第37話 暖かな刹那(1)


 ぴーひょろろろ……


 遠い何処かから、虹鷹にじたかの鳴く声がする。きっと群青の上を滑って、白星しろほしへ三色の虹の輪を掛けているのだろう。

 

 ユルはぼんやりと微睡みから覚めて、己の横ですうすうと寝息を立てている男を見た。

 少し目元に小皺が寄っている、精悍な男だ。長い鳶色の髪は後ろに編んで下ろして、投げ出されている。薄橙うすだいだいの胸板は厚く、惚れ惚れするくらいによく鍛え上げられている。――否。くらい、ではない。現在進行系で愛でている。

 

 ユルは身體を起こすと、汗ばんだ白髪を搔き上げ、さあ起こしてやろうとタルカンの上へ馬乗りになる。

 だが先手を打ったのはタルカンである。切れ長の目から橄欖石ペリドットの三白眼を覗かせて、顔を顰めてみせる。

 

「……おい、ユル」

「あ、起きちゃった」

 

 ユルは残念、と言いながらもタルカンから降りない。タルカンは寝転がったまま眉間を手で押さえ、低く声を押し鳴らす。

「降りなさい。というか、朝っぱらから何をしようとしている」

「え?再戦しようかな、と」

 けろりとなんとも卑猥な事を言う。タルカンは耳たぶまで真っ赤にして、早口に言い放つ。

「やめなさい。今すぐ降りて、着替えなさい」

「今日は商団も休む日でしょ。いいじゃん」

「よくない。朝からそういうのは全くよろしくない」


 もはや叫びである。ユルはそんなタルカンを可愛い、と思ってからからと笑う。

「もう慣れたけどさ。タルカンって思ったよりウブだよね。考えてみたらお嫁さんもいないし」

「お前が性欲ありすぎるんだ!!例のヤトとやらにそんなことまで習ったのか!!」

 くわっとタルカンが声を張る。ユルは再出立したあの日から、少しずつヤトや自分のことについて語って聞かせた。自分は矢っ張りタルカンとは別の存在であること、死者の魂の集合体のこと、うつわを持った夜の民ザラームのこと。

 そして、ヤトからは既に各地各部族の言葉を習い、読み書き会話は無論のこと、簡単な算術やその他雑多の豆知識なんかもすでに習得していることも語った。

 ユルはそこで初めて、己の習得スピードの異様な速さを知るわけだが、「ふうん、そうなんだ」くらいにしか思わなかった。

 そんなことよりも、タルカンと過ごす時間をいかに増やし、そして「恋人」らしい触れ合いとは何たるかを識ることが彼にとって最重要だったからだ。


 ちなみに、ヤトがその「恋人」たちの行いなぞを教えるはずもなく。ユルはけろりと事実を白状する。

「ううん。これは通り道の街で、人から聞いた」

 ユルの言語能力とタルカンの身体能力を買われ、二人は西方へ向かうとある商団で通訳と護衛として雇われていた。タルカンも初めて知った、草原の民とは縁のない商団だ。

 それで当面の金の心配は無くなったわけだが、兎にも角にも、訪れ宿泊する先々でユルは余計な知識を身に着けた。そして今、ユルがやろうとしていることもそのうちのひとつだ。

 タルカンはその事実に絶望したのか、頭を抱えて声を上げた。

「情操教育……!」

 その言い草に、ユルはムッとする。そもそも、ユルは出会った時点で十六。立派な大人の男である。身體が少しばかし華奢で小柄ゆえによく勘違いされるが、妻だって持てる年齢なのだ。

 ユルはタルカンの鼻先を強く指で弾いて、

「タルカン、おれ、そろそろ十七だよ?いつまでも児童こども扱いしないでくれるかな」

「……それは、そうなのだが」

 うっとタルカンが言葉を詰まらせる。ユルは赤銅色の肌を露わにしたまま上に寝そべって、「だが?」と問い返す。タルカンはその愛らしさのある顔に一瞬怯みそうになるが、それでも突っぱねた。はしたな過ぎる。

「大人でも、朝から晩までやるか!今すぐ降りなさい!」


 えー、と不服そうにしながらも、ユルは渋々と降り、室内へ目を向けた。

 ここは、あの再出立した街からだいぶ西へ向かった先にある、商業都市。その一角にある煉瓦造りの宿屋で、その二階の真ん中のへやだ。

 商人たちに雇われているからと言って、金を無駄遣いできるはずもなく、二人は本来はきっと一人で使うのだろう狭い一室で、一応とばかりに置いてあった鉄組の寝台の上にいた。

 ユルはなお、不服そうに唇を尖らせた。

「明日には出発なのに」

「だからこそ、妙なことで体力を使ってくれるな」

「おれはへーきだよ」

「私が平気じゃない」


 ちなみにこのやり取り。わりと日常茶飯事である。ユルは児童こどもみたいに頬を膨らませながらも、水瓶と手拭いで即席の濡れ布巾を作り、身體を拭う。一応、服を着る前に簡単に身體は清めておこう……くらいの常識は付けた。

 それから頭から暗緑色あんりょくしょくの詰め襟の上着を被り、さらには白色はくしょくの筒袖の左衽さじん服を羽織って帯で留める。後で買い足したものなので、別に他の形でも良かったのだが、そこは敢えて草原の民が着るような着物にした。


 ユルは着替え終えると、寝台に坐るタルカンの横に腰掛けた。タルカンも何時の間にか着替えを終え、乱れた鳶色のおさげを直している。ユルはその綺麗な網目を手でなぞりながら、何となく問う。

「ねえ、タルカン」

「なんだ」

「明日には砂漠なんでしょう」

 やっとだ。やっと、ユルの生まれた場所へ辿り着くのだ。ユルの記憶にはまったく残されていないが、ユルはここで確かに生まれたのだ、とタルカンは知らせたかったらしい。つまりこれが、西方を選んだ理由だ。

 タルカンはようやく髪を紐で縛ると、橄欖石ペリドットを柔らかに細めて微笑む。

「ああ、そうだな」

「本物は初めてだなあ。一面、砂の海」

 夜の地の、黒い砂原なら何度も見た。あれからヤトには会っていないけれど、未だにその黒い砂原は見る。だがきっとの砂原は色鮮やかで、壮大なのだろう。


 ユルがぼんやりと考えていると、タルカンがその大きな手でユルの白髪を撫でる。

「いつかは、本物の海も見に行こうか」

 その言葉に、ユルはきょとんとする。そっちは未だ、夢でも視たことがない。湖ですら驚いたのに、それよりももっと大きいのだと文字としては識っている。――まだまだ、知らない場所はたくさんある。だから、これからもまだまだ、共に進める。

 ユルなタルカンの腕に己の腕を絡めると、柔らかな声で応じる。

「じゃあ次は海、行こう」

「決まりだな」


 ふふ、と笑うタルカン。ユルはじっとそんな穏やかな三白眼を見て、そしてにっと嗤って言う。

「隙あり!」

 タルカンは「は?」と声を溢す間も無く、脇をくすぐられ、押し倒されていた。

 

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