4.恐怖体験と戦利品
あれこれ考えているうちに、僕は自分の頭の中にある言葉に対して少し不満を持ちはじめた。自分で自分のこともろくに説明できないなんて、一体どういうつもりなんだ?
今でもたまに、どうしてこうも言葉と世の中は複雑にできているのか、と疑問に思う。
原始人みたいにあー、とか、おー、とか騒ぐだけなら、僕でも十分に楽しめる。
焚き火で採れたての木の実でも焼きながら、歌ったり踊ったりする。
そうやって真夏になったら暑さにうなだれて、真冬になったら寒さに凍える。
もちろん言葉を使って考え事をし始めてくれた人のおかげで、こうして僕も一人で考え事ができるわけだけれど、その人は何を思って言葉をそういう風に使おうと思ったのか、不思議と言えば不思議だった。
史上初めて自分の心を言葉で捉えてしまったその人は、一体何をしたかったのだろう?
――自分自身に対して何を伝えたかったのだろう?
僕はテーブルを離れると、いつものようにベッドに寝そべって考えた。大昔の誰かが発明してくれた言葉で考えた。
しかし、考え事の発明風景を想像しようとすると、僕は少し心細くなってしまった。自分が使っている言葉に、頼りなさを感じた。
なんと言っても、結局のところ、言葉は僕のものではなかったからだ。僕は長い長い年月をかけて人から人へ受け継がれてきたそれを、ちょこっと借りて、我が物顔で使っているに過ぎない。そいつはよそから拾ってきた猫みたいにそっけない。
しばらく考えを巡らせているうちに、考え事を発明した人はよほど思いつめていたのかな、なんて思えてきた。
もしも、最初のその人が言い表したかったことが、名付けたかった気持ちが、僕らで言うところの「孤独」だったとしたら、どうする?
そうなると、随分と切実な話になりそうだ。
その人もベッドに寝そべりながら天井を見つめていた。無論、洞窟の岩肌だったかもしれないけど。
その人は考える。自分の願いが何なのかを。
僕も一緒に考える。その人の願いが何なのかを。
なぜだか偶然いま世界の隅っこに佇んでいて、どんなに願っても驚くくらいに何ものでもなく、寝ても醒めても他の誰にもなれない自分がここにいることを――誰にも伝えられないこのことを――どうにかして他の人に伝えたかったのだとしたら?
どんなに自分が世界から孤立していても、それでも世界と一緒にいたいと願っていたのだとしたら? 世界の中に確かに自分がいるのだと思いたかったのだとしたら? すべてのものに自分が含まれている世界があると信じたかったのだとしたら?
その心はどこかに伝わったのかな? 誰かに届いたのかな? 僕も一緒に不安になりながら考える。
言葉のおかげで本のページのようにペラペラと語れるようになった僕という人生においても、そんな疑問は残り続ける。
その頃から長い長い年月が経ったいまでも、僕らはあいかわらずぶつぶつ考え事をしていて、頭の中で自分に語りかけていて、あいかわらず孤独なままでいる。そのあまりの変らなさに、少し笑っちゃうくらい。
「いまも何も変わってはいないよ」僕はその人に言いたいと思う。もちろん責めるためじゃなくて、励みになればいいと思って。同情にならない同情を込めて。史上初めて、訳も分からず一人称で物語ったその人に。
◇
僕がひとまず出した結論らしきものに、君は不服そうだった。僕の考えは、君の求めるところではなかったらしい。
「なんでもごちゃごちゃ言葉で考えるから、埒が明かないのよ」力強くそう言ったせいで、ビスケットの欠片が勢い良く喉につき刺さってむせた君は、急いでコーヒーを飲み込んだ。
僕は黙って、そんな君の生き生きとした姿を感心しながら眺めていた。
君は勢い良くコーヒーを飲み干すと、カリブの海賊の子分みたいに下品に唸った。
君の言い分はこうだった。
「いちいち一個一個考えなくたって、最初からぜんぶってことでいいでしょ?」文句ある? とでも言いたげに君は僕に尋ねた。
あるとかないとか、良いとか悪いとか、単純だとか矛盾だとか、意味だとか無意味だとか、一人だとか二人だとか、思いつくことも思いつかないことも、一緒くたに宣言してしまえばいいじゃないか、と。
神は言った。ぜんぶあれ。そしてぜんぶできた。
部屋で昼も夜も関係なくごろごろしていたせいで着実に曜日の感覚を失っていた僕は、それでもいいような気がした。たしかに、それなら一言で済む。
しかし、しばらく経ってから不意に思い返して、僕は疑問に思った。
「ぜんぶってどういうこと?」なんだか世界のどこかに「建設中」と印字された看板が、誰かに蹴飛ばされたまま放置されているような気がして君に聞いた。
「なにもないがある……」そう考えると僕の頭の中はぐるぐると回った。結局、自分が何を考えていたのかも忘れてしまった。
「さあ?」あいかわらず君にもよく分からないみたいだった。既に興味もなくしたみたいだった。
「わたしに聞かないでよ」
いつものように君は軽やかにそう言った。
◇
川沿いを歩いてから、暇を持て余していることを自覚しはじめた僕らは、再びどこかに行きたくなっていた。
君は引き続き夜の街を散策したいと言った。僕はそれに同意した。
そこで、僕らは前回と同様に、明るいうちに体を安めて英気を養うと、夕方頃におずおずと目を覚ました。
目的地というよりは、折り返し地点をぼんやりと定めると、僕らは厚着をして外に出た。
雲の多い日で、前回の僕らの散策を見届けてくれた月は雲の裏側に隠れてしまっていた。それでも、しばらく空を見上げていると、月はゆっくりと風に流れる雲の隙間から、大した主張もないまま顔を出した。
◇
僕らは街の中心に向かって歩いていた。真っ暗な川沿いの道に比べたら、繁華街の電飾の灯った看板はとても明るく、友好的だった。
僕らは今まで一度も足を踏み入れたことのない街の裏通りを散策していた。決して曲がったことのない道を進み、そこにもお店と人の行き来があることを確認した。飲食店から出てくる人たちは、どこか楽しげだった。
街の明かりを縫うように、僕らは裏通りを進み続けた。
しばらく進んだところで、君は「度胸を試す」とボソリと言ったきり、大通りから曲がると、どんどんと勇み足で小道を進んでいった。僕ははぐれないように、あわててついていった。そしてそのまま僕らは暗い路地の奥に入り込んでしまった。
気がつくと僕らは開けた場所に出ていて、目の前にはお城みたいに大きくておどろおどろしい雰囲気の建物が現れた。
よく見るとお城の正面には大きくトランプの絵柄が描かれていた。ひどく汚れていたけれど、うっすらとした明暗の中でも、はっきりと女王の憂鬱そうに虚空を見つめる顔が見えた。
建物の半分が鬱蒼とした蔦に覆われていて、長らくうち捨てられているうちに、人とは別の何かに支配されてしまったかのように見えた。そのまま暗い雰囲気の絵本の挿絵に出てきそうな景色だった。
僕らは繁華街をひょっこり抜け落ちて、場違いな場所に辿り着いてしまったようだった。
僕はその建物の放つ暗く威圧的な佇まいに、ぞっとして立ち止まった。そして生唾を飲み込んだ。もちろん、すぐに引き返して帰ろうかと思った。
隣を見ると、そこに君の姿はなかった。
君は僕のことは構わずに、僕よりもずっと前方を勇ましくずんずんと歩き続けていた。そのまま吸い込まれるように、建物のほうに消えていってしまった。
◇
誰かに話しかけたくなった僕は、周囲を見回したけれど、誰もいなかった。
君とはぐれてしまった僕は、その場に立ちすくんでいた。自分の吐き出す息だけが、やけに耳障りなくらいに頭の中で反響して、耳に響いた。
進むこともできず、かと言って、その場に取り残されたままでもいたくはなかった。
いち早く立ち去りたかったけれど、一度足を止めてしまった僕は足元に気怠い重さを感じたまま、自分から動くことができなくなってしまった。
どのくらい待たされたのかは分からなかった。ずっと昔に用済みになった建物は、社会の隅からずっと誰かを恨み続けているようにも見えた。近くを通りかかった人を誘い込んで生け捕りにしようとしているようにも見えた。
いずれにせよ、一刻も早く僕はその場を離れたかった。
野良猫でも野良ネズミでも、誰でもいいから通りかかってくれたら、それだけで心強く感じたはずだ。
しかし、待てど暮せど、君は戻ってこなかった。
人の往来も一切なかったにも関わらず、僕の体はずっと薄暗がりそのものにじりじりと押しつけられるような圧を感じていた。受け続けたいと思えるような、心地よい感触ではなかった。
さすがにお城みたいな建物を見続けるのもいたたまれなくなったので、少しでも明るい場所はないかと周囲を見回していると、急に誰かに背後から指で小突かれ、そして声がした。
「ねえ、聞いて」君の声はどんよりと落ち込んでいた。
当然、僕は飛び跳ねるように驚いて、身を守るように手を払い除けながら後ろを振り向いた。
「おかしいのよ、がらんとしていて、剥がれたタイルの破片が散らかっていて、誰もいないはずなのに、ずーっと誰かの気配がするの」そう言ながら、君は建物のほうをゆっくりと振り返った。
僕も君の視線を追うように建物を見上げていると、君は何の前触れもなく僕の脇をすり抜けて、恐怖に慄くように、きゃーと小声で呟きながら、全力で駆け出した。
◇
再び置いてけぼりを食らわされると直感した僕は、全力で君を追いかけた。立ち疲れて足がもつれるし、恐怖で体もこわばるし、入念に厚着もしているしで、走りづらくてどうしようもなかったけれど、とにかく僕は追いかけ続けた。
君はしばらく走ると急に飽きたのか、大通りの手前でピタリと止まった。それから息を整えるように、前を見つめながらゆっくりと歩き出した。僕は息も絶え絶え、やっとのことで君に追いついた。
急に走ったせいで、心臓が痛くてしょうがなかった。息を飲み込むようにしながら、僕も歩いた。喉の奥もひりひりと悲鳴をあげていたので、何度も唾を飲み込んで落ち着かせなければならなかった。自分の色んな馬鹿さ加減が身に沁みた。
「ねえ、見てこれ」君はそう言うと、横に並んだ僕に手のひらを開いて差し出した。
僕は驚かされると思い、反射的に身を仰け反らせた。
「そんなんじゃないわよ。見て、これよ」君は僕の前に手のひらを近づけた。見ると、君の手のひらに石ころみたいなものが乗っていた。よく見ると、それは指輪だった。
「中で拾ったんだけど、本物かしら?」
「いやあ、暗くてよく分からないけど」僕は指輪に顔を寄せて見ながら言った。「どうだろう、本物なら貴重品ってことになるし、たぶん、おもちゃじゃない?」
「ふーん? まあ、それでもいいわ。探索の戦利品として取っておく」君は指輪をコートのポケットに入れた。「勇気の証よ」
「大丈夫? それ、呪われてない?」僕は心配して言った。誰かが用意した何かの罠かもしれないと思った。
「どうせ、おもちゃなんでしょ? なら平気よ」そう言って君は呪いをはたき落とすみたいに、指輪をポケットの上からポンッと叩いた。
◇
いいのか悪いのか分からなかったけれど、僕らは少しずつ自分たちの生活に慣れていった。
あいかわらず二度寝はしていた。
まだ温もりの残る布団にくるまったときの、なにかを抱きしめるような、なにかに抱きしめられるような心地を肌身に感じる瞬間は、なんとも言えず愛おしかった。
再び深い眠りに落ちながら、心が溶け落ちるような心地すらした。
◇
僕はテーブルに両肘をつきながら君が拾ってきた指輪を眺めていた。見れば見るほど、おもちゃなのか何なのか分からなくなってきた。
指輪には丸い宝石がついていて、光にかざすと、雲が幾層にも重なり合うように、ぼんやりと色々な光を反射した。後になって調べてみたら、オパールみたいな石だということが分かった。あくまで本物だった場合、宝石ということになる。
金色の輪っかの部分には掘られたような文字もなく、もともと誰のものだったかの痕跡も見当たらなかった。本物の金だとしたら重いはずだと考えた僕は、何度も掌の上で指輪の重さを確認した。重さを確かめれば確かめるほど、重いのか軽いのかも分からなくなった。
そして、最大の謎。これをどうやって手に入れたのか、自分でも分からなかった。
そもそも、僕が見たお城の廃墟には入り口がなかったどころか、建物の手前には侵入防止のために、建設用の白い壁が張り巡らされていた。指輪そのものが廃墟に住み着いたカラスかなんかが持ち込んだものだったとしても、僕はというか、君はどうやってこれを持ち帰ってきたのかが分からない。
それでも、君に廃墟の中の様子を聞くと、実際に見たような気もするし、タイルを踏みつけた時のパキッと割れる不吉な音も聞いたような気がする。建物の中に充満していたカビや湿った苔のような匂いや、乾燥した粉っぽいコンクリートの匂いまで、自分の鼻先に終始纏わりついていたような気もする。
「どう?」君は誇らしげな表情で僕の手の先にある指輪を見つめていた。
「不思議だ」僕は呟いた。実際にそう思った。
「すごいでしょ」君はご満悦だった。
「ほんと気になるんだけど、君は一体どうやってこの指輪を手に入れたの?」僕は正直に君に聞いた。正直さは幼い頃からの僕の美徳だった。
「そのまんまよ。言ったじゃない、建物の中で拾ったって」
「秘密ってこと?」僕は納得できずに聞き返した。
「秘密になんてしてないわよ」君はムキになって眉をしかめた。
「うーん」僕は指輪を眺めながら唸った。石はキラキラと綺麗な光を反射し続けていた。
「どうだっていいじゃない、そんなことは、自分が何のために生きているのか世界中の人たちに面と向かって説明できるようになってから、わたしに聞いてちょうだい。そうしたら答えてあげる。ねえ、言える? 言ってごらん?」君は挑発的にそう言うと、得意げな表情でへらへら笑っていた。
「うーん」僕は唸った後に、何も言い返せずに黙った。僕がそんなことをしたら世界中から、おめでたい頭の持ち主だと思われるだけかもしれない。
君は指輪を僕の手から奪い去ると、ハンガーに掛けてあったコートのポケットに丁重に仕舞った。
「わたしの大事なお守りにする」君はそう言った。
◇
もう一つ気になったことがあった。
「ねえ、もしかして髪の毛伸びた?」僕は君に聞いた。前は短かった君の髪も、いまでは肩に掛かるくらいに伸びていた。
「そう?」君は気取った顔をすると、シャンプーの広告みたいに仰々しく左手で自分の髪の毛をかきあげて笑った。カッコつけたのかもしれなかったけれど、頭の上にアンテナを立てたみたいな寝癖がついていた。
「君も髪の毛が伸びるんだ」僕は感心して言った。心の中では、呪いの人形みたいだな、と思った。
「そう見えるなら、それでいいじゃない。気に食わないってこと?」
「いや、別にいいんだけど」僕は別に何かを否定したいわけではなかった。
大したもんだ、と褒めても文句を言われそうな気がした僕は、コーヒーを一口飲むと、窓のほうを見やった。
人って暇を持て余しすぎると馬鹿になるのかもしれないな、と僕は思った。
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