1 かたやぶり

俺はその日、いつも通りのルーティンで動いていた。俺以外のものは大抵管理することは難しい。仕方のないことだ。だからせめて、俺自身のことくらいは、いつも同じ状態に整えておきたい。そうすることで、予測が困難な外の世界のあらゆる事象にも、ニュートラルに、フラットに対応できる。


今日も脳に平常通り、血液が巡っているのを感じる。クレバーだ。


実に、クレバーだ。



そして警察学校卒業後、最初の挨拶をするために、札幌中央警察署に向かった。


ホームセンターで買った間に合わせの自転車は油を差し、サドルは磨いてあり、転がるように車輪がよく回る。


頭にはヘルメット、肘と膝にはサポーターをつけ、路側帯を安全運転で走る。曲がるときには手信号で後続車に進行方向を伝える。


いい感じだ。これからは俺が模範であり、規範であり、ルールを体現しなければならない。


そして、碁盤の目のように区切られた札幌の街を走り、中心部へとたどり着いた。


中央警察署は煉瓦を積んだような曲線的な玄関部分が特徴で、どっしりと重みの感じられる支柱がそれを支えている。


時間には余裕がある。


早めに着いてもかえって迷惑になるだろう。


俺は少し引き返して道中目にしたコーヒーショップで時間を潰そうと思い、再び自転車のペダルを漕ぎ始めた。


青信号が点滅していたので、余裕を持って止まった。



すると、横断歩道をゆったりと歩く人間がいた。


婆さんだ。


食べ物の入ったビニール袋を乗せたベビーカーを支えに進む、婆さんだった。


信号はやがて赤に変わった。婆さんはまだのったりと焦る様子もなく歩いている。


クラクションがけたたましく鳴っている。


車の窓から顔を出して何やら叫んでいる男もいる。


当然のことだ。ルールを守らず、赤信号なのにゆっくりと歩いてるようでは、ルールを守って動いている車の進行が妨げられる。


きちんと、ルールを守り、社会を支えているドライバーたちの怒りを俺は理解できる。



しかし、婆さんは震えていた。



震えながらも、懸命に、少しずつ進んでいた。



それを見ていると、俺はやきもきした。


本来であれば、ルールを守らない婆さんに怒りの感情が湧くはずであろう。


だが、俺はやきもきしていた。


まるで、有刺鉄線で囲まれた柵の中にいる小動物が、あきらめて、しょぼくれて、それでも生きるために運ばれてくる餌に向かって、這うように進んでいるような、そんな姿を見ているような気分だった。


一瞬、ベビーカーを押して、肩を貸してやろうかと思った。


でも、ダメだ。赤信号だ。ルールを破ることは、社会に、世間に、背を向けることだ。


絶妙に成り立っているルールを壊すことは、どんな小さなことでもあってはならない。


それこそ、蝶の羽ばたきが、地球の裏側で大嵐を起こすように、どんな影響があるかわからない。こんなに恐ろしいことはない。



ベビーカーがぐらつき、婆さんは倒れた。


ビニール袋から食べ物が飛び出てアスファルトに散らばった。



俺は、



俺は。




「大丈夫ですか」


俺は、婆さんに肩を貸してやった。



赤信号で歩く横断歩道は、一歩一歩、何かが突き刺さるようだった。手から首から、汗が噴き出た。


婆さんが小さな声で何か言っていたがよくわからなかった。


立ち上がり、歩道まで婆さんを運んでやった。


さて、ベビーカーと荷物を取りに行くかと思ったとき、婆さんによって停められていた車列の一番前にいたタクシーの男が、運転席の扉を開け、倒れていたベビーカーを起こし、散らばった食べ物を拾い始めた。



「その綺麗な制服、にいちゃんまだ新米かい。ほれ、婆さんに持っていってやんな」



そう言ってタクシードライバーの男は俺にベビーカーを押し付けた。



「にいちゃん、いい仕事するじゃねえか」


男はそう言って笑った。



俺は、いい仕事をしたのか。


車は何事もなかったようにまた流れ始めようとしていた。


ルールを破ってしまった後、世界は何事もなかったかのようにまた回っていた。



手の汗を拭き、ベビーカーと荷物を婆さんのところに運んでやらなければと振り返った。



その時だった。


通常の進行方向とは逆の方から、バスが突っ込んできた。






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ルール「過大評価」でリアル世界のちょっとの努力で異世界無双 tomo @tomo524

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