2.自分でもよく分からない




 はじめて君の姿を見たのは、僕がカフェでひとりコーヒーを飲んでいるときだった。


 思い返すと、僕はどんな状況でも、いつも致命的なくらいのんびりしていたような気がする。いつかそれが原因で命を落とすことになるかもしれないと考えると、たまに恐々とした気分になる。知らないうちに猛毒と殺意を持ち合わせた生き物に背後を取られても、一切気づくことなく、しょうもないことを考えながら、へらへら笑っていそうな気がする。


 自分が幸せでも不幸せでも一切関係がないように思えてくる痛烈な疎外感に直面していたその時も、生まれ持ったその緊張感のなさが浮き彫りになっていた。



「このブレンドの香りはいいよねえ」


 テーブルの向こう側から声がした。遠くの誰かの会話のような、距離のある声だった。そのコーヒーに対して同じようなことを考えていた僕は見つめていたカップから顔をあげて、テーブルの差し向かいを見た。




 黒いセーターを来た女の子だった。それが最初の君だった。




 家で飲む用のコーヒー豆を買い、店員さんからサービスのコーヒーまで受け取って、満足しきって椅子に腰掛けていた僕は、君が向かい側に座ったことに気づきもしなかった。


 そして目の前のコーヒーカップと君の姿を同時に目にしても、特に何とも思わなかった。


 君は男の子みたいな女の子みたいな男の子みたいな女の子に見えた。


 僕は失礼ながらに、これまたずいぶんと色気のない人だ、と思った。最初の印象はそれだけだった。


 だいぶ後になって気がついたけれど、君の目元には、僕から見て右下の目元にホクロがあった。それに気がついてからは、それが僕にとっての君の目印になった。


 君はにやにやしながら僕のほうを見て言った。


「奇遇ね」


 一瞬で全身に寒気が走り、居心地が悪くなった僕は、コーヒーの最後の一口を飲み終えると席を立ち、買ったコーヒー豆を抱えて外に出た。


 君は後からついてきていた。もしくは先回りしていたのかもしれない。


「もっと、なんか飲みたい」部屋に到着する手前で、君は僕の横に並んで言った。


「なにもないよ」僕は返した。


「コーヒーを飲む。その豆で」君は僕の抱えるコーヒー豆の入った袋を指差した。僕は反射的に抱えた袋を君から遠ざけた。


 君は遠慮もなくそのまま、ずかずかと部屋の中にまで上がり込んできた。






        ◇






 僕の部屋には取り立てて隠すようなものは何もなかった。不法所持のライフル銃も、手製の爆弾も、恥ずかしい過去を濃密に綴った日記も、呪いの言葉も、自分を鼓舞する個人的なスローガンもない。前の住人が残していった壁から突き出たフックには、5月のまま忘れ去られていたカレンダーと、文字盤が小さくて見辛い時計が一緒に吊るされている。


 部屋にあるものといえば、隅にベッドと、机代わりにもしているキッチンテーブルと、床の隅に所在なげに置かれた小さな本棚。


 部屋につくと、君はそそくさとベッドに近づき、そのままベッドに覆い被さるように倒れ込んだ。それから大きな動物をその上から優しく寝かしつけるみたいにベッドのシーツを優しく撫でた。気がつくと寝息も立てずに既に眠っていた。曲芸みたいな早業だな、と僕は思った。


 気の置けない仲のいい友達ってこんなものなのか、と思いながら僕は君の姿を見ていた。


 僕も眠気を感じ、セットで購入して以来持て余していた、おまけみたいに付いてきたもう1枚の掛け布団にくるまり、床の上で眠った。掛け布団はセール品だったのだけれど、どうして一人用の布団に同じものが二枚付いてきたのか、ずっとよく分からなかった。とにかく、そいつを活用した。




 そんな風にして僕はその日を境に、君と過ごしたり、過ごさなかったりするようになった。






        ◇






「ねえ、きいて聞いて」君は言った。


「もしもいつか、わたしが世界的な有名人になって、インタビューされて『日々生活をしていて、最も自分らしいなって思えるのはどんな時ですか?』って聞かれたらね、こう答えるの。『熟睡してるとき』って」


 そう言い終わると、君は満足そうにニヤリと笑った。






        ◇






 はじめはずっと君と一緒にいたわけではなかった。


 相変わらず僕はひとりで、一度目を覚ますと、やることも思いつかないので、再びそのまま二度目の眠りに落ちた。布団の温もりを感じるたびに何かに守られているような安心した心地がした。もちろんそれは、それまで布団の中にいた自分の体温でしかなかったけれど。


 早朝に活動していたこともよくあったけれど、それは決して、早起きだからではなかった。人は夜ふかしが行き過ぎると、まるで健康的で早起きな人のように、早朝に活動するようになる。朝を迎えると、そろそろ寝るかと思いはじめ、おずおずと眠る体勢に入る。


 いまになって思い出しても、その頃の僕は一体どうやって生活していたのか疑問に思う。ずいぶんといいかげんに過ごしていたことだけは確かだ。


 返済義務のある奨学金を人より多めに借りながら、生活費として使い込み、そのうえで僕は色んなことを決めかねたまま放棄し、部屋の中でごろごろしているだけだった。ふと自分の境遇に思いを馳せては、大いに戦慄した。


 いっそのこと、このまま誰かにゴミ収集車に放り込んでもらって、そのまま連れ去ってもらいたいとも思っていた。


 近所の誰かが捨てた発泡スチロールか木の板がゴミ収集車の後ろに押し込まれてバキバキバキっと音を立てるのを聞くたびに、それを自分の全身の骨が砕ける音のように感じては、妙な脱力感とあきらめの境地に浸った。そう考えるとどこか安心したような気持ちになれた。




 それでもゴミの山に捨てられた僕は、性懲りもなく目的もなく再び立ち上がるだろう。胴体の部分が便器で出来上がったゴミ男として。怪物的ヒーロー、ガーベッジマン。


 普段は他の生物が消化できないゴミを食べて生活している。とてもエコロジーな存在だ。ちなみにセサミストリートに出てくるゴミ箱のオスカーとも大の仲良し。


 そんな僕の第一の活動は、まず、ばらばらになった自分の身体を手探りで拾い集めることだろう。




 そういうどうでもいいことを考えては、ぐっすりと眠った。理由はよく分からないけれど、ビックリするくらいよく眠れた。






        ◇






 だいたい僕が起きる頃には、既に朝ではなく、うかうかしているうちに、すぐに夕方になった。


 お腹が減ると、近くのスーパーに出向き、目ぼしいものを見つけてはそれを買った。


 たまに朝に目が覚めたままのときには、朝食を食べた。順番としては晩御飯だったのかもしれないけれど。


 窓から清々しい日が差し込んできて、朝の時刻にふさわしい爽やかな色味を僕の部屋に与えていた。




 その日の僕らは、前日の夜に半額になっていたアジの南蛮漬けを食パンに挟んで食べていた。君はレモン汁をかけて酸味を追加していた。


 僕はパックに貼られていた半額シールを見ながら、いつか電車に乗っていた時に、襟元に半額シールが貼りつけられたスーツ姿のオジサンがいたことを思い出していた。そのオジサンは心ここにあらずといった実直な表情で、じっと窓の外を見つめていた。きっと服を着忘れてパンツ一丁だったとしても、気にせずその表情を崩さなかっただろう。


 その頃の僕はよく、そうやって過去のどうでもいいようなことまで思い出していた。




 僕はその話を君にした。


「半額シールが貼られていてさ、電車は混んでいて、きっと自分の周りにいた人たちも、あ、このオジサン半額になってる、って思いながら、誰もそのシールを剥がそうとしたり、本人に教えたりもしなかったんだ。みんなが、オジサンのことをそっとしておこうと考えたんだ」


 君はサンドイッチにした南蛮漬けを、むしゃむしゃと一生懸命に咀嚼しながら僕のほうを向いて、話の続きを待った。


「きっと同僚の人か誰かのイタズラだったと思うんだけど、なんでか僕は電車を下りてからも、そのオジサンが元々どのくらい価値があって、半額になったいまはどのくらいの価値なんだろうって気になっちゃってた。その時も、そうやって、どうでもいいことばかり気にしていた気がする。オジサンの半分の価値はどこにいってしまったんだろうって」


「オジサンに価値なんてないでしょ」君は咀嚼を中断して言った。君はよく、気遣いを知らない猫のように遠慮なく暴言を吐いた。僕は君の意見は拾い上げずに続けた。


「なんていうか、半額って見た瞬間に、実際にオジサンに価値があるように感じたし、それが半分になっていることが分かるなんて、不思議だなって、その時は思っただけ」


「ふーん」君はサンドイッチを飲み込みながら、特に興味はなさそうに返事をした。




 もしかして、その半額シールを貼ったのはオジサンのイタズラ好きの同僚ではなくて、ちゃんとした意思を持った誰かの仕業だったら? と僕は改めて考えた。


 きっとその犯人は大量の半額シールを手にしながら、いまも世の中のいろんなものに貼り付けているかもしれない。


 いままさに、街中ですれ違う人たちに半額シールを貼り付けているかもしれない。


 他人を一方的に値付けするどころか一瞬で半分にしてしまうなんて、なかなか悪質な手口だ。道端に停まっている高級車のテールランプに貼り付けて、その後ろの車を運転することになった人に嘲笑的な疑問を持たせたり、新築の高層ビルの裏側にこっそり貼り付けていたりするかもしれない。それを見つけた守衛さんは驚くだろう。


「自分の勤め先が半額になってる!」


 犯人が、世界の株式市場に乗り込み、世界の市場価値そのものを半額にした日には、世の中は大混乱に陥ってしまうだろう。


 捕まった犯人は白々しい態度で言う。


「おれは重大なことは何もしていない。ただシールを貼っただけだ。みんなが勘違いしただけだろう!」






        ◇






 君はよく、思いついたことをすぐに口にした。


「ねえねえ、思いついたんだけど。金持ちだってことを鼻にかけてる人がいたら、こう言ってあげればいいのよ。『すごいですね、お金を発明してくれた人に感謝しなくちゃいけませんね! お金って便利過ぎるくらい便利ですものね』って」






        ◇






 朝食兼晩ご飯を食べ終わると、僕らはいつものように横になった。あいかわらず朝の日差しを感じながら眠りにつく瞬間には、言いようのない心地よさがあった。君は新鮮な森の中で背伸びをしているみたいに満足気に鼻の奥で唸った。


 眠りから覚めると、僕はカップに半分残っていたコーヒーを飲みながら頬杖を突き、ぼんやりしていた。そして、幸せとはこの何もしないことなのだとしたら、どうやって何もせずに維持しようか、と考えた。


 それから、もしかして植物になれば、何もせずに自活していけるかな? なんて考えてみた。


 植物っていいよな、やる気があるとか、ないとか関係なさそうだし。僕は植物について特に詳しかったわけではないけれど、平和で微笑ましく思われたので、心の中でにっこりと微笑んだ。


 今度、観葉植物でも育ててみようかな、なんて僕が考えていると君は唐突に、何か思いついたように言った。


「ねえ、そんなのどうでもいいから、わたしの共犯者になってくれない?」


 君はにやにや笑っていた。






        ◇






 君からの思わぬ頼みに、僕はしばらく黙った。


「なんの?」僕は素直に聞き返した。


「なんでも、とにかく、いずれにせよ」君は正しく答えてくれなかった。


「そう言われてもなあ」僕は君の頼みをどう捉えていいのか分からなかった。


「まあ、わたしをどこかに連れてってくれりゃあいいのよ」君は要求を示した。


「どこに?」僕は見当がつかなかったので聞いた。


「さあ、知らないけど?」どこに行きたいのか、君も知らなかった。




 なんでも、とにかく、いずれにせよ、死ぬほど暇を持て余していた僕は、君の共犯者になることになった。共犯者とはどういうことなのか分からなかったし、どこで何をするのかは全く決まっていなかったけれど。




「もしかして今日これから行くの?」僕は尋ねた。それを聞いた君は首を傾げた。


「明日でもいいかも」君は暫定的に答えた。






        ◇






 翌日、僕らは早朝に眠りにつき、お昼前に目を覚ますと、いつものようにコーヒーを飲んだ。


 それから着替えて、上からコートを着ると、一緒に外に出た。僕の着ていたコートは、叔父さんと体格が同じということで、お下がりで貰ったものだった。生地がロシア文学みたいに分厚くて暖かかった。極寒の地でも活躍できそうなコートだった。




 空気は冷たく、透き通っていた。風のない冬の青空だった。


 僕はあまりにも久しぶりに外に出たせいか、驚くくらいに眩しくて目を開けることができなかった。必死に開けた目に飛び込んでくる景色は全体的にどこか青みがかっていて、目が覚めているはずなのに現実感がなく、起きて外を出歩いているという実感がうまく掴めないほどだった。


 僕は薄目をあけながら歩いた。眩しすぎて僕の瞼には、沁みる目薬をさした後みたいにうっすらと涙が貯まっていた。




 どこに行くかも決めずに歩き続けるのは困難だったので、ひとまず街の中心である駅まで行くことにした。用事も特にないけれど、到着したら折り返そうと考えていた。


 自分でも驚いたけれど、少し日差しを浴びながら歩いただけで、体がちくちくするような感触がした。普段自分がどのくらいのペースで歩いていたのかも忘れてしまっていた。


 知らないうちに色んなことがちぐはぐになっているようだった。




 君は先を急ぐように、ひたすらに僕の前を誇らしげに闊歩していた。


「駅まで行ってさ、どうする?」僕は徐々に疲れを感じながら、君に聞いた。


「さあ、わたしに聞かないでよ」君は、分からないものは分からない、といった様子で答えた。


 目的もなく歩いていると、やたらと心細く、そして長い道のりに感じた。


 ようやく駅前に到着すると、僕は駅前の広場に置いてある石のベンチに腰掛けて安堵した。ベンチはひんやりとしていた。君は僕の隣に座った。






        ◇






 駅前の人通りは僕が思っていたよりも少なくて、ひどく閑散としていた。時間が平日の昼過ぎだったからかもしれない。景色そのものがなんだか寂しくて、急に迷子になったような気分になった。もちろん実際僕にはどこに行く用事も、何かをする目的もなかったけれど。


 僕らはしばらく駅前の景色を眺めていた。あいかわらず眩しさは取れなかった。太陽の方向に目を向けると、頭の奥がチカチカと明滅した。


 何人かが急ぎ足で僕らの前を通り過ぎていった。誰もが決まって僕らの姿が目に入っていないような素振りをしてくれるおかげで、自分が半透明になったように感じ、なぜだかちょっぴり嬉しくなった。


 ちょうど遊覧船に乗りながら、流れていく景色を達観した心持ちで楽しんでいるような気分だった。






        ◇






「どう?」僕は隣に座っている君に聞いた。


「うーん」君は肯定でもなく否定でもなく唸った。


 僕も同じく、うーん、と思いながら、再び目の前の風景を見た。


 忙しそうに歩いている人を見ていると、対照的に、自分の用事のなさが身に沁みてきた。この人たちには、日々の生活を営むだけの目的があって、道筋が見えていて、もしかすれば意味すら感じているのかもしれない。だとすれば、意味を感じている人たちの目の前にいても、まるで意味を為さない僕とは、一体なんなのか。ふとそんなことを考えた。


 自分は誰とも関わり合うことすらできないのではないか。


 人間失格なのではないか。


 そんな言葉が僕の脳裏に浮かんだ。だいぶ前に読んだことがある本の題名なので、覚えていた。




 コートのポケットに手を入れて我慢していたけれど、外でじっと座っていると、さすがに寒さが体に直に堪えてきた。


「寒くなってきたし、そろそろ戻ろうか」僕はそう言いながら立ち上がった。お尻も冷たくて、すでにおじいさんみたいに身体が強張ってしまっていた。僕はいたるところで年を取っているみたいだった。


「うーん」君は生返事をしながら不服そうに立ち上がると、僕の後ろを付いてきた。






        ◇




 


 来た道を戻りながら、僕は人との関わりのなさに思いを馳せた。


 太宰治という人が書いた『人間失格』のことはよく覚えていた。主人公にとても共感できるとの評判で、僕も目を通してみて、衝撃を受けたからだ。読みながらつまんでいたポテトチップスを思わず落としたほどだった。


 人間、失格。その強烈な言葉を目にした瞬間、僕は凍りついた。


 主人公の悩みに比べたら、そもそも僕は人として乗るべき土俵へのエントリーにすら失敗しているんじゃないか? そんな予感に襲われた。自分自身が主人公の苦悩を抱える以前の状態にいるように思えた。これまで僕は気絶したまま生きてきたのではないか、との疑念が湧いた。


 うまく言えないけれど、自分の頭が本のページの余白の寄せ集めでできているような気がした。頭の中が余白だらけでスカスカになっているような気がした。


 僕の生活態度はせいぜい、主人公が飼っていた犬くらいに暢気なものでしかなくて、実際に主人公が犬を飼っていたかどうかは覚えていないけれど、それなら周りの人たちに気を使ってもらって世話までしてくれたことに感謝するしかないじゃないか、と思った。


 僕なんて、とんだ恥知らずだ。そう思った。


 僕はその本を読み終えるまで、主人公のあらゆる苦悩や気遣いを露知らず、人まかせにして生きてきた自分に対して負い目を感じた。


 本から目を離しても、だんだんと主人公の抱えている願いの叶わなさが、世の中そのものの嘆きのように感じられてきて、正直なところ、僕はいたたまれなくなった。


 いたたまれなさを感じながら残りのポテトチップスを食べ終えると、その時の僕は頬杖をついて考えに耽った。


 これと言った議題もなかったので、いまさっき食べたポテトチップスの味の感想以外は、とくに思いつかなかった。しばらく僕は沈黙の中に身を置いていた。そのとき、ため息ではなくゲップをした自分に対して、強烈に嫌気が差したので、ついに考えるのも諦めた。慣れないことはするもんじゃないな、と思った。


 それでも、その時の僕だって他の人から一丁前にシリアスな人だと受け取られてみたいとは思っていた。サスペンスドラマの登場人物みたいにあらゆることに懊悩しながら、身の回りの人間関係や油断ならない状況のあれこれに身悶えしてみたかった。






        ◇






 そんな過去を思い出しながら歩いていると、日差しの眩しさと冷たい空気が同時に鼻にツンときて、思わずくしゃみが出た。


 僕の悩みは、悩めない。くしゃみと同時にそう思った。


 悩みがないわけではないけれど、誰かに相談しようにも自分でもよく分からないから、ただただ悩みづらい。


 その時の僕はそう思った。


 一体全体、僕はどこからやり直せばいいんだ?


 そんな疑問が降って湧いて、僕は再び途方に暮れた。




 君は僕の考え事はお構いなしに、街のビルと空を見上げながら、前を歩き続けていた。


 部屋につくと、僕は全身くたくたになっていた。着ていたコートをハンガーに掛ける気力も無かったので、椅子の背もたれに適当に引っ掛けた。


 疲れてベッドに倒れ込むと、そのままひどい高熱を出して寝込んだ。


 




        ◇






 布団にくるまっていると、体全体が急に熱っぽくなり、全身がだるくて動かせなくなった。僕の体感だと、目玉焼きができあがるくらいには高温になっていたと思う。


 これまで大して具合の悪くなることのなかった僕は、気分的にもひどく落ち込んだ。


 実際のところ僕は、これまで何かの病気で長期間寝込んだこともなければ、いつか車に撥ねられたときも奇跡的に無傷だったし、友達が作った巨大な雪だるまが崩れてきて下敷きになったときにも、危うく窒息しそうになったけれど、なんとか無事だった。


 僕はそうやって何度も生き延びてきていた。


 体の丈夫さには自信があったけれど、その自信は高熱によってあっけなく崩れ去ってしまった。


「いよいよ、ここまでか」僕は自分の命がここで絶たれるのだと思い、早々に観念した。


 自分の意思で身体が動かせなくなるくらいの怠さは、生まれて初めてだった。




 自分の体力の減り具合を甘く見ないほうがよかった、と反省した。おそらく急に歩き過ぎたのかもしれなかった。


 そうこうしているうちに、目眩と吐き気も同時にやってきた。


 目の前が始終ぐらぐらと回るので、横になったまま起き上がれなくなった。少しでも体を動かそうとすると、嵐に翻弄される小舟のように意識がぐらぐらと大きく揺れた。


 胸のあたりに吐き気が感じられても、とくに吐き出すものもなかったので、ただただもやもやと辛い気持ちがするだけだった。


 その時の僕は立ち上がって病院にも行けず、うなされながらも、じっと耐えるしかなかった。






        ◇






 2日経ってようやく熱が引いてきた。症状が和らいだときに隙を見て、よろけながら立ち上がると水を用意して飲んだ。立ち上がった瞬間に世界が一回転するくらいの立ちくらみがした。それからまた急いで横になった。


 自分でも訳が分からなかったけれど、どうやら無事だったみたいだった。


 頭の中は、台風の後におとずれる晴れ間みたいに、開放的だった。


 それでもどことなく体全体の血の巡りが悪くなったように感じられた。


 僕は熱っぽい頭と汗ばんだ体のまま、布団にくるまっていた。ぼんやりした気持ちで仰向けになりながら、ずっと自分の脈を確認していた。心臓はきちんと鼓動していた。




 体調が戻ってもしばらくは、布団に横になっていた。強烈な具合の悪さを体験したせいで、自分が空っぽの容器になってしまったような気がした。大事な悩むべきことを順序立てて整理する余裕もなかった。


 それでも暇だった僕は、なにか別のことを考えた。


 そして、自分の心を惹きつけてくれるものに思いを馳せることにした。


 しばらくして、横になり続けることにも飽きた僕は、テーブルについて、椅子の背もたれに寄りかかった。それからコップに入れた水を飲んだ。病み上がりの僕には水の入ったコップすら鉄でできているみたいに重く感じた。自分の体がこんなにも重く感じるのか、と再び驚いた。僕は一度、目を瞑って大きくため息をついた。今度は正しくため息が出た。


 そして僕の向かい側に座り、こちらを見ながらニヤニヤしている君に聞いた。


「ねえ、どこに行きたい?」

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