第二章 神坂家 ⑩

「私のぉ……ォ」


 男性の声が不自然に低くなる、その瞳がらんらんと輝いて黄色く濁るのを、透子はぎょっと身を引きながら見た。

 千瑛がまた、指の印を変える。


「俺のどこがああああ、キケンナンダヨオ」


 中指と人差し指を絡ませて手刀のように手首がしなる。


「あっ……モヤが!」


 妙な、モヤのようなものが男にまとわりついている。透子が指さした方向を千瑛も見た。


ろっこんしょうじょうきゅうきゅうにょりつりょうッ!」


 奇妙な動きでたたらを踏んだ千瑛が、男性の頭上からつま先までをまるで切り裂くように手を振り下ろす。


「がっ! はっ……!」


 男性がもがき苦しんで喉を自分でつかんで……、モヤを吐き出す。

 男性は苦しみながら床に転がり、そのモヤが部屋の隅で小さな人形のような形をとるので、透子はひっとおびえた。人形にしては全くわいくない。

 昔、映画で見た恐ろしい化け物のように瘦せていて耳はとがり、顔の半分を占めそうな大きな瞳は黄色く濁っている。耳まで裂けた口がギャッと潰れた声で鳴く。


「花瓶のすぐ左横! 何かいますっ」


 小さな化け物はその場でもがき、苦し紛れに透子を目指して襲い掛かってきたので、透子は「きゃあ!」と顔を押さえて目をつぶった。

 あの鋭い歯でみつかれたら、きっと死んでしまう!

 ダン、と大きな音がして……おそるおそる目をひらくと、なんと千尋がバットを持ってそれを化け物に振り下ろしているところだった。


「グアアアア」

「あ、当たった、のか?」


 叫び声をあげた化け物がすっかり伸びていて、千尋はバットと化け物を見比べながら首を傾げた。


「千尋くん、見えないんじゃ……」

「ええっと、芦屋さんが怯えていた方角に向けて、勘で……」


 バットと従弟いとこを見比べて、千瑛は盛大に呆れている。


「この馬鹿千尋! 鬼をバットで殴るやつがどこにいるんだ!」

「ここにいるじゃん! ……仕方ないだろ、俺は鬼とか見えないし! とりあえずあたりをつけて、思いっきり振り下ろしただけだよ!」

「……むちゃくちゃな奴だな。だから体育会系は嫌いなんだよ。野球馬鹿!」


 千瑛はぼやくと、のびていた化け物を摘まみ上げた。

 それから半身を起こして、きょとん、としている男性に話しかけた。


「浜平さん。お具合はいかがですか? それから、この小鬼に見覚えがありますか?」

「は? お具合……あれ? ここは、どこですか……? 貴方は……千瑛さん?」


 まるでき物がおちたかのような様子に千瑛はため息をつく。


「自覚なし、か」


 千瑛の手の中で化け物……小鬼がもがく。


「わざわざ本拠地に乗り込んでくるとはいい度胸じゃないか? お前の意志か? それともお前の上の奴の命令か? ──言え」


 小鬼はじっと千瑛をみると、ひゃん、と一声あわれに鳴いて、さらさらと灰になって崩れた。透子はあまりの光景に、その場でへなへなと崩れ落ちる。


 鬼……?

 あれが鬼、というモノなのか。あんな気持ちの悪いものが?


 千尋が「大丈夫?」と透子を支えてくれて、いまだにぽかんとしている浜平を、千瑛が苦笑しつつ、立たせた。


「佳乃さん、お茶にしましょう……浜平さんも、少し休ませてさしあげたいし」

「そうですねえ」


 佳乃が笑う。浜平は釈然としない表情のまま客間に通され、透子と千尋は続きの間から大人たちの話をそっとうかがった。

 浜平が落ち着きを取り戻して、千瑛が娘の居場所、つまりは恋人と一緒に暮らしていることを説明すると、浜平はひたすら恐縮して報告を受けた。娘を殴ったことも覚えていないし、自分の中に奇妙なモノがいたことも全く記憶にないのだという。


「最近、いつもひどく暴力的な気分だったのは覚えているんです。何かあると、カッと腹の中が熱くなって……気分がよくなる。そうしてしばらく記憶がないんです……私は娘を、自覚しないままに殴っていたんでしょうか?」


 千瑛はもう大丈夫ですよとにっこり微笑んだ。


「すべて鬼のせいです。妙なものが貴方の中に巣くっていた。娘さんに危害を加えたのは鬼、だから貴方は悪くない」

「ほ、本当ですか?」

「ええ。だからもう、貴方は二度とそんなことはしない。ね、そうでしょう? 娘さんには今日のてんまつをお伝えしておきます。連絡先も預かってきました。……浜平さんが暴力をふるったのが鬼のせいだと分かれば、きっと和解してくれます」


 千瑛の言葉に安心したのか、浜平は安心して何度も礼を言い、帰って行った。

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