5.外側の話




 あいかわらず、いいのか悪いのかは分からなかったけれど、僕らの快適で無気力な日々は続いた。


 早朝に目覚めていた僕らは、魚の話をしていた。


 カーテンの隙間からは朝のぼんやりとした柔らかな光が漏れていた。


 魚がたくさん泳いでいるところを見たい、と君は言った。



 僕も君の要望には賛同したものの、僕らの近くに水族館はなかった。電車かバスに乗って海辺の水族館まで行くしかない。


 僕はテーブルを人差し指でトントンと叩きながら、ぼんやりと魚を見ることができそうなところを考えていた。そうして思い出した。この部屋に引っ越してくる時に、国道沿いに熱帯魚を売っている大きなペットショップの建物があった気がした。その話を君にした。


「そこよ!」君は、僕が詳しく説明する間もなく、すでに行く気満々だった。


 駅よりもさらに遠かったけれど、思い立ったが吉日ということで、すぐに準備をして外に出た。外套を着る動作も段々と手慣れてきていた。君はダッフルコートを着込んで、手早くマフラーをぐるぐると首に巻きつけていた。


 

 外は曇り空で、日差しに眩しさは感じなかったものの、木枯らしが吹いていて、空気は冷たかった。頬がチクチクと見えない針に刺されているような冷たさだった。結局僕らは目を細めながら、黙々と歩いた。


 目的地に早く到着することばかり考えてしまったせいで、道のりがとても長く感じられた。僕は身を屈めながら、君と話していた。



「世界中の食べ物もぜんぶ食べてみたい」君は前を見ながら唐突に言った。


「もしかしてお腹減ってる?」僕は出発前に何を食べたか思い出そうとしたけれど、思い出せなかった。


「減ってないわよ」君は否定した。


「世界中のぜんぶの食べ物を食べるなら、美味しくないものも食べることにならない?」僕は味は考慮しないのかと疑問に思った。


「そうなるわね。あと、お腹を壊すことになるようなものも、きっと、たくさん食べることになるの」


「それなら、僕にはキツイなあ」


「でも、ビックリするくらい美味しいものもたくさんあるの。美味しくて身震いするくらい」君はお腹の上を軽く叩いた。


「うーん、いずれにせよ量を食べることになるなら、強靭な胃袋と腸が必要になるな」


「ねえ、熱帯魚って食べられるのかな?」君は素朴に聞いた。


「きっとお腹壊すよ」僕らの周りに食べている人の話を聞かないとすれば、きっとそういうことだろう。


「食べたことがある人はいると思う?」


「たぶん過去のどこかにはいるでしょう」僕は答えた。



 それから僕は、世界中の食べられそうなものを、ひとまず口の中に放り込み続けてきた人たちのことを考えた。すると、おのずと敬意が芽生えた。一般に言うところの、畏怖の念というやつだ。


 僕らの周りの食材の豊富さから推測するに、きっと、僕らの先人たちは食べてはいけないものまで豪勢に食べてきたわけだ。その都度、得体の知れない毒にあてられて、うめいたり、痺れたり、気を失ったり、幻覚を見たり。逆に元気になったり、驚くくらい長生きしたり。


 阿鼻叫喚に狂喜乱舞、そんなすったもんだは、グルメなんて一言では言い表せられないだろう。まるで誰かが思いついた壮大な試行錯誤に付き合わされる実験動物みたいな力強さと気概に満ち溢れている。


「おい坊主、大丈夫か? おれたちに付いてこられるか?」たくましく、遠い目をした一人が僕に向かって言う。背中で多くのことを語ってくれるタイプの人だ。


「いえ、遠慮しときます」僕は丁重に断る。頼もしい先人たちに感謝はしつつも、実際にわざわざ自分のお腹は壊したくはない。


 それでも、好むと好まざるとに関わらず、いつでもどこでも僕らのお腹は鳴り続ける。






        ◇






 くだくだとグルメの誕生について考えていたら、熱帯魚屋に到着した。


 店の中に入ると、暖房が効いていた。むしろ効きすぎていて暑いくらいだった。あとで知ったのは熱帯魚屋は魚のために室温を考えるから、厚着をしている冬は、必要以上に室温が高く感じるということだった。


 店内には、水族館みたいに、店の手前から奥まで、見渡す限り水槽が並べられていた。映画館のような暗さの中に、等間隔に水槽の濃い青色や黄緑色の明かりが、ひっそりと漏れ出て見える様はとても綺麗だった。秘密をちょっと教えてあげようか、とでも言いたげな密やかな明かりだった。


 僕らはコートの前を開けて、体の熱を逃しながら熱帯魚を眺めた。


 君はすでに水槽の前に身を屈めていて、じっくりと水槽の中の様子を観察していた。


 大きな水槽には大きな魚が、小さな水槽には小さな魚が泳いでいるみたいだった。



 僕ははじめに手前にあった大型の水槽の前を通り過ぎながら、眺めてみた。水族館に展示してありそうなくらいに大きな水槽だった。


 僕が水槽に近づいた瞬間、大きな斑模様のエイが反応して、水槽の底からばっと飛び上がるようにゆらゆらと泳ぎだした。僕のお腹よりも大きい姿と、模様の不気味さに、僕の背筋はぞくっとした。僕はエイのシルエットに圧倒されて、反射的に身を仰け反らせた。ガラス越しであるにも関わらず、そのまま襲われるような錯覚に陥った。そのエイには人を怖がらせる純粋な迫力があった。ありていに言ってしまえば、僕はちびりそうになった。足もちょっと震えたかもしれない。


 隣の水槽のピラルクやアロワナにそっと目を移しても、同じ感慨を持った。僕らとは別の生き物が、別の考えを持ちながら、水の中を揺らめくように動いていた。いつでも水の中からこちらの隙を伺っているように見えた。


 僕は目を離すことができなくなってしまった。ピラニアの歯を眺めても、その致命的な刺々しさに戦慄するだけだった。


 僕はそっと後ずさるように大きな水槽から離れることにした。






        ◇






 小さな水槽は、どれを眺めてみても穏やかな気持ちになった。水槽の中に森みたいに植えられた水草の中を、小魚の群れが鮮やかに泳ぎ回っていた。僕が近づくと、一匹が反応してくるりと泳ぐ向きを変えた。すると他の魚も一様に反応して、規則的かつ、どこか不規則に動き回った。そのたびに、キラキラ光る鱗がライトの光を眩しく反射していた。


 大きな水槽とは別の意味で、気持ちが吸い込まれそうになって離れられなくなりそうだった。注意を向けずにはいられなくなるくらい綺麗で、それでいてどこか秘密めいていた。


 君のほうを見ると、見飽きることがない、というように水槽の前に屈み込み、微動だにせず、水の中の様子を目で追っていた。コートの暑さも気にならないようだった。


 君の目の前を、青いような紫のような不思議な色合いの魚の群れが気まぐれに泳ぎ回っていた。その光を、見開いた君の目が反射していた。君の真剣な眼差しだった。


 僕も君の横に並んで小さな水槽を眺めた。


 ずっと見ていると透明なガラスなんてないような気がしてきた。魚たちが透明な空間に浮かんで、左右に泳いでいるように見えてくる。ガラスの一歩向こう側に、別の仕組みの世界があるようだった。


「大丈夫なのかな」君は水槽から目を離さずに呟いた。


「何が?」僕は聞き返した。


 君は僕の質問には答えずに、じっと黙っていた。






        ◇






「そろそろ出ようか」僕は体を起こしてから、提案した。長い間屈んでいると、どうしても体が強張ってくる。


 ずっと見ていても飽きなかったけれど、暖房も効いていて、着ているものも暑くて、僕はそろそろ外に出たかった。


 君は体を起こすと、名残惜しそうにしながら、僕の後についてきた。


 特に買うものもなかったので、店主の人に申し訳なく思いながらも、僕らはそのまま店を後にした。



 外に出ると、一気に寒さのなかに逆戻りした。風が吹くと枯れ草の匂いを感じると同時に、鼻の奥がツンとした。


 寒さに再び身を屈めながら、僕らはもと来た道を戻ることにした。


「水槽がたくさんあって、どれを見ていいのか分からなかった」僕は正直に感想を言った。


「うん」君は遠くを見つめたまま言った。


 僕らはしばらく黙って歩き続けた。風は来たときよりも穏やかになっていた。






        ◇






「そういえばさっき、なんか言ってなかったっけ?」僕は店内で君が何かを呟いていたことを思い出した。


「そうだっけ?」君は気がなさそうに言った。それから黙った。


 再び僕らは黙ったまま歩き続けた。それから君は思い出したように言った。


「なんかね、考えないようにしていたことを、考えちゃった」


「考えないように?」僕は気になったので君に聞いた。「何を?」


「水槽を見てたら思ったの。魚って自分たちの境遇について考えたりするのかなって」


 僕は歩き続けながら、ぼんやりと魚の境遇について考えてみた。


「そう言われてしまったら、魚が水槽の透明なガラスのことをどう思っているのか気になるね」


「魚のことは別にいいんだけど」君はあっさりと訂正した。


「そう? 人が魚に無自覚に残酷なことをしているとか、そういうことじゃなくて?」


「全然違う。だって想像してみて。ものすごーい深い深い海の底で、真っ暗で水圧も強くて、食べ物も全然ないところで気長に暮らしている魚の気持ちなんて、誰も知るよしもないわ」


 僕は海底のことを考えた。深くて、真っ暗で、うまく考えがまとまらなかった。何を考えても不正解な気がした。僕らが何を考えようとも、その魚は我関せずといった面持ちで、海の底を泳ぎ続ける。


「まあ、なんでもかんでも人に例えても、意味がないか」僕は考えるのを諦めて言った。


「そうよ。物好きな詩人にでもなりたいわけじゃないなら、放っておけばいいの、考えるのも無理だもの」


「でも、それが何で、考えないようにしていることなわけ?」僕は話が見えなくて聞いた。


 君は黙って首を横に振った。「もっと違うことよ。もっと広くて、でも、ものすごく狭いの」


「広くて狭い?」


「なんかね魚を見てたら、わたしも目に見えない透明なガラスに囲まれているような気分になったの。あんまり考えたくないけど」君はつまらない冗談でも言ったみたいに肩をすくめた。


「僕らが魚みたいにってこと?」


「そう」君の表情は吐き捨てられたガムみたいにげんなりしていた。くるくる気分が変わる人だな、と僕は思った。


 僕は不安になったので、空を見上げて周囲を見渡した。見た感じではガラスには囲まれていなかった。透明だから見えないだけかもしれない。


 しかしなんだか、そう考えてしまうとどこか息苦しいような気分になった。


「だって僕らには境遇があるし、それを知ってもいるよ」僕は自分が、毎日同じ部屋で寝て起きて、ご飯を食べる姿を想像した。それって境遇か? ガラス鉢のなかで口をパクパクさせている金魚と大差がないような気がしてくる。


「そう、それで何の問題もないわ。透明な水槽は見える?」


「見えないよ」僕は否定した。


「そりゃそうよ」君は嘲るように笑った。


「もしかして、からかってる?」僕はふと疑念を抱いた。


「さあ?」君はニヤニヤしながら答えなかった。「でも……」


「でも?」僕は君を待った。


 君は僕の目を見た。「もしも、そんなものがあるなら、外があるなら、出てみたいって思わない?」


 僕は透明なガラスの外側について考えてみた。


「そう言われたら、そうかもしれない」僕は同意した。僕は君が世界のすべてを欲しがっていることを知っていた。


「外があるなら、外がどうなっているのか知りたい」君はそう言いながら、訳も分からず、だんだんと落ち込んでいるように見えた。


「それなら、世界の端っこまで行かないと、透明なガラスには触れられないのかも」


 君はうなだれて黙っていた。それから珍しくため息をついた。


「それがどこなのかは知らないけど……」僕は続けた。


 君は顔を挙げて首を横に振った。一緒に髪の毛が左右に揺れた。


「その必要はないわ。外に出るなら、ここで十分よ」






        ◇






 君はその場で目を閉じた。目を閉じながら、そのまま歩いた。


「危ないよ?」僕には君の行動が不思議だった。


「いいから。引っ張って」君は手を差しだした。


 僕は仕方なく、君の手を取って誘導するように歩いた。


 君は口をへの字にして、なにかを吟味するみたいにトボトボと僕の斜め後ろをついてきた。なんだか誇らしげな表情にも見える。


「どう?」僕は気になって聞いた。「ガラスの外に出られそう?」


「ちょっと黙ってて」君は僕の質問を跳ねのけた。


 僕は黙って前を見ながら歩き続けた。冬の寒い曇り空と冷たいアスファルトの道が続いていた。


 うまく言えないけれど、その時の僕は君の手から、君がいつも感じている漠然とした不安をそのまま受け取ったような気がした。


「不安なんだよな。そりゃそうか」と思った。何がそうなのかは、はっきりとは分からなかったけれど。






        ◇






「ねえ」僕は言った。君のほうは振り返らずに。


「何?」手を引っ張られながら君は言った。


「目は閉じてる?」僕は確認した。


「何も見えないってことは、閉じてるってことよ?」君は冗長に答えた。


「僕も、君にひとつ秘密を教えてあげるよ」僕は言った。






        ◇






「誰にも言わないでね」僕は確認した。


「早く教えて。いますぐ世界中にバラしてあげる」君は目を瞑ったまま、間髪入れずにそう言うと鼻で笑った。


「まあいいけど」僕は他言に関しては諦めて言った。


 君は僕の横で黙って笑っているように感じた。君は握っていた手に少し力を込めた。僕もそっと握り返した。


「僕はね、いままで誰にも言ったこともないけど、物心ついたときからずっと、物語の主人公って大嫌いなんだ。いまも嫌い。あと、境遇ってのも、人生って言うのも嫌い」僕は言った。「だって考えてもみてよ、人って主人公になった途端、どんな状況からも逃げ出せなくなるんだよ? 何がしたいの? すごいよね、ただ単に無視して逃げればいいだけなのに」


 君は黙っていた。


「僕らはわざわざ好き好んで主人公になる必要なんて全然ないし。自分の境遇を飾り立てる算段をしたり、心の中で先の見えない葛藤をしたりする暇があるなら、とっとと逃げてさ、他にやることでもあるんじゃない? って僕はつい考えちゃうんだ」


 君は黙っていた。


「誰かに対していつも、何か楽しいことがないかと求めているくせに、色んな話を聞かせてもらいたいと思っているくせに、実際には、ほんと何にも共感できていなくて、たまに嫌になっちゃう。でもそれはぜんぶ自分の頭が悪いせいなのかなって思えてくる。僕の頭の中にはガラクタみたいな記憶しかなくてさ、自分の人生を語り尽くせるほどの言葉もないんだ。分かるかな?」


「ふーん」君は肯定でも否定でもない声を出した。


「のんびり生活しておいて言うのもなんだけどさ。悪いけど、正直に言うと僕は何かの主人公になりたいとは思っていない。本当にまったく思っていない。僕の頭は収まりの悪いものばかりで出来ていてさ、自分でもたまに嫌になるけど、それでも――」僕は続けた。


 僕は一度唾を飲み込んだ。君は続きを待ってくれていた。


「世界の中を文句を言いながら渡り歩くくらいなら、僕は目的もなくどこかの誰かのことを思いながら、ずっと自分の世界を作っていたい。どうしようもないガラクタと向き合っていたい。そしてそんなこと、誰にも伝わらなくたっていいやって思ってる。そうしていつか、サンタクロースが僕のもとに尋ねてきたら言ってあげるんだ。『どうぞお構いなく。それより、お手伝いしましょうか?』ってさ」


 君みたいに、僕は言った。君ではなく、僕は言った。


「だって、世界のすべてを見届けてみたいから」



 君は空手チョップをするみたいに、勢い良く繋いでいた手を振りほどいた。僕はビックリして君のほうを振り返った。



 君は嬉しそうに満遍の不敵な笑みを浮かべていた。僕の共犯者がそこにいた。

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