累卵之危

三鹿ショート

累卵之危

 私と彼は、互いに顔を見れば迷うことなく喧嘩を始めるような仲の悪さだった。

 そもそもは、田舎から引き越してきた人間である私のことを彼が揶揄してきたことが原因である。

 彼は仲間と共に私を馬鹿にしていたのだが、言葉では敵わないと理解していたために、私は暴力に訴えた。

 彼の仲間に止められたとき、彼が情けない表情で涙を流していたことを、今でも憶えている。

 そして、その姿を見せたことが原因で、彼は人望というものを失った。

 そのことを恨んでいるのだろう、それから彼は、私を罵倒すると同時に暴力を振るうようになった。

 当初は返り討ちにしていたのだが、力をつけてきた影響か、私もまた、彼に傷を負わされるようになっていってしまった。

 そのことが私を苛立たせたために、無駄な争いだと理解していながらも、私は彼との殴り合いを続けていた。

 そのような生活を続けていた我々が停戦したのは、彼女の存在が理由である。

 我々が殴り合っていたところに割り込んできた彼女は、幼子を叱る母親のような様子で、我々を諌めた。

 異性に喧嘩を止められたのは初めてだったために、我々は思わず手を止めてしまった。

 彼女はその反応を見て、我々が争うことを止めたと考えたのか、満足そうに頷いた。

 そして、笑みを浮かべながら我々の肩を叩くと、

「仲が良いということは、良いことです」


***


 それから我々が喧嘩をすることは、無くなった。

 互いに互いを許したわけではないのだが、再び彼女に叱られてしまうことが、恥ずかしかったからである。

 ゆえに、我々は顔を合わせないように努めた。

 その代わりとして、私は彼女と過ごす時間が多くなった。

 彼女は私が彼と争う理由について訊ねることはなく、一人の友人として、私に接してくれていた。

 仲が悪いと有名な我々の争いを止めたことから、彼女が善良なる人間だということは分かっていたが、私が思っているよりも、彼女は良い人間だった。

 私との会話が盛り上がっていようとも、困っている人間を目にすれば、迷うことなく駆けつけ、我々のように険悪な雰囲気を漂わせている人間たちを見れば、見知らぬ人間だったとしても宥めに向かった。

 そのような姿を見ていると、彼女が他者から騙されるということは避けられないものなのだと、考えてしまう。

 だからこそ、私は彼女と共に歩き、目を光らせるようにしていた。

 その甲斐あってか、今のところ、彼女が傷つく姿を見たことはない。


***


 話があると告げられたために、待ち合わせの喫茶店へと向かうと、其処には彼女だけではなく、彼もまた存在していた。

 醜悪な笑みを浮かべている彼の横で、彼女は顔を赤らめながら、彼と交際を開始したということを伝えてきた。

 その言葉に、私が驚くことはない。

 何故なら、これまでの彼女との会話から、彼に対して特別な感情を抱いているということは分かっていたからだ。

 彼が笑みを浮かべているのは、彼女に恋心を抱いているであろう私を出し抜いたと考えているためだろうが、それは間違っている。

 私は、彼女を恋愛対象として見ていない。

 友人として、心配していただけだったのだ。

 だからこそ、彼女を奪われたということが理由で、彼に対して怒りを抱くことはないのだが、もしも彼女を傷つけた際には、覚悟してもらう必要があるだろう。

 彼女に聞こえることがないようにそのことを伝えると、彼の表情は固まった。


***


 私の警告もあってか、彼と彼女は問題なく関係を深めていき、やがて子どもも誕生した。

 私もまた精神的に成長したのか、今では彼を目にしたとしても、拳を打ち付けようなどと考えることはなくなった。

 全てが良い方向に進んでいるために、このまま年齢を重ねたいところである。

 だが、それが叶うことはなかった。


***


 彼女は私を呼び出すと、涙を流しながら、彼が自分を裏切っているということを伝えてきた。

 どうやら会社の部下と関係を持っているらしく、自宅の前で接吻を交わしている姿を目撃したこともあるらしい。

 話を聞いているうちに、私は久方ぶりに彼に対する怒りを覚えた。

 私の警告を無視したからには、それなりの罰を受けてもらう必要がある。

 そのようなことを考えていると、彼女が真剣な眼差しを私に向けながら、

「ですが、彼を傷つけないでほしいのです。罰を与えるのならば、彼の部下にしてください」

 私は、耳を疑った。

 彼女が他者を傷つけてほしいと頼んでくることは無いと考えていたからだ。

 しかし、彼女は本気らしい。

 私が訊ねていないにも関わらず、彼の部下の情報を子細に伝えてきたのである。

 私は、彼女が話している最中に席を立つと、そのまま店を後にした。

 背後から彼女の声が聞こえてくるが、私は反応することなく、歩を進める。

 どうやら私の知っている彼女は、この世に存在していないらしい。

 愛情というものは此処まで人間を変化させてしまうものなのかと考えながら、私は彼のところへと向かっていく。

 何にせよ、彼が彼女を傷つけたことに変わりはないからである。

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累卵之危 三鹿ショート @mijikashort

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