、狂うように求めて、命など惜しまず、心は常に悲鳴を、あなたの笑顔を、誰かのエゴを、自分の刹那を――もしも、やり直せると言うのなら。


 嗚呼、神様。どうかあの子をお救いください。


 けれどすべては虚しくここに到る。

 祈りは虚しく奈落は理不尽を迫り、人は闇に堕ちて闇で殺す。

 走るしかなかった。とにかく走るしかなかった。

 手を離れたあなたを追いかけて叫ぶしかなかった。

 この理不尽に何を差し出せば幸せを手に入れられるだろうか。



 *



「だぁれかぁ! 助けてくれっ!」


 真夜中、そんな痛切で今にも死にそうな声が夜の森に反響した。


「誰かが呼んでる」


 リヴにぶっ飛ばされたアディルを介護していたルナは確かにその声を聴いた。暗い森を見渡すが誰かいるのかはわからない。返事しようとしてアディルに口を抑えられる。


「人間をおとりにしたパンテオンかもしれねーし、人間の声真似をしてる奴かもしれねー」

「え? で、でも本当に困ってる人だったら」

「人間ならシャインコラルの光に気づけばこっちに来る」

「そっか。パンテオンは苦手なんだよねこの光」


 美しい珊瑚であるシャインコラルはパンテオンを寄せ付けない効果を持っている。つまり、人間であるなら構わずに近づいてくるはず。

 しばらく待つと草枝をかき分ける音がこっちに向かってくるのがわかり、数秒としない内に倒れ込むように姿を露わにした。


「お願いしますぅ! どうか! どうか、お嬢様を助けてください!」


 傷だらけの兵士のような男はそう切に願った。



 男、軍の騎士の称号を持つカイン・ビルマーと名乗った男は、ルナが夕食の残りの出汁を薄めたスープを差し出すと一口飲んで幾分か落ち着きを見せた。

 リヴが大きな欠伸をしながら席に着き、ルナとアディルが正面のカインにたずねた。


「何があった?」


 カインはぎゅっと後悔にさいなまれた苦し気な顔をして、ぽつぽつと語りだした。


「私はとある下級貴族に仕える傭兵ようへいであります。私の仕えるアルザーノ家は祖父母の代に将官の位をたまわり成り上がった貴族です。しかし、祖父母の子供たちが騎士の才能がなく貴族の役割を果たせずに落ちぶれていきました。その際に所得税のことで問題を起こしたのが上級貴族から下級貴族に落ちたもっとも大きな理由です」

「将官ってどのくらいの地位なの?」


 ルナがリヴにこっそり耳打ちする。


「軍のトップが総司令官。次が各部署の代表の司令官がいてその下が将官、佐官、尉官、士官ってあって、後は兵士だね。兵士の中にも階級はあるけど、騎士が上で兵士が下ってだけ知っといたら大丈夫」

「ということは、将官ってすごくお偉い方なんじゃ」

「はい。七十年近く前ですが。二十代の若さでお二人とも将官の地位を賜りそのまま婚約なされたそうです」

「見事なもんだな」


 二十代で将官は異例に近い。むろん、現在にも二十代で佐官の地位にいる者がいるが地位の昇給は年数を置いて一段ずつ上がっていくのが定則だ。二十代の若者が十年以上佐官を務めた者を追い越すなど本来ならありえない。つまりそれ相応の戦果を果たしたということだ。


「して、そんな立派なアルザーノ家も今では下級貴族です。現在の当主の手腕に問題がありこのままいけば零落れいらくは間違いありません」

「母方は?」

「十年前に亡くなりました。過労死です」


 それだけで何があったのかおおよその予想は着く。無能な当主に変わり一人で零落寸前のアルザーノ家を守っていたのだろう。優秀な嫁を失ったことで一気に経済体制は傾きロクに統治できない当主はなんらかの問題、それこそやとっていた者か土地を貸していた者になんらかの不正をされた。税金の滞納、犯罪行為、情報の漏洩ろえい、金の持ち逃げ。

 カインは悔いると続けた。


「そして最早後のなくなったアルザーノ家当主はとある策を打つため、一人娘に目をつけました」

「…………」

「娘の名はネルファ・アルザーノ。今年で十四の少女です。そして私はネルファお嬢様に仕える護衛兵で御座います」


 傭兵だったカインはネルファが産まれたことで専属の護衛騎士として雇われているといことだろう。軍の兵士や騎士は金で買い取ること、雇うこともできる。恐らくカインという男の見た目は二十代に近いが恐らく三十代半ばから後半。筋力の衰えでたるんだと思われる脇の筋肉が服の上からでもうかがえた。


「そして、当主の策とはネルファお嬢様を上級貴族の子息にとつがせることです」

「政略結婚だな」

「…………」


 カインはただ頷くだけだった。その頷きさえも痛々しく眼を逸らしたくなるほど。やつれた精悍せいかんな顔立ちに曲がった背、傷だらけの身体はほんの少し前まで何かと戦っていたのだろう。防具アーマーが所々欠けている。


「上級貴族に取り入り一族の立て直し、傘下に入ることで体制を立て直そうと考えたわけか。無能の策としては下衆げすだな」

「そうだね。十四歳の子を無理矢理お嫁に出すなんて」

「そうじゃねー。下級貴族が己より位の高い貴族の傘下に入る意味、ただ一方的な採取だ。政略結婚なんざていは良いが、上の狙いはアルザーノ家の管理する土地や商人をタダ同然で掌握し利用できる一点だろ。階級の差ってのは佐官と将官の差に比例する。下級のアルザーノ家は逆立ちしても逆らえないし、加えて傘下に入れば上級の奴隷を意味すんだよ。それらもっぱらの利益と引き換えに貴族としての体制を保たせる。偽りのな。アルザーノの娘は良くて愛人、悪く性奴隷か人身売買、労働力だな。当主も契約させ結べば殺されるだろ。その時点でアルザーノ家は採取され意味をなくすからな」


 ルナには詳しいことはわからない。でも、その政府結婚の意味がなく悲惨を呼ぶしかないことだけは理解できた。酷く気持ち悪くなり嫌な動悸どうきを必死に押し殺す。

 カインは泣きだしそうな顔で「その通りです」と頷きはっとルナは顔を上げる。カインはルナを見て痛々しくも優し気に微笑んだ。ルナは頭を横に振った。


「私たち……お嬢様が取れる策は三つでした。政府結婚をすること。当主様を説得すること。家を捨てて逃げること」

「説得……さすがにちゃんと説明すればわかってもらえるんじゃ」

「聞く耳など持ち合わせてはくれませんでした。当主様に反抗したネルファお嬢様がむち打ちの刑にされました。恐らくどれだけ危険性をいたとしても狂った当主様を目覚めさせるのは無理だと判断しました」


 むち打ち……想像できるだろうか。反対意見を述べただけで逆らう気かと、育ててやった恩を仇で返す気かと、鞭で容赦なく背を打たれる光景を。

 ルナの背中が寒さかひりつく痛みが走った。


「で、その感じだと大人しく政略結婚ってわけでもねーな」

「はい。……お嬢様は家を捨てて生きることを選びました。これがおよそニ週間前のことです」


 その選択をしてくれたことにルナはほっと胸をでおろせた。きっと心のどこかで願っていたのだろう。安心の二文字が浮かぶルナの視界に、彼の相貌は晴れない。そして気づく。今、そのネルファという少女がいないことに。彼が傷だらけなことに。


「そ、それでそのは大丈夫なんだよね……?」


 まただ。また、彼は悲しそうに微笑む。瞬間、ルナは罪悪感に死にたくなった。


「逃げたのは貧困都市ヒバか?」

「その通りです。そこで私とお嬢様と一から生きる予定でした。しかし、当主様はお嬢様の失踪に怒りお嬢様を捕まえるために暗殺者を雇いました。お嬢様をたぶらかした私を殺しお嬢様を取りもどすために。……私とお嬢様は当主様が雇った兵に見つかり逃げました。しかし、貧困都市を抜けても直ぐに追っては付いて来ました。最早逃げられる先はこの【エリア】にしかなかったのです」


 カインは立ち上がった。痛む身体を引きずるように。


「逃げきれたと思っていた矢先にまたも見つかり、私はお嬢様とこの森で逸れました。なんとかお嬢様を追っていた暗殺者を見つけ問い詰めた所、攫猿かくえんに攫われたとその者は言いました」


 彼はこの闇の中、ネルファを探しに行くのだろう。迷いなど一切ない目で彼は訊ねた。


「何か知っていることはありませんか? ほんの些細なことでもどうか」


 強い声音はすがるように。その脚は今にでも駆け出しそうで、けれど焦燥しょうそうの動悸が後悔に混じってこちらにまで伝わってきそうな。

 リヴは無言で頭を横に振った。ルナは何も言えなかった。アディルは。


「……攫猿かくえん。……なるほど」と一人勝手に納得し。

「オマエら準備しろ。今すぐ動くぞ」

「りょーかーい」


 リヴは欠伸を噛み殺しながら否を唱えずに立ち上がりテントに戻る。ルナはどういうことか最初わからなかったが、同じく困惑するカインにアディルは確かにこう言ったのだ。


「確証はねー。けど、心当たりはある」

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