8.夜の名残と朝の訪れ
いつ起きていつ寝ているのかも、いきあたりばったりだったけれど、その時は朝に起きていた。日が昇る少し前で、辺りは青っぽくて、ほの暗い。
一日を何周もしてみたけれど、僕はこの時間帯がとりわけ好きみたいだった。
同じくらい夕暮れも好きだったけれど、夜通しずっと起きていた早朝の僕の胸の中にはいつも、夜の名残りみたいなものがあった。
そんな時間の流れをぼんやりと感じているときはいつも、なんだか少し悲しいけれども愛おしくて、落ち着いた気持ちになった。
◇
人はどんな状況にも慣れるというけれど、例にもれず、僕ものんびりと間延びした生活から抜け出せないくらい、どっぷりと慣れていった。
僕は床に寝転び、カーテンの開け放たれた窓から昼の青空を眺めていた。上空では風が強いのか、大きな雲が勢いよく流れていた。
それをじっと見ているとまるで自分が寝そべりながら動いているかのような錯覚に陥った。なんだかふわふわした妙な心地がして楽しかった。僕の目の前では、今日という晴れた一日の時間が流れていた。
しばらくすると隣で寝そべる君は言った。
「ねえ、神さまってなんでもできるんでしょ? それならさ、わたしの見ているちっぽけな夢くらい、同じように見てくれるよね」
「うん?」半分眠りに落ちていた僕は、君の言ったことを頭の中で繰り返した。また神さまの話か、とも思った。
目の前の大きな雲は途切れることなく流れていた。説得力のある陰影のある雲だった。
「どうしたの、もしかして寂しいの?」僕は君の言いたいことが分からずに聞き返した。
「うん」君は素直に認めた。なんだか君らしくないな、と僕は思った。
「そりゃもちろん、なんでもできるんだから、なんでも見ることだってできるでしょ。ちっぽけだろうと、ヘンテコだろうと、取るに足らない人生だろうと、ぜんぶ」僕は言った。
◇
僕の一日は穏やかにあっという間に過ぎていった。
考え事をしたり、昼寝をしたり。ご飯を食べたり、夢を見たりしているうちに過ぎていった。
どこかの誰かの時間もきっと、ご飯を食べたり、お話したり、眠ったりしているうちに過ぎているのだと思った。そんな誰かの時間は考えれば考えるほど、とらえどころがなく、まるで何かを探し求めるみたいに世の中を巡り続けているように思えた。
◇
ある時は、お腹を空かせた僕らは謎の動機に駆られて、材料を大量に買い込み、一週間くらいナポリタンを食べ続けた。
おかげでナポリタンに関する手際だけはよくなったような気がする。と言っても、大したコツはいらない。
まず、先にスパゲッティを茹であげておく。それから急がなくてもいいので、適当なタイミングでニンニクや玉ねぎやピーマン、ウインナーを塩コショウをしながら炒める。マシュルームはあったりなかったり。僕はあるほうが好きだけれど、よく入れ忘れた。君は毒味をすると言いながら、切ったウインナーをつまみ食いばかりしていた。
具材に火が通ると香ばしい匂いがした。そこに調味料が合わさると、その香ばしさはさらに際立った。
ぐだぐだの麺と、具材をフライパンの中で混ぜ合わせながら、バターとケチャップを入れて、さらにぐるぐると混ぜ合わせて完成。
お供に買っておいたジンジャーエールを飲みながら、ナポリタンを食べていると、少しクリスマスみたいで、なんだか束の間の人生を祝福しているような気分になった。
お腹いっぱいになって眠りにつくときにもまだ、僕らの頭の中は食べ物の甘みで満たされていた。
買い物に行く途中で、白鳥の群れが矢印の先みたいな形で飛び立ちながら、もといた場所に帰っていく姿を見送りもした。
「地上にいる僕らが、あんまり考えてもしょうがないのだろうけど、たぶん彼らは彼らで楽しそうだよね」僕は空高く飛ぶ白鳥を見て思った。
「白鳥が何を考えているかなんてさっぱりだけど、きっと楽しそう」君は否定せずに、肯定してくれた。
「ねえ、思うんだけどさ、カモメもよだかも、地上に僕たちみたいなファンがいるなんてことは全く知らなかっただろうね」僕は昔読んだことのある物語を思い出した。「カモメもよだかも、それぞれ何だか考えがあって、それでも最後は、他のことなんてお構いなしに飛んでいったんだし」
群れの後ろに、2羽の白鳥がのんびり飛んでいった。群れから置いてけぼりを食らったのかもしれない。
「ねえ聞いて、お節介って嫌い」君は言った。
「僕も好きではないかな」僕は半分同意した。「なんで人ってお節介したがるんだろうね」
僕は君みたいにその場で思いついたことを口にした。
「寂しいからに決まってるでしょ。あときっと誰よりも不安なのよ」君は、そんなことも知らないの? とでも言いたげに僕のほうを見た。
◇
窓の外には大きな雲が音もなく流れていった。
◇
この頃の日差しを、僕はいまでもよく思い出す。
外はまだ春にはなりきれず、冬のままだったけれど、透明だった日差しと空気が少しずつ変わっていく様子は、自然と僕らの心を惹きつけた。そこにはまるで誰にも気づかれないようにどこかから何かを運んできて、こっそり明るい何かを混ぜ込もうとするような、そんな悪戯っぽさがあった。
ちょうど、ぐっすりと眠っている誰かのすぐ脇で、そっと小声で示し合わせて悪戯を仕掛けるような、そんな愛嬌と憎たらしさに似たものがある。
◇
ちなみに、その時の僕と君は何の気なしに、世界そのものに対して悪戯を試みた。できたてほやほやの、寝起きでぼんやりとした、誰にも手付かずの世界に対して。
うまく行ったのかは、もちろん僕には分からなかった。だってそもそも、僕には君の言う世界がなんなのかすら、よく分かっていなかったのだから。それでもひとまず、君は僕の隣でとても満足そうにしていた。
よくある共犯者の言い訳に聞こえるかもしれないけれど、一応、言い訳をしておきたい。
――僕はただ、君の言う通りにしただけだった。
◇
「ねえ、いいこと思いついた」
ある時、君は急に不敵な笑みを浮かべながら言った。
「何?」僕は洗練された紳士のように穏やかにコーヒーを啜っているところだった。
「世界をつくった神さまの真似をすればいいのよ。どうしてこんなことも思いつかなかったのかしら! ほら、早速やってみて」君は僕を急かした。「ほら、ほら!」
「いや、無理だよ」僕はコーヒーをテーブルに置きながら否定した。「僕は神さまじゃないし、真似をするって言われたって、どうすればいいのか分からないよ」
僕が気のない返事をすると、君はむきになってテーブルに身を乗り出した。
「違うの違うの! そんなこと自分にできると思っているわけ?」君は僕のことを完全に小馬鹿にしたような顔をして、にやにや笑っていた。
「違うの? じゃあ何さ?」僕は仕方なく確認した。
「神さまってなんでもできるんでしょ?」君は再び僕に確認した。前に何度も聞かれた質問だ。
「そうだよ。なんでもできないとすれば、きっとその存在は、割と何でもできる優秀なおじさん、くらいになっちゃうだろうしね」そう言いながら僕は、何でもできるとても優秀なおじさんを想像してみた。人好きのする笑顔でとてもフレンドリーで、とても信頼できそうだった。
なにか困ったことがあったら、いつでも頼ってくれよ。その人は優しい声で言う。
絶対その人は良い人だ、と僕は勝手に思った。
「なんでもできるとするならよ」君は再び確認した。
「できるとするなら?」僕は聞いた。
「それなら、いま、ここで、神さまがわたしたちの真似をしてくれればいいのよ」君は高らかにそう言った。
◇
何回聞いてもよく分からなかったので、僕は渋々君に従うことにした。
君に言われて、僕は仕方なく、僕の真似をしている神さまの真似をすることになった。もともと訳が分からないのに、さらに自分が誰なのか分からなくなりそうだった。
それに、普段から世の中の訳の分からなさや理不尽さの理由を押し付けられて片棒を担がされてたうえに、遠くに追いやられている神さまにしてみれば、はた迷惑な話かもしれない。
僕はそんな神さまに申し訳ないと思いつつ、神さまが誰かの真似をしている姿を想像した。それは不思議と、できない想像ではなかった。
どこかの誰かのことを考えるくらいには簡単だった。
そして、なんと言うか、その神さまは暇を持て余しているようにも見えた。
◇
「ねえ、目の前に世界はある? あと、目を閉じたほうがそれっぽくない?」君は僕に要求した。
「あるよ。見えてる。自分がつくった世界が」僕は目を閉じながら適当に答えた。壮大な一人二役、壮大な自作自演だった。世界をつくった神さまが僕の真似をしていて、その僕が世界をつくった神さまの真似をしていた。
「世界になんか言ってあげて」君は要求した。
「何を?」僕は聞き返した。
「なんでもよ」君は断固とした口調で答えた。
それから、僕は少し考えてから言った。
「こんにちは、世界。正直に言うと、自分でどうつくったのかも覚えていないけど、どうして僕が君の内側にいるのかも分からないけど、まあ、とにかく、生まれてきてくれてありがとう」
なんというか、神さま以外に他の誰も言わなそうなことだったけれど、神さまならそういう事を言うと思ったので、僕は一応そう言ってみた。
もしも世界に対して、誰もそう言っていないのだとしたら、僕くらいは言ってあげてもいいような気がした。
◇
「ちゃんと全部ある?」君はしつこく確認した。
「ちゃんと全部あるよ」僕は返した。
君は安心したようにため息を漏らした。
「いいことも悪いことも、あることもないことも、意味のあることも意味の無いことも、僕らの思いつくことも考えも及ばないことも、すべてある」僕は君に伝えた。
君は黙って聞いていた。僕は調子が出てきたので、そのまま続けた。
「いついかなるときも、寝ても醒めてもずっと君のそばにいてやろう。それは結構です、遠慮しますと言うなら、まあ、いいけども……」
「でも、これだけは言わせてほしい、自分で言うのも何だけど……君の中には、みんなから好かれたり、尊ばれたり、欲しがられたりするようなこともたくさんあるし、みんなから嫌われたり、厭われたり、遠ざけられたりするようなこともたくさんあるけど、僕はそんなすべてを抱えている世界そのものを嫌いになんてならないから、安心してほしい」
僕はひとまず言い終えた。自分でも何を言っているのかよく分からなかったけれど、こんなもんだろうと思った。
それから僕は目を開けると、カップをつかみ、コーヒーを一口飲んだ。
「どうかな?」僕は君に確認した。君と付き合っているうちに適当なこともすらすら言えるようになってきた。もちろん、それが人として良いことなのか悪いことなのかは知らないけども。
テーブルの差し向かいに座る君は、頬杖をつきながら満足気に笑っていた。
それから言った。
「ねえ神さま、わたしの見ている世界も見てくれる?」
「もちろん」僕は答えた。
◇
ここで、神さま的な忠告。
世界のすべてを見届けることになった僕らは、そのあまりの物事の多さに圧倒されて、言葉を失ってしまう。好きなことも嫌いなことも、どちらでもないことも、数え切れないくらいたくさん。たくさんあり過ぎる。それはもう、心がいくつあっても足りないくらい。
それでも僕らは、ありとあらゆることを考える。ずっと考え続ける。これまで失われてきたものすべてについても考える。どこかの誰かを思うくらい大切に。
◇
君はテーブルの向かい側にいた。一度目を閉じ、それからゆっくりと瞼を開くと、静かに語り始めた。
実際、僕はこれまでにも何度か、君は何者なのか聞いたことがある。
しかし、普段は「わたしも知らないわ」の一言で片付けられてしまっていた。話はそれっきり、別の方向に流れていった。
そのときは珍しく、君から真剣に、長々と話を聞かせてもらった。
あるいは、僕らはこうやって出会っていたのかもしれない。そんな内容の話だった。君の言い分はこうだった。
実はある時、君は事故に遭うように死んでしまうところだったらしい。そこで君は自分の境遇が不幸の一言で片付けられるのを心底嫌いながら、自分が出会うはずだった運命の人のことをぼんやりと考えていた。ひと目でも会ってみることができたなら、その人がどんな風に世界を眺めているのかを知れたなら、そんな思いが幾重にも重なり、是非その人のことを見てみたい、君は強くそう願ったそうだ。
常識的に人並みに主人公を満喫していた君は、あらゆる世界を飛び越えて、その人のもとに辿り着いた。なかなかロマンチックな展開だ。
気がつくと、君は誰かの中にいた。そこから世界を眺めていた。
「あらららら?」君は思った。「なんじゃこりゃ」
君が面食らっていると、誰かの声がした。
「すみません、え? どういうこと?」そう、そいつが僕だ。
会いたいと思っていたその人と、普通に会って軽く挨拶したかっただけなのに、君は前のめりに転ぶみたいに、勢い余ってその人の内側に飛び込んでしまっていた。
転生やらワープやらを、鮮やかに軽やかに失敗した君は、それから仕方なく僕と過ごすことになったそうだ。
「ちょっと待って、僕らってもしかして、いま、すごく馬鹿みたいな状況になってない?」多少の落ち着きを取り戻した僕は言う。
「そうよ、ほんと馬鹿みたい。え? どうしたらいいの?」君は自分で事を仕出かしておきながら、呆れたように言った。
僕らは二人とも訳も分からず慌てふためいて、右往左往する。
運命の人は、君の予想に反して、ハンサムでもなければ、頭が良いわけでもなく、部屋でごろごろしてばかりで、ろくでもない変なやつだったらしい。
「ちょっと! 君はそうやってさあ、よくもまあ人のことを遠慮もなくずけずけと否定してくれるよね……」僕は呆れて言う。
元来前向きだった君はすぐに気を取り直して、運命の人に命令した。
「ねえ、そんなのどうだっていいから、わたしに世界のすべてを見せてくれない?」
君はそこで語り終えた。
◇
「ねえ、神さまってなんでもできるんだよね?」今度は僕が確認する番だった。
「そうよ。便利すぎるくらい便利なの」君は言った。
「ちょっと、それだと、なんでもやり過ぎなんじゃないかな」僕は思ったことを正直に言った。
「ほんと、やり過ぎよ」君は同意した。
◇
僕は話を聞きながら思った。ここまで人の暇に付き合ってくれる神さまって絶対にいいやつだ、と。
誰かの暇にとことん付き合ってくれる存在なんて、他には、なかなかいないんじゃないかと思う。
◇
自分の来歴を話し終えた君は、メランコリックなため息をついた。それは僕がこれまで聞いたこともないくらい、嘘っぽいため息だった。
もちろん既に君と長い付き合いだった僕は、すぐに君の話を疑わしく思い、一応確認した。
「ねえ、これっていまさっき、適当に思いついた話でしょ?」
君は考え事に忙しい猫みたいにとぼけた顔をしながら、僕の話をスルーした。
「知らない。話はもう終わりよ。これ以上は、わたしに聞かないでちょうだい」
しばらくすると、君はいつものように僕に答えた。
でも、否定できない部分は確かにあった。
まあ何がどうあれ、とにかく生まれてこのかた、僕は君と一緒にいたような気がした。そして僕は君で、君は僕だった。
そして僕にとって、君の要求は世界そのものでもあった。
◇
僕らは再び夜中に出歩いていた。だらだらと日々を過ごしているうちに、なんとなく怖いものがなくなってきたように感じた僕らは、肝試しをすることにした。
街外れの少し小高い丘を登ったところに霊園があった。そこはなかなか遠くて、僕らが住んでいた台地から続く坂道を一旦降りて、再び丘を登ることになった。
後で知ったのだけれど、そこらへんの地域には、大蛇がうずくまってそのまま小高い丘のようになったという大昔の逸話があるらしかった。
そんな曰くつきの場所で、人魂の1つや2つでも遭遇しないかと思いながら、僕らは歩いた。
真っ暗な道をひたすらに進みながら、僕らは緩やかな傾斜を登り続けることになった。平坦な道を歩くよりも大変だったけれど、動かす脚は何かに寄りかかるように、自然と前のめりに力が入った。
春に近づいているはずなのに、夜の冷え込みはいまだに強烈だった。なだらかな傾斜は、途中から急になった。
霊園に続く道は真っ暗だったけれど、道を歩きながらずっと何かの気配や視線のようなものを感じた。
「暗闇には何かいるわ。ずっと何かに見られているような気がするもの」君は言った。
「動物かなんかがこっちを見ているんだろうね」僕は言った。
坂を登り切ると霊園に辿り着いた。
気がつくと僕らは斜面の頂上に立っていた。巨大なお皿の縁から中を覗き込むみたいに、墓地の全体を見下ろしていた。道すがら抱いていた予想を裏切るほどの、とても広い墓地だったので僕は驚いた。
お皿の内側の斜面には、所狭しと墓石が並べられていて、まるで未来都市のような異様な景色に見えた。お皿の中央にはドーナツの穴のように丸い池があった。
試しに時間を掛けてぐるっと斜面の頂上を一周してみたけれど、幽霊らしいものは見当たらなかった。
歩き疲れた僕らは、誰かのお墓に腰掛けながら休憩した。誰にもおすすめはしないけれど、石が磨き込まれているおかげか、座り心地は意外に良かったことを覚えている。
「ねえ、もしかしてお墓って、きちんと埋葬されているわけだから、幽霊がわざわざ出てくる目的もないんじゃないかな?」僕は歩きながら思っていたことを言った。
「でも、目的もなく出てくる幽霊のほうが、きっと意味が分からなくて怖いわ」君は言った。
「確かに、そうかもしれない」そう言われて僕は納得した。
◇
しばらくすると、東の空が白んできた。随分と日が昇るのが早くなってきているみたいだった。
「ねえ、聞いて」君は言った。
「何?」
「わたしね、もしかしたら、すごく暇な人が好きなのかもしれない。あと、偉い人よりは、歴史に名前を残さないような人も好き」
「それって僕のこと?」僕はそんな気がして聞いた。
「さあ?」君は答えてくれなかった。
「僕も好きだよ。どこかの誰かとか、お互いにわざわざ会いに行くほどの目的もない人たちとか。分かるかな、そんな人たちと僕は、互いにとことん平和でいられるし、それを実感もしているんだ」
◇
話したり考え事をしたりしているうちに、空がどんどんと、誰かが前もって頭の中で思い描いていたみたいに、本当に綺麗に順調に青白くなってきていた。空気が透き通った、晴れた一日になりそうな予感がした。
カラスたちが、何かの合図を受け取ったみたいに、慌ただしく飛び回りはじめていた。
僕は墓石に腰掛けながら、そろそろ帰ろうかと考えていた。肝試しの用事は済んだはずだ。
君は立ち上がり、再びお皿の斜面を見渡すと、再びぶらぶらと歩き回っていた。僕らの息はまだ白く、冷たかった。
周囲の木々の上から日差しが顔を出してきたみたいだった。うっすらとした光が、朝の透明な空気を通り抜けながら斜面全体を明るく照らしていた。
「ひゃあ!!」君は突然、悲鳴のような感嘆の声をあげた。それから僕の方を振り向くと、必死に手招きした。
僕は君の隣まで歩き、君が指差すほうを眺めた。
その瞬間、朝の日差しを受けた数え切れない数の墓石が一斉に、僕らに向かってギラギラと満遍なく光を反射した。
それは、磨かれた石はこんなに光り輝くのか、と度肝を抜かれるくらいの、ちょっとした光景だった。それこそ、石が自ら全力で明るい光を放っているんじゃないか、と思えるくらいピカピカと輝いていた。
僕らは霊園全体が鏡のように金色の光を反射している光景に見入ってしまった。眩しくても構わなかった。
それは誰の仕業かもわからない、神々しい景色だったと言ってもいいかもしれない。
隣にいた君は、目を大きく見開いて瞬きもせずに景色を見渡していた。目の奥にすべてを焼き付けようとするみたいに、君の目は景色に反射された光をさらに反射しながら、きらきらと輝いて見えた。僕はそれを素直に美しいと思った。君の目から世界を見たらどんな風に見えるのか、そんなことを考えた。そしてなぜか、胸がぎゅっと絞られるような愛おしさを感じた。
その時の神さまは、自分でつくった世界を眺めながら、自分で感動していた。
しばらく呆然と景色を眺めていると、光は徐々におさまっていった。日が程よく差し込む時間はほんの少しの間だけみたいだった。
落ち着いてあたりを見回すと、ちらほらとお墓の間を通る人影があった。早朝に活動する幽霊を発見したわけではなかった。よく見ると犬の散歩をしている健康的なおじさんだった。
帰り道には何人かランニングをしている人も見かけた。霊園は、近所の人には程よい散歩道として活用されているみたいだった。
◇
部屋に戻ると、僕は濃いめのコーヒーを入れて飲んだ。
コーヒー豆は残り少なかったので、袋を逆さまにしてすべて使い切った。コーヒーと一緒に、割引で買ったバナナチップスも用意した。僕は夜の名残を感じていたかったので、カーテンは閉め切ったままにしておいた。
僕らはテーブルにつくと、いつものように、しばらくぼんやりしていた。
「ねえ聞いて、なんだかね、ちっとも寂しくないのよ」君は感慨深げに言った。
「え? どういうこと?」僕は聞き返した。
「ねえ、いま寂しい?」君はさらに聞き返した。
「いや、僕も寂しくはないね」僕は率直に言った。
君は椅子に座り直した。それから僕に向き直った。
「ねえ、わたしのこと知ってる?」君は突然、僕にそう尋ねた。
「知ってるよ。僕の友達でしょ?」僕はすぐに言い返した。
「えーそうなの? 困るわ」君は企むように笑いながら言った。
「違うとしても、僕がそう思うなら、それでいいんじゃないかな」
僕はコーヒーを一口飲み込んだ。豆の量が多かったせいか、やけに苦く感じた。
薄暗い部屋の中で僕らはいつものようにのんびりしていた。
「わたしはわたしの友達にはなれない」君は突然、呪文を唱えるように言った。
「何それ?」僕は気になって聞いた。
「知らないわ。いま思いついただけ」君はなんでもないように言った。
「僕は僕の友達にはなれない」僕も君の真似をして言ってみた。そして思った。「そうなのかな?」
「きっとそうよ」君はそう言った。
「僕は僕のことを何も知らない」僕は応用して言ってみた。少し哲学的に響いてカッコいいと思った。「君は君の友達にはなれない。みんなはみんなのことを何も知らない」
「不思議だけど、そう言ってしまうと、なんかだやっぱり寂しいわ」君は思い返すように言った。
「でも、君といると安心するよ」僕は正直に言った。「僕ら、ずっと一緒にいられるかな?」
「もちろん。わたしは年を取らないもの」君は平然と言った。
「僕は年を取るよ」僕は言った。
「そりゃそうよ、生きてるもの」
「君も生きてるよ」僕がそう言うと、君は静かに頷いた。
「あなたが生きている限りね」君はそう言って、暗がりの中で微笑んだ。
僕はバナナチップスを摘んで囓ってみたけれど、暗がりで食べたせいか妙に甘くて、何とも言いようのない悲しい気持ちになった。
◇
コーヒーを飲み終えると、僕らはいつものように布団にくるまった。
気温も以前に比べて高くなっていたし、コーヒーも飲んだばかりだったけれど、墓地から帰ってきた僕の指先と足先はまだどことなく冷えていた。
僕が布団にくるまって自分の体温の温かみを感じていると、君は自分の布団には入らずに、僕の布団のほうに潜り込んできた。
「ねえ、ちょっと抱きしめて」君はぼそっと言った。
「いいよ」僕は断る理由もなかったので、そう言った。
思い返してみると、君を抱きしめてみたのはその時が初めてだったかもしれない。
布団の暗闇の中で君を抱きしめてみると、どこかの誰かが延々と書き綴った思い出みたいな厚みを感じた。そしてどこかの誰かの思いつきみたいに温かみがあった。
そのまま僕は君について考えた。そのときの僕は、君のどんな例え話も、とりあえずぜんぶ信じてやってもいいような気がした。笑っちゃうくらい当てずっぽうなことばかりだったけれど。
それから僕はうとうとしながら、君のことを少し知った。
君が本当は誰よりも泣き虫なこと、世界中の誰よりも世界に恋をしていること、他の誰よりも色んなことに、愛おしいくらいに驚いていること。
なあんだ、最初からこうしていれば安心できて良かったのかな、なんて思いながら僕は眠りに落ちた。
それは深い、安らかな眠りだった。死ぬよりも安らかな普通の眠りだった。
◇
目が覚めると、僕はひとりぼっちになっていた。そして、ひとりぼっちでも、大丈夫だった。
◇
それから僕はどうしたか。
結局、特別には、どうもしなかった。
いままで通りに、ぼんやりとベッドに寝そべって考え事をしていた。
◇
僕は何度も、謎の指輪を眺めた。指輪はまだちゃんと自分のコートのポケットに入っていた。あいかわらず本物なのか偽物なのかも分からないし、自分自身の存在と同じくらい、いつどうやって手に入れたのか分からない、曰く付きの指輪だ。
指輪の石のきらきら反射する光を眺めながら、君の言った神さまについても思い出していた。
僕らの真似をするような、予定も用事もない、暇な神さまについて。
――もちろん、既にある色んなあれこれを否定したいわけでもないんだけど。
僕はいつもそう思いながら、神さまについて考える。
それから僕は指輪を見つめながら、呪文のように繰り返し考えた。
たとえ覗いたレンズの向こう側に、肯定的なことが書かれてあっても、否定的なことが書かれてあっても、そんなことはどうだっていいや、と僕は思う。
覗いてみれただけで、十分じゃないか、とも思う。
なにはなくとも、生まれてはじめて僕は君に出会った。僕は君で、君は僕で。
お互いに真似をするように生きてみた。それで十分じゃないか、とも思う。
長大な不在と不在の間に挟まれた、僕と世界による、この謎の時間。
あいかわらず、それが一体何なのかは、分からないままだけれど――。
いずれにせよ、世界がとことん孤独を感じているなら、僕は神さまの代わりに、あるいは僕と神さまでお互いに真似をしながら力を合わせて、何度だって言ってやろうと思う。
生まれてきてくれてありがとう。
世界よ 世界
世界よ 世界
もしも君が泣くならば。
◇
それから暇を持て余していた僕は、忘れ物を取りに戻るみたいに再び学校に通いはじめ、人より長い時間をかけて、自分でも驚くくらい賢くなって卒業した。
実際のところは誰にも分からないけれど、僕はそう思い込むことにした。
僕の得意なことではないけど、人は何かを思い込むことで、色んなことを楽にやり過ごすことができる。大したもんだ。
もちろん長い時間を費やしたおかげで、現実的に金銭的に、僕はけっこうな額の負債を抱えることになった。それに関しては、ずいぶんと頭を悩ませていたけれど、幸いなことに、後に就職した会社の先輩に素晴らしい名言を授かった。
「借金があるのは素晴らしいことだ。社会と自分が時空を超えて、確かにつながっている証拠でもある。それはもはや、おれの生きがいだ」
その言葉が身に沁みた僕は、それ最高ですね、と手放しで称賛した。
僕とその先輩は、両目にうっすらと涙をたたえながら、何度も頷き合った。
◇
久しぶりに世の中に出てみると、色んな人とすれ違い、色んな人に出会った。
その度に、あいかわらず、世の中にとって自分はいてもいなくてもいいんじゃないか、とは思えてきた。それは紛れもなく、実際にそうだからなのかもしれない。
それでも僕は、天気の話とか、挨拶とか、当たりさわりのない話を楽しんだ。ずっと人と会っていなくて、寂しかっただけかもしれないけれど。それでも、他の人は割と快く返事をしてくれた。
思えば、常識的なやり取りも、先人たちが怖い思いをしたり、恥ずかしい思いをしたり、時には痛い目を見ながらも、色んなすれ違いを経て、やっと絞り出して見つけてきた知恵なのかもしれない。ごく単純に、そういう見方もできる。
僕らはそれを使わせてもらいながら、実際のところ自分が誰なのかも知らず、相手が誰なのかも知らないまま、それなりにスムーズなやり取りができている。それはもう、結構当てずっぽうで笑っちゃうくらい。
◇
君がいなくとも、色んな不思議な感覚は、僕の中でずっと続いている。
例えば、いま目にしているのはヘリコプターで上空から映し出されたビルが立ち並ぶ景色。通勤時間帯の大勢でごったがえす駅の人混み。
僕らはそこに抽象的な社会というものを重ね合わせてみる。そうしているうちに社会があるような気がしてくる。
社会そのものは、影も形もないものだけれど、僕らはそれを大事に思う。
◇
自分が世の中に関係がないという事実と向き合うのと同じくらい、別のことも考えている。
ちょうど君が最初に言ってくれたみたいに、その挨拶を真似するように、誰かに対して何度も口にしてみた。もちろん直接言うのは恥ずかしいので、心の中で思うことのほうが多かったけれど。
他の国の言葉ではどう言うのかは知らないけれど、ひとまず、僕は自分の言葉で、未来も過去も気にせずに、こう思う。
「奇遇ですね」
◇
学校を卒業して、それから就職をして会社に勤めた。
はじめて自分の給与明細を見て、色々と謎に差し引かれるその額の大きさに驚いた。そこに支配者の影を感じながら、思わず深いため息が出た。それは、誰にでも自慢できるくらい正真正銘の大人のため息だったと思う。
「まあ、仕方ない。暇だから付き合ってあげよう」精一杯の負け惜しみにしか聞こえないようなそんなことを思っていると、なんだか無性にお酒が飲みたくなった。
そこで僕は、とことん苦くて少し甘い味のするビールを買って飲んだ。鯨みたいに大量に飲めるわけではないけれど、それから、苦甘いビールは僕のお気に入りになった。仕事で疲れ切っているようなときには、炭酸の泡がシュワシュワとあがっていく様子をぼーっと眺めたりもした。
◇
窓の外を大きな雲が音もなく流れていった。
◇
しばらく日々を過ごして、好きな人にも出会った。
その人もたまに、子供みたいに驚いたような目で世の中を眺めていたりする。驚きながら愛おしいものを見るような目で世の中を眺める。
その人のそんな眼差しに出会って、僕はなんだか心底安心したような気持ちになれた。
◇
後々になって気がついたことだけれど、君と過ごしている間に、それまで考えてもみなかった色んなことに気がついたように思う。僕はそれを、何年もかけてコツコツと切り崩しながら、分かってきたような気がする。
色々あるけれど、一番はやっぱり、世界にはなんでもあるということ。
僕らは思いつく限りのものを、自分のものとして大事に秘めていられる。
思いつかないものだって何でもある。
この世界には誰かを放っておく優しさだって、敵を必要としない平和だって、けっして笑顔で表されることのない幸せだって、あるということ。
◇
そしていま僕は、病院の待合室で長々と待たされていた。
その間、なんとなく、どこかの誰かが作った、嬉し泣きの歌を思い出していて、僕の頭の中で流れていた。
それから僕は急に、何の脈絡もなく、君のことを思い出した。実際のきっかけはよく分からない。
君にまたばったり出くわさないか、そんな予感もした。
あいかわらず僕は君で、君は僕なのかもしれない。それは僕の単なる思いつきかもしれない。それを心と呼んでみているだけかもしれない。
けれどそれでも僕は全然構わない。自分の中にいくつ心があったってかまわない。心なんて、あるだけぜんぶ詰め込めるだけ詰め込んでみてほしいくらい。
なにはなくとも、今度も君は不敵な満遍の笑みで、いまの僕を迎え入れてくれるだろうか。
僕らはその時も、笑っちゃうくらい当てずっぽうな事ばかり考えて、ちょっぴり悲しくなるくらい、どこへだって行けるだろう。そうできるように、僕はいつだって準備をしてきたつもりでいる。いつも君に急かされているような気分で。
とにかく、僕が君に言うべきことはひとつしか思いつかない。
「ねえ、今日はどこへ行こうか」
#かわいい僕ら今日はどこへ行こうか ヒサノ @saku_hisano
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます