第3話 小粋な雑談とやらを交わす

 一通りの仕事を終えたところで、俺はイーゼルの上に新たなキャンバスを立てかける。


 午前中はレオナルドから受けている仕事を、午後は自分の制作をするのが基本的な俺の一日の過ごし方だ。

 その合間を縫うようにして、気分転換を兼ねて細々とした家事をやることもある。(マッケンには「仕事を取らないでください!」とその都度叱られる)


「…………」


 それから小一時間ほど、イーゼルの上のキャンバスをただ眺めて過ごしていた。

 その間、キャンバスの上に一度も筆を走らせていない。


 ここしばらく、俺はずっとこんな感じだった。

 筆を取っても、キャンバスの上に何を描けばいいのか分からない。闇雲に手ばかり動かしても、一体なにを表現したくてなにを伝えたいのかも分からないままにキャンバスを一枚無駄にする。


「……」


 一時間以上こうして眺めているだけの時間を過ごしていることに痺れを切らして、俺はついに筆を取る。

 白い世界に迷い線が生まれていく。一本、二本、三本と……どんどん世界が汚れ・・ていく。


「……ッ」


 心の中の躊躇いが形となっていくにつれて、筆を握る手に力がこもる。

 これではダメだと分かっている。このままではいけないとも思っている。


 やがて俺は音を上げて、椅子の背もたれに背中を預けた。大して長い時間をかけて絵を描いたというわけでもないのに、妙に大きな疲労感がのしかかってくる。


 今日もまた、キャンバスを一枚無駄にしてしまった。


  ***


 結局、自分の絵は進まないまま夕方を迎えた。

 今日はこれ以上のことはできないだろうと見切りをつけた俺は、画材やイーゼルを片付けてレベッカを迎えに家を出た。


 レベッカの職場──イザベラ様のお屋敷は、馬をゆっくり歩かせてうちから三十分ほどの場所にある。

 厩舎に馬を入れ、愛馬の毛並みに軽くブラシをかけながら待っている間に、仕事を終えた彼女が姿を現した。


「おお、レベッカ。お疲れ様」

「お疲れ様です。こちらこそ、お迎えありがとうございます」

「気分転換のついでだよ。馬に乗るのは嫌いじゃないんだ」


 そう返せば、やや気おくれした様子でレベッカは「申し訳ありません」と口にする。

 俺に気を遣わせていると思っているのだろう。表情は微動だにしないものの、長年の付き合いから彼女の気持ちはある程度推し量ることができた。


「アトリエに籠っていると外の空気が恋しくなるんだ。だから君を迎えに来ているのは、俺の都合でしかないよ」


 だから彼女を安心させようとそう言葉を重ねてみせれば、レベッカも僅かに目じりを下げて、「それならよかったです」と言う。


 それからレベッカと共に馬の背に乗り、帰路へ向けて手綱を握った。


「そういえば明日、君を送るついでに姫さんに目通りさせてもらってもいいかい?」

「イザベラ様にですか? 確認をすれば大丈夫かと思いますが……何か御用でも?」

「レオに修繕を頼まれた絵の持ち主が、姫さんだったんだよ。仕上がったなら直接手渡してくれとヤツに頼まれた」

「殿下のことを、ヤツだなんて言ってはいけませんよ」


 と、レベッカが俺を窘めてくる。

 そんな彼女に、ふてくされ気味に俺は返した。


「レオの野郎はヤツ・・でいいんだよ。野郎、いつも良いように人を使いやがって」

「でもそれがお嫌ではないのでしょう? アルベルト様は、本当に嫌なことは絶対にやりたがらない人ですから」

「ああそうだ。だからいつも君をこうして楽しく迎えに来ている」

「……? はぁ、そうなんですか」


 何とも間の抜けた妻の返事である。自分のことになると、どうにもピンと来ないのか、こうした話になるとレベッカは曖昧な相槌を打つことが多い。そういうところが、素朴で可愛らしいとも言えるのだが。


 その後はこれといって会話をすることなく、二人でのんびりと馬に揺られながら歩いた。

 俺とレベッカはどちらも口数の多い方ではない。その上、沈黙が苦痛な性質でもない。


 心地よい沈黙を共有することは、少なくとも俺にとっては心安らぐ時間なのである。


 そんなことを考えながら幸福感で俺が胸を温めていると、出し抜けにレベッカが口を開いた。


「アルベルト様」

「うん? なんだいレベッカ」

「小粋な雑談というものは、一体どのようにしてすればいいのでしょうか?」

「小粋な雑談をしたいのかい?」

「いえ、別にしたくはないんですが」


 ……これはまた仕事で何かあったな?


「とりあえず、聞こうか?」

「いえ、大した話ではないのですが……」


 と言ってレベッカが話し始めたのは、次のようなことであった。


  ***


 今日、イザベラ様の元に客人が訪れたらしい。その客人の名は、イルメルダ・ジオフロント。イザベラ様の妹にあたる、この国の第二王女である。

 そのイルメルダ王女が、イザベラ様と庭でお茶を共にしている最中に、レベッカに次のような言いがかりをつけてきたらしい。


「ちょっと、そこの下女! この私が来たというのに、挨拶の一言もないなんてどういうこと!?」


 ……と。


 そしてレベッカは次のように言葉を返した。


「申し訳ございません、イルメルダ様。私は下女ではなく一介の庭師ですので、普段お客様へのご挨拶、ご案内は別の者が担当しております。必要でしたら担当の者を呼ばせていただきますが、それでよろしいでしょうか?」


  ***


「あー……」


 そこまで話を聞いたところで、俺は納得のため息を漏らした。


 イルメルダ王女といえば気質の烈しさで有名な方だ。端的に言ってしまえば、ちょっとヒステリックが入っていると言い換えてもいい。

 特に他人の礼儀作法や目上の人間に対する挨拶などをことさら重要視する性質で、それが理由でクビにされた使用人なんかもいるという話である。


 そんなイルメルダと、仕事に対して融通の利かないところのあるレベッカとでは、それこそ相性もなにもないだろう。レベッカの振る舞いが、イルメルダ王女にとっては気に食わないだろうことも想像に難くない。


「その後のイルメルダ様の剣幕は物凄いものでした。気が利かない、性格が冷たい、礼儀や態度がなっていない、小粋なジョークや雑談の一つも交わせないなど婦女子としては失敗作だ……それ以外にも色々と言われておりました」

「そうか、色々とか」

「ええ、色々と。途中からなにを言われているのか分からなくなってしまいました」


 分かる。感情的な言い方されると相手の言葉の内容とか逆に頭に入ってこなくなるよな。


「ただ、イルメルダ様の仰ることも確かにもっともだと思える部分もありましたので。とりわけ、いわゆる雑談というものを他人と交わすことは意識的に避けてきたことでもありましたので。人間より植物の方が相手をしていて疲れませんし」

「人間、面倒くさいからなー」

「ええ。面倒くさいことから逃げ続けてきた結果が、今の私の有様なのですが……。あまりにも、対人能力が低すぎて、今日のようなことはこれまでもたびたびありました」


 そりゃそうだろう。

 レベッカは物静かで、他人に対して閉鎖的なきらいがある。社交界にも友達がいない……というか、積極的に作らないようにしてきたらしい。


 そんな彼女にとって、「他人と会話をするのが下手」というのは、自分でも自覚のある欠点ではあるのだろう。


 とはいえ、だ。


「イザベラ様の反応はどうだったんだ?」


 この場合、イルメルダの姫さんの機嫌や面子も大事ではあるが、それ以上に大事なのは雇い主の意向の方である。

 レベッカを名指しで雇ったのは第一王女イザベラの方であって、第二王女イルメルダの方は関係がない。そのため、まずは雇い主がなんて言っているのかを確認する方が先だと思った。


「イザベラ様は大爆笑しておられました」

「さすがはレオの妹だなぁ」

「あと、『面倒くさい人間のあしらい方ぐらいは学んどいた方が楽だぞ』と仰っておりました」

「ますますレオの妹だなぁ。特に責められたり怒られたりは?」

「それはありませんでした。むしろ、庭の仕事にさっさと戻れ、と」


 なるほどなぁ。


「まあ、そういうことなら無理にジョークだの雑談だのってのを頑張らなくてもいいんじゃないか? まあ姫さんの言う通り、面倒くさい人間を上手くあしらえるようになった方がレベッカ自身生きやすくなると思うけど」

「そうでしょうか……」

「うん。……まあ、俺が人にどうこう言えることでもないんだけどな。俺はほら、そういう人間関係とかが嫌すぎて社交界から逃げて絵なんて描いて生きてる人間だから……」

「最近では、絵の修理ばかりでご自身の絵は描かれてませんでしたよね?」

「そこが問題なんだよなぁ……」


 はぁ、と俺はため息をつく。


「そう考えると、レベッカにあれこれ言えるほど俺も立派な人間じゃないんだよなぁ。むしろレベッカの方が、いつも頑張ってて偉いと思ってるし」

「アルベルト様はご立派ですよ」

「立派ぁ? そうかなぁ……」

「悩んでも迷っても、面倒がらずに目の前の問題に一生懸命取り組める方ですから。そういったところに関してはいつも尊敬しております」

「え、急に褒めてくるじゃん。他には他には? もっと色々尊敬できるところとかあったりする?」

「………………………………………………………………」


 長い沈黙が返ってきた。


「あ、ないんだ?」

「すみません、思いつかなくて……」

「いや、うん、いいよ謝らなくて……」


 そういう、嘘や世辞の下手なところも、レベッカの素晴らしいところである。

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