3.どうせ暇なんだから
君はしばらく考えてから答えた。もちろん考える振りをしていただけかもしれなかった。
「世界のすべてが欲しい」君は僕に真剣な顔を向けて言った。
「そう言われてもね」僕はどう返事をしたものか戸惑った。箱に詰めて渡せるなら、渡してあげてもいいとは思った。
「あたたかいところがいいな」君は頬杖をついて言った。
「外は冬なんだよね」僕も正直、再び寒さで体調不良を起こすのは懲り懲りだった。想像しただけで身震いがした。
「あたたかくて寒いところ」君は言った。
「それ考えて言ってる?」
「ねえ、それよりどうやったら世界を手に入れられると思う?」
「僕には分からないよ」
「いいから考えて」
なんと言うか、こいつはまともじゃないな、と僕は思った。
◇
しかし、君がまともじゃない、ということは、単に僕がまともじゃないということでしかなかった。
「えーとじゃあ、世界を少しでも手に入れるには、何をすればいいかな?」僕は仕方なく君の言うことを少し噛み砕いた。
「それより部屋の中で歌って踊らない? ほいほいほい」君は楽しそうに手拍子を打った。
僕は正しくため息をついた。まるで幼稚園児みたいだ、と思った。
実際僕は熱にうなされているときに、いっそのこと自分が幼稚園の頃からやり直せたらどんなにいいだろうか、とは考えていた。
「なんで、僕だけ一人で踊るのさ。どっか行こうよ。そうだ、どこかに行きながら考えよう」僕は提案した。それからテーブルから離れ、立ち上がった。立ち上がったものの、自分の太ももがとても重くて、少しよろけた。
君も通報を受けた消防士みたいに背筋を正して勢い良く立ち上がり、外出する準備を始めた。
僕らは寒さ対策のために、用心深く厚着をして準備を整えた。
そして、夜中に近かったけれど、そのまま玄関を飛び出した。
◇
外の空気は冷たく、あいかわらず澄んでいた。夜なので当然日差しは無く、眩しくはなかった。風もなく、厚着をしたおかげで寒さは感じなかった。僕の知らないところで、外ではいい天気が続いていたみたいだった。空気は乾燥していて、丸くて白い月がぽっかり浮かんでいた。
僕は部屋から離れながら、どこに行こうか考えた。
左右に分かれる道に突き当たると、僕らは駅に向かう道とは反対方向に進んだ。
僕らの住む部屋は、小高い台地のような場所にあり、長い坂を下ると、近くに大きな川があった。その川沿いの道を進んで、手短にぐるっと一周して戻ってくることにした。
体力的には大丈夫だろう、と考えた。
歩きながら何度か、自分の息の白さを確認した。はじめのうちは、コートの中がもこもこして気になったけれど、歩いているうちに徐々に馴染んできた。
夜中に近く、人通りはまったくなかった。周りの家々から漏れる明かりも少なく、中からの物音も全然なかった。ここらへんの人たちはもう寝てしまったのか、もしくは、よっぽど静かに暮らしているのか? と僕は疑問に思った。のんびりと間延びした間隔で並べられた街灯もどこか頼りなげに見えた。道を照らす仕事にこれと言ったやりがいも感じていなさそうだった。
僕はひとりぼっちにも感じたし、夜の道を独り占めしているようにも感じた。夜道をうろつく危険な人物が現れないか、ふと心配になったけれど、その人にとっては僕が危険そうな人として映るのだろうと思うと、どう挨拶していいのか分からなくなった。
「安心してくれ、こちらに敵意はない」僕は両手を挙げて説得する。
「ちょっと待て、そんなことをこっちが聞き分けるとでも思ってるのか? こっちはよお、敵意のある奴にも同じことを言われ続けてきたから、いつも油断できずに困ってるんだよ!」用心深い相手はそう言って僕を牽制する。
「たしかにそうかもしれない」僕は妙に納得して相手の忠告に感謝する。
僕らは疑心暗鬼の平行線を辿るように、緊張感を持って距離を保ち、相手の存在をピリピリと感じながら礼儀正しくすれ違うことになる。仲がいいのか悪いのか分からなくなってくる。
結局僕らは誰ともすれ違うことなく、住宅街を通り過ぎ、長い坂をせっせと下った。
街灯が減ると、あたりは急に真っ暗になった。どこからともなく青っぽい枯れ草の匂いが漂い、やけに鼻についた。僕らは月明かりを頼りに、川に掛かる橋を目指した。
「少し街から歩いただけで、こんなに暗くなるんだね」僕は夜の景色に感心して言った。
「お化けはいるかな」君は探し求めるように言った。
「いたらどうする?」僕は疑問を呈した。
◇
僕はお化けには会いたくなかった。その理由は2つ。小さい頃は怖かったからで、最近だと、どう声を掛けていいのか分からないからだった。
もしも橋の上に立ちすくむ、何もしてこない幽霊がいたら、きっと僕らはその幽霊の前を息を止めるような緊張感をもって通り過ぎることになる。
ちらりと幽霊の表情を伺い、なんだか思いつめているみたいな表情だけれど幽霊には幽霊の事情があるのかな? なんて考えてしまうと、夜中に出歩いている僕にも、同じかそれ以上に、大した事情もないので困ってしまう。
事情も目的もない僕を呪ったところで、大した満足感も得られず、こちらが所在なさそうな霊を除霊したところで、何の達成感もなく、そんな互いの境遇を理解した瞬間に、すごく気まずくなるかもしれない。抱き合えるなら、そのまま抱き合って慰め合いたくなるだろう。
僕らは互いの抱える不条理に同情するしかない。一緒にふわふわしながら考える。ほんと僕らって何してるんだろう?
それに比べたら、因果関係のはっきりした幽霊のほうは人間的で救いようがある。
「うらめしや」と叫んでいる幽霊がいたら、その気持ちの充実ぶりと、あまりにも人間的な心情に思わず僕は「なんかうらやましいな」と吐露してしまうだろう。
そうなってくると、自分のほうが幽霊らしい気がしてきて、自分で自分の足を踏みつけて転ぶような馬鹿さ加減に、とことん落ち込んでしまう。
だから幽霊なんていないほうがいい。いてもいいけど、人間より人間的な言動は控えてほしいと思っている。僕の名誉のために。
◇
橋の上にはオレンジ色の光を放つ大きな街灯が並んでいて、周辺を異様に明るく照らしていた。欄干の隙間から橋の下を覗き込んでみたけれど、暗くて川の流れはよく分からなかった。
「ねえ、こっから飛び降りたらどうなるかやってみて」君は橋の下を指差しながら嬉しそうに提案した。
「いやだよ」僕は拒否した。「僕は別に死にたいわけじゃない」
いましがた幽霊よりも幽霊らしい自分にコンプレックスを持った僕は、君の要求を厳しく跳ねのけた。
◇
橋を渡りきると、僕らは右に曲がり、川沿いの土手に続く細い道を歩いた。
周辺に街灯もなくなり、どこよりも暗く感じた。月の明るさのおかげだとは分かっていたけれど、それでも自分の周辺をぼんやりと少しだけ確認できることに、不思議な心地がした。
見上げてみると空のほうが明るかった。星が綺麗に広がっていた。ただ、立ち止まって空を見上げていると、夜空に自分の体温も吸い上げられているみたいで、すぐに寒くなってきた。
「ねえ」君は僕に話しかけたと思うと、急に怒った犬みたいに唸ったあとに、わーっと反対岸に向かって叫んだ。身体に振動を感じるくらいの、あまりにも大きな声だった。それから真っ暗な川の向こう側から反響した声が届いた。
僕は驚いてビクッとした。それから慌てて周辺を見渡した。何も見えなかったけれど、あたりに住宅も人の姿もなさそうだった。僕は言葉を失った。
君はもう一度、わーっと反対岸に向かって叫んだ。一瞬の間をおいて、反対岸からわーっと声が返ってきた。
「わたしの世界を返せー!」君は叫んだ。
わたしの世界を返せー! 向こうにも誰かいるみたいに遠い声が返ってきた。まるで川をはさんで互いに世界を取り合っているみたいに聞こえた。
「どうしたの? え、取られたの?」僕は一体何がどうなっているのか訳も分からず、君に聞いた。どうして急に叫ぶの?
「さあ、わたしに聞かないでよ」君は怒ったように返事をした。自分で言っときながら、なにも知らないみたいだった。
もう一度、君は叫んだ。わたしの世界を返して! 向こう岸からも同じ返事があった。
気がついたら君は泣き出していた。僕の隣で子供みたいに、むせぶような声を出して泣いていた。
僕はぎょっとしてしまい、どうしたらいいのか分からなくなった。
泣いているからには慰めたほうがいいのだろうけれど、慰め方も知らなかった。僕はただ君の泣いている声を、隣で聞いていることしかできなかった。
当然のことだけれど、実際問題、その時の僕は自分で自分のことが分からなすぎて、不安になっていた。
◇
「叫ぶのはもういいから行こう」しばらく待ってから、僕は君を催促して再び歩き出した。君は何ごとかを呻いた後に、ぐすぐすと鼻をすすりながら僕の後ろをついてきた。
「一体どうなってるんだ」僕は独り言のように呟いた。君の大声に驚きすぎて何と言っていいのか分からなかった。
「わたしに聞かないでよ」君は後ろから吐き捨てるように言った。
しばらく僕らは黙ったまま歩いた。見上げなくても星空が見えた。冷たく寂しい景色だったけれど寂しさは感じなかった。そして歩いているおかげで外は寒くても服の中は暖かかった。
「こんな近所の川でやまびこが聞こえるとは思わなかった。やまびこって山に登らなくても聞こえるのか」僕は呟くように話した。
「あたりまえじゃない」君は、そんなことも知らないの、と言いたげな声で答えた。
土手の道が終わると、僕らは別の大きな橋を渡り、別の坂を登って元の住宅地に戻ってきた。途中でヘッドライトで煌々と道を照らしている自動車が勢い良く走り過ぎた。人の気配が戻ってきたようだった。川沿いの暗闇を体験した後だと、街灯のある住宅地は異様に明るく感じられた。僕はこれが文明か、と感嘆した。たかだか近所を歩いてきただけだったけれど。
部屋に着いて、僕らはコートや厚着をしていた服を脱ぎ捨てると、すぐに布団にくるまって横になった。疲れていたのですぐに眠りに落ちた。久しぶりに夜の時間帯に眠りについた。
きちんと防寒していたけれど、手足はひんやりとしていて、布団の中でゆっくりと温かみが戻ってきた。その感触にどこか頼もしさを感じた。
◇
目が覚めると、壁にかかった小さな時計は10時半を指していた。その頃の僕にしては早起きだった。あんまり時間を気にして生活していたわけでもないので、もちろん正確なことは知らなかったけれど。
僕はコーヒーを入れると、朝食代わりにビスケットを囓った。いつか半分食べてそのまま放置していたものだったので、随分としけっていた。人生に疲れ果てたサラリーマンみたいな歯ごたえのない食感だった。鼻を近づけると、甘く平べったい匂いがした。
最高にしけった食感を味わいながら、僕は昨日の夜のことを思い返した。夜に近所を出歩いただけだったけれど、自分の中には、どこか言いようのない達成感があった。
しかし、それよりも僕には気になったことがあった。僕はテーブルの向かい側に座る君に聞いた。
「そういえば、なんで君って僕と話せるのかな?」僕は思ったことをそのまま伝えた。
「自分に聞いてみれば?」しかめっ面をしながらビスケットを噛んでいた君は言った。
「そりゃそうか」君にそう言われて僕は納得してしまった。
◇
僕は腕組みして考えた。自分が何を考えているのかについて、考えてみた。
髭もじゃの学者みたいな明晰で筋道立った結論は出なかったけれど、ひとまず、一人で考えているときも僕は頭の中で自分に向かってぶつぶつと独り言を言っているような気はしてきた。
「そうだと思うけどな」僕は思った。
「さあ、どうなんだろうね。それよりコーヒー冷めてない?」もう一人の自分は陽気な声で僕に向かって適当に答えた。
僕は、はたと気がついた。
「君ってもしかして、僕のでかい独り言?」僕は腕組みをほどいて、君に聞いてみた。
「そう言われると心外だわ」君は肩をすくめた。「それじゃあわたしが馬鹿みたいじゃない」
「でも実際……」僕は勝手に叫んだり泣き出したりする君のことを指摘しようと思ったけれど止めておいた。
僕らはテーブル越しに黙って向かい合っていた。
君は人差し指を唇に当てながら、考えているような素振りをした。それからたったいま思いついたみたいに言った。
「ねえ、あれよ、きっと心が2つあるのよ。それよ! それでいいじゃない」
「2つ?」僕は疑問に思った。
「だって、心はおひとりさま、おひとつまでです、なんて誰が決めたの? 特売品でもないのに」
「確かにそう言われたらそうかもしれないけど」僕は頭の中がこんがらがってきた。どう考えても屁理屈だし、心が2つあるとはどういう状態なのかがよく分からなかった。
「それって大丈夫なの?」僕はちょっと不安になった。
「わたしに聞かないでよ」君はすぐに突き放すように言った。
仕方なく僕は黙った。
君は眉間にしわを寄せながら、再び考えているような素振りをした。
「たぶん、大丈夫ではないんじゃない? そんなバカみたいなこと、いままで聞いたことある?」君は僕を嘲笑うように鼻で笑いながら、君自身の主張をあっさりと翻した。
「いやでもさ……」僕は腑に落ちなかった。それから君の姿を見た。
「でも、ご覧の通りよ」そう言って君は手品を披露したマジシャンみたいに、微笑みながらテーブルの上で両手をぱっと広げた。証明完了とでも言いたそうに。
種も仕掛けもないけれど、屁理屈だ、と僕は思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます