第8話 覚悟


 野乃花 茜は十三歳の頃、家族旅行中に腎臓を一つ失った。闇の世界の住人に捕まり、違法手術を強制されたのが原因である。

 彼女は内臓を麻酔なしに摘出された際、家族の顔を思い浮かべた後漠然と自分は死ぬのだと思った。

 興味方位で路地裏に入ったことをひどく後悔した茜は許しを乞うた。もうこれ以上悪いことはしない。お願いだからお家に帰して。と。


 涙が途端に溢れだす。脱出しようとして暴れても拘束具と大人の膂力で阻止される。どうしようもできない状態だった。

 拉致者達が次の臓器を摘出しようとした時、息を切らした錬人が転がり込んできたのだ。

 彼は茜の母を通して攫われたことを知り、古谷家の力を総動員して捜索活動に及んでいたのだ。


 当時から鍛錬を積んでいた彼にとって、有象無象など取るに足らない雑魚共だった。

 血管が浮き出るほどまでに握りしめた拳で敵を倒していく錬人の姿は、彼女には白馬の王子様に映った。


 救護された彼女は退院後、二度とあんな目に遭わないことと彼の隣に立つために必死になって護身術の会得に励んだ。

 茜には才能が有り、僅か数年で著名な大会で優勝するレベルまでに到達してしまった。


 彼女の原動力は錬人に尽くすこと。非常にシンプルであり、そこには自分を犠牲にすることも含まれている。

 沼能がいる部屋へ走って向かっている最中も同様の気持ちであった。二人の間に入ることなどに躊躇いはなく、刺された時は痛みや恐れよりも喜びと達成感に満たされていた。


 誰にもわからない不思議な温もりである。そんなことより焦りと渾沌で追い詰められている錬人は、茜を抱えると反射的に部屋の壁際まで移動する。

 彼女をそっと壁に凭れ掛けると、錬人は声を掠れさせた。


「どうして来たんだよ! 危ないだろうが!」


 彼の激昂に、茜は目を閉じたままほくそ笑む。


「もうちょっと周り見ようよ錬人……まだ、私が居るでしょ?」


「!?」


 錬人は一度唾を飲み込んだ。彼女の発言を聞くまで、自分の口内に涎が大量に溜まっていることに気が付いていなかったのである。

 一瞬だけ頭の中を空にした彼は、深呼吸をして感情を整える。


「……ありがとう茜。ちょっと行ってくるわ」


 彼女は小さく頷くと、安堵したのかほどなくして眠りについた。錬人は自身達に対して見下すような目付きを向けてくる沼能を睨む。そして走り出す。


「何をそんなに呆けている。早く殺されるが吉だぞ」


 彼は右手で胴体の前の空気を斬る。すると大量の罠が錬人目掛けて作動した。矢や砲丸などが容赦なく彼の生命に襲い掛かる。

 しかし彼は気付いていた。配置や作動跡から鑑みるに、残りの罠の数があと僅かだということに。


 一つ一つを確実に避けながら沼能のもとへと近づいていく。錬人の顔に焦燥はない。怒りはうまいこと押し殺し、ただ目的のために歩みを進める。


「なッ! こ、怖くないのか! この僕が!!」


 沼能は必死になって威嚇する。罠が効かなくなるばかりか、武術は錬人の方が圧倒的に上手で勝ち目などない。一応この部屋には地上へと通ずる避難経路はある。

 しかし、例えそれを使って逃走を図ったとしてもすぐに追いつかれて取り押さえられるのは容易に想像できた。


 故に彼には吠えるしか道は無く、自身の夢である世界を手中に収めるのを叶えるためには何としても乗り越えなければならない障壁である。

 だが、それはもはや露となって消える寸前であった。


「沼能ぃぃぃぃぃ!!!」


「く、来るなぁぁぁぁぁ!!!」


 沼能は手当たり次第に周りにあるナイフや椅子、不気味な液体の入った試験官などを投げ付けていく。

 しかし、それは投擲と呼ぶにはあまりにもお粗末であり、日々鍛錬を積んでいる錬人からすれば当たるわけもないしょうもない悪足掻きであった。


 錬人は軽やかな足捌きで彼に近づく。彼は涙と鼻水で滅茶苦茶になった面で尻もちをついていた。


「僕の人生設計図にこんな場面は無いガラバガァァ!!」


 次の瞬間、彼は顔が凹んでしまいそうになるほどの腕力で殴り飛ばされた。ゴムボールのように二、三度床の上を跳ね、途中実験器具を破壊しながら壁に激しく衝突する。

 沼能は全身が打撲した状態で気絶していた。


 ガラスが割れる音や液体が四方八方に飛び散る音が響く中、錬人はすぐさま茜のもとに駆け寄った。

 脈はあるが依然として肩からの出血が止まらない。錬人は自分が来ていた上半身の服を全て脱ぎ、拾ってきた清潔なナイフで包帯状に裂いていく。

 深く刺さったナイフをゆっくりと抜くと、即座に間接法で止血する。


 無我夢中で応急処置を済ませ、ひとまずの安堵の溜息を漏らす。その時、茜が徐に口を開いた。


「……よかった……」


 茜が起きたことに気付いた錬人は、肩の負傷が広がらないように注意しながら彼女を優しく包み込む。


「ああ……そうだな……」


 彼の頬から一筋の光が零れ落ちた。

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