第4話 ニコニコしよう
古谷 史真は、漁に行ったっきり帰ってこなかった父を探すために海洋探索隊員になった。彼は目的に向かって突き進んでいる内にいつの間にか史上最高の海洋探索隊員などと呼ばれるようになっていた。
世間からは称えられ、私生活も充実していたが、彼は悟っていた。これ以上どうやっても親を見つけることはできないと。遺骨も、決して回収できないことも。
ならば、せめて自分は皆がいる範囲で死のう。自分と同じ経験を子にもさせないために。史真は、何年も前からそう心に誓っていた。
月光が窓越しに病室を照らし、カーテンや布団が艶めかしく煌めく。史真は床に着いており、隣には白色の車椅子が置かれている。
近くには引き出し付きの机があり、その上には代えの包帯やタオルが置かれてあった。
一定間隔で呼吸が刻まれ、息を吸うたびに黒い短髪が微動する。男性として理想的な筋肉を持った病衣を着ている彼は、寝返りさえも打たない。
史真以外誰もいない静かな個室に、猫背の男が一人迫ってきていた。彼の名は中野
彼は部屋の前まですり足で寄ると、左手で扉を開ける。沼能の視線の先には車いすに乗ってドヤ顔をキメる史真の姿があった。
「よう闖入者。交番ならここじゃないぜ」
威嚇交じりの眼光を黒い瞳で送りつける史真に対し、沼能は脅迫を籠めた言葉を発する。
「う、うるさいなぁ。怪我人が見栄張ってんじゃねぇよ。大人しく細切れにされろ」
沼能は口元を震わせ、体を前方に丸めながら唸る。
「ハッハッハ! デカいこと言う割には行動が貧弱すぎやしねぇか小僧。そんなんじゃ俺は殺せないぜ」
「う、うるさいうるさいうるさい!! 小僧じゃない沼能だ!! 僕に指図するんじゃない!! 僕はこの世の絶対なんだ!! 誰からも支配されないんだぁぁぁ!!!」
沼能は大きく振りかぶると、史真の喉笛目指して走り出す。史真は両手でハンドリウムを握ると、巧みに旋回して攻撃を避ける。
勢い余ってベッドの上に転倒した沼能は、すぐに起き上がると脚に力を入れて彼に飛び掛かる。
彼はそれさえも華麗に避けて見せた。車椅子を巧みに使いこなす彼に対し、沼能は目尻を吊り上げる。
「動くなぁぁぁ!!」
沼能は闇雲に武器を振り回し始めた。目は充血し、足元は覚束なくなっている。息が絶え絶えな彼に対し、史真は至って普通だった。変化といえば腕などに巻いてある包帯が解けてきたぐらいである。
沼能が自身の懐に入り込んできたタイミングで彼の右手を掴むと、右腕だけで投げ飛ばす。
彼は壁に激突すると、ダンゴムシのように体を丸めて呻く。
史真はその光景を鼻で嗤った。
「もうちぃと鍛錬してから来るべきだったな」
彼はベッドの枕元へ移動すると、手を伸ばしてナースコールを押す。その時、腹部に違和感を感じた。
違和感のある部分をそっと撫でる。温かくてぬるぬるしていた。史真は車椅子を動かして辺りを見渡す。すると、ベッドの下に血塗れの包丁が落ちていた。
途端に彼は机の前に崩れ落ちた。部屋に充満した血特有の臭いが二人の鼻を突く。
沼能は不気味な笑みを浮かべていた。先程投げ飛ばされた時、史真の手が離れた瞬間に包丁を投擲していたのだ。
彼はフラフラと立ち上がる。
「フフフ……どうやら僕の勝ちみたいだね……用は済んだ。帰らせてもらうよ」
そう言って彼は去っていった。場には静寂だけが残り、床に広がった血だまりは月の光に照らされていた。
史真は躰を無理に動かすと、引き出しの中からボイスレコーダーを取り出す。
「ハァ……ハァ……いざって時の物だったが……使うことになるとはな……」
彼はボイスレコーダーの録音ボタンを押すと、気力を振り絞って何かを吹き込んでいった。
夜も明けかけた頃。その報せは突然やって来た。電話で報告を受けた錬人は大急ぎで警察署に駆け込んだ。
錬人は受付の女性にとある部屋まで通された。中は真っ白い空間で、中央には大きな茶色い棺桶が置かれており、それを取り囲むように警察官が数名立っていた。
彼らは非常に暗い顔をしていた。錬人は顔を歪ませ、重い足取りで棺へと向かう。
彼は棺桶の窓を開けた。中を確認した後、静かに元に戻す。そして、もう一度窓を開けた。しかし、結果は変わらなかった。
錬人は膝から崩れ落ちる。全身の力が抜けた彼はただ天井を仰ぎ見ることしかできなかった。
しばらくして頬に川が形成された。号哭は無かった。ただ、鼻をすする音は響いていた。
彼らの夜はより一段と深まっていた。
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