第一章 いらない子 ⑤

「こ、この……い、妹のくせに生意気なんだよ、このっ」


 圭一が振り上げた拳をすみれはためらいなく手の甲で打って、更に兄の腹を素早く蹴り上げた。予期せぬ痛みに圭一が情けない声でうめく。


「望んであんたを兄貴にしとらんわ。今のデータ、クラウド上に保存したけん。あんたが透子に何かいけん事したら、あんたの同級生全員に送り付けちゃるけん。五秒数える間に出て行け。でなきゃ玄関先で、朝まであんたの名前を叫び続けてやる、ほら、五───」


 妹の剣幕に、圭一の酔いはすっかりめたらしい。


「かわいげねえんだよ! おめえは!」


 迫力のない悪態をついて圭一は出て行った。


「す、すみれちゃん……」


 へなへなと座り込んだ透子をすみれの手が摑んで立たせた。


「ごめん透子。大丈夫……じゃないよね?」

「ううん。だ、大丈夫。……ちょっとめただけ……」


 すみれと透子は年齢が五つも離れているからべったりと仲がいいというわけではない。だが、透子は彼女が好きだ。


 伯母家族の中で唯一普段から祖母の家に出入りしていたし、透子や祖母が伯母から攻撃を受けそうになるとたまけになってくれたり、逃してくれたりと気遣ってくれていた。

 昨日のように、妙なものに遭遇して透子が困っている時も、何も聞かずに手を差しのべてくれる。


 すみれは透子をリビングの椅子に座らせると冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注いでくれた。透子が落ち着くのを待ってそれから言葉を探してゆっくり問いかけた。


「父さんから聞いたんだけど。母さん、透子に家から出て行けって言ったって?」

「うん……知り合いの会社を紹介するから、高校をやめて住み込みで働いてみたらどうか、って」


 すみれは、そっか、と言って頭をかいた。


「お祖母ちゃん、この家を透子名義にするって言っていたけど、間に合わなかったんだね。一応、万が一で聞くけど……母さんのおすすめに、いい職場とかあった?」


 透子は首を横に振った。すみれは「だよね」と重い息を吐く。


「私、働いた方がいいのかな……」

「まさか! 明治時代じゃあるまいし……。奉公みたいな事させられないよ……」


 社名を聞いたこともない小さな会社ばかりだったし、やりたいと思える業務ではなかった。透子はうつむいたまま、言った。


「私がここにいて迷惑になるなら一人暮らしをしたいと思う。高校卒業まではなんとか通えないか、費用含めて明日学校に相談するつもり。高校を出たら……就職先を探す」


 透子が、自分名義の貯蓄が少しあるんだ、と言うと、すみれは実家の方角を見た。


「うちの母さんに、貯蓄のこと申告しちゃった?」

「して、ない……」

「言わない方がいい。うちはお金に困っているわけじゃないけど、母さんは透子が持っている物は、何でも欲しがるみたいだし」


 それに、と、すみれは淡々とした口調で付け加えた。


「透子の担任ってやまもと先生じゃん? 山本先生、私の高三の時の担任だったんだよね。今でも結構仲良くしているんだけど、さ」


 山本先生は、まだ三十前の若い男性教諭だ。

 ひょろりとした長身でさわやかな人なので、男女共に人気がある。透子はすみれと高校在籍がかぶっていないから山本とすみれが仲がいいのは初耳だった。


「山本先生がどうかした?」

「今日、母さんが透子の退学届を提出しにきた、って」


 透子は悲鳴をあげて立ち上がった。


「そんなの私っ、同意してない!」


 本人に告げず退学届を提出するなんて。どうしてそんな横暴がゆるされるのだろうか。

 すみれは、どうどう……と透子をなだめた。


「『このご時世本人の同意なしに退学届は受理できないから、預かります』って帰らせたって。母さんは手続き終わったってホクホクしているかもしれないけど」

「そんな」

「虐待の通報した方がいいかって悩んだみたいで私に連絡きた。それでもいいと思うけど……」


 すみれは透子の目を見ながら言った。


「透子の味方だったお祖母ばあちゃんはいなくなったし、私はしょせん頼りにならない。遺産だけで一人暮らししつつ高校に行く──、のは現実的には難しいと思う。その……透子、転校するつもりない?」

「え?」

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